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宗教と道徳について

簡単な質問なんですが、宗教と道徳の違いはなんですか??(簡単といえば、ただ質問文が簡単なんです) よろしくお願いしまう。

みんなの回答

回答No.19

「疑うな」「問うな」「信じろ」と言う発言が有りましたが、本当の宗教は「疑え」「問え」「そして自ら信じろ」ですね。疑問は徹底的に問う。すべては疑問を人問うことから始まります。「自信教人信(自ら信じ人にその信じたところをを教える)」問いを発し、自分が納得して初めて人に勧めることができる…決して他人から強要されるものではありません。それは本当の宗教ではなくカルト宗教です。 平安時代末期から鎌倉時代に生きておられた後鳥羽上皇と言う方がおられました。時の権力者ですね。この方は法然上人の専修念仏を疑い、大弾圧を行い僧侶たちを死罪にし島流しにしました。時が移り、後鳥羽上皇は鎌倉幕府に対するクーデターが失敗し、隠岐へ島流しになりました。そこで何が正しかったのか問いを発し、最後には自分が徹底的に弾圧した念仏こそが正しかったと気づいたのです。極端な例ですが、疑うことから信仰は始まるという意味で書いてみました。

  • agripapa
  • ベストアンサー率0% (0/46)
回答No.18

釈尊はさとりに至る道だけを説いたと言われているけれども 老子の道徳経はそれに近いものがある だから 道徳を老子の道徳経にその源を求め 仏教を釈尊の説いた道にその源を求めるならば 道徳は 哲学であり 宗教的であり。。 ただ、それを知識として知ったからといって誰でも悟りに至れるということではないということなだけなように それはまた道のある通過点でしかないように。。 なのかな `

回答No.17

道徳の考え方は鍼灸医学の基盤をも拵えていますので、 そういう意味でも、それと宗教とは明らかに違います。

回答No.16

更に申し上げます。 道徳では「仁義」もが重用されています。

回答No.15

そもそも道徳には御本尊が必要になっていません。 つまり何かを信仰する必要性さえもが要求されていないのです。 私は常々に此の類いの問題の自問自答を繰り返しておりますので、 直ぐに分かりましたが、他の方々の付け焼刃的な解釈でも構いませんから、 そろそろ締め括られては如何でしょうか?

  • TYWalker
  • ベストアンサー率42% (281/661)
回答No.14

道徳っていうのは「ダメなことはダメだから」お金を盗んだり人を殺したりしちゃいけない。 自律的。 でもそれが弱い人にはできないから「どこかで神様が見てるよ。お金を盗んだり人を殺したりしたら後で地獄行きになるんだよ」よ言われないといけない。 他律的。 #宗教の本質は「見てござる」(御照覧)ということらしいです。 でもだんだん宗教自体が先鋭的になると「邪悪な宗教を信じている異国人からは盗んでもいいんだ」「邪教を信じているやつは殺してやった方がいい(ポア)」とか言い出しますね。 こうなると宗教と道徳が対立しだします。 人間は自分の好みにしたがって生きるのが本道だから、好きなようにすればいいと思いますが。

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.13

僕の解釈です。 上座仏教の八正道が道徳だと思います。 宗教は「疑うな!信じろ!質問するな!」がほとんどでしょうね。 仏教といっても宗教のものもありますが…

  • shuushi
  • ベストアンサー率28% (2/7)
回答No.12

貴方のおっしゃるように簡単な難問ですネ、宗教も道徳も良い人間として生きることの教えですから、線引きは難しいのですが、あえて区別するとしたら、道徳は人に迷惑をかけないようにすること、宗教は積極的に人の役に立とうとする、この意気込みの違いであるということだと思います。これはサッカーで喩えれば、道徳は守備に徹して、宗教は攻撃を主体とするということでしょうか?。 宗教は道徳を当たり前としている。その上に成り立った明るい光の行為であるといえるでしょう。 宗教は人が間に入っているが神の声であります。神と人は親子関係であることを知り、人生の目標が判り、善悪の判断基準を確り持つことになります。目的とは魂を研いて神に育って天に帰ることである。このために親神が与える苦労を魂のパンとして果敢に食ってゆくこと、我利を殺して利他愛に生きることが全てである。積極的に光、愛を発信することが一番の道であることを確信して行動してゆくことになります。 道徳は人の哲学的思索から生まれたものですから、人種や住む世界によってずれがある可能性があります。道徳は夫々の国の天空をみつめる。宗教は天の中心に目を据えるので、地球と宇宙を結ぶ一点の真理でバベルの塔であるといえると思います。 宗教を知ると、人間の良しとする常識と、神が良しとする常識に多くのずれがあることが判ります。天地一切神の声、良くなる仕組みあるのみ、を確信すれば、善悪の判断に迷いは少なくなり確信を持つことができるようになります。 漢字は神示で、計算して行動する地智図です。宗教と道徳の漢字を分析するとほとんど同じ意味になります。つまり兄弟みたいなもんです。ついでに哲学も書いておきます。 宗;小二ワゝ=立身を真魔の間、割礼に和礼をして宇宙の一点(ゝ主神)に叶う働きをする。 教;攵子土ノ=攻撃は神の子として天の法に従って土(世間=腹の虫)を切り裁いていくことである。 道;目ノ一ソ蛇=天地人、頭首腹の殻田に天の法を結んで素粗の頭を育てながら、己の腹の虫の蝮を治めながら進攻する。 徳;心四十〒=心で肢死体(本能)を運ぶ噛みの苦労が神(十)性を育てて、天に届く。 哲;口斤扌=殻田の斧で神の手(置き手)と闘う=肉体本能で世界を判断することですから鉄(光を失う=アイアン=愛が安い)に通じています。 学;子ワツ=子は神風を受け止める、で、割ると和の間、輪の中でプラス思行でツ身(罪)を昇華してゆく=真成武で紳士です。 宗教=天の一点の見方で善悪をを切り裁いてパラダイスに向う。レリジョン=霊離恕運 道徳=神と文通をして肉体をコントロールすれば彼岸に進む。哲学=安い案を育ててゆく戦いが哲学である。 モラリティ=裳羅理呈 哲学=幼知能を罪の津地(肉体)の体験によって育ててゆく。 フィラサフィー=負意羅差吹意

回答No.11

No.10の者ですが その回答について 宗教って何だ.という解釈の仕方に行き着きますが.

回答No.10

道徳の原典を老子の上下経に見出すならば 道徳は宗教といえるだろう. 孔子の論語が乾の道を重んずるとすれば 老子の道徳経は坤の道を示す. 東洋哲学の蘊奥を啓く書である易経の基本的な二つの卦の顕現化と考えられる. 古事記の冒頭の文章に見られるように陰陽の道は日本神道の根本原理でもある. そして老子の言葉は仏教に通ずるものがある.

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