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星一徹の父性?

星一徹みたいな指導法の人に対してものすごい父性愛 だと賞賛している人もいますが、あれはある意味、別の見方をすれば極度の母性愛ということにもなるんじゃないでしょうか。 自立を促すというよりは、ある意味で過保護というか子供の人生を親がコントロールしきろうとしていますよね。

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回答No.1

母性と父性という対語についてもいろいろな解釈が可能かと思いますが.私はこのように考えてみました.母性というのは自分が産んだものを優先します.父性は自分では生み出せませんが母性が産んだものを存在できるかどうか検閲します。一徹の振る舞いはは何とか欧米列強に負けない様に絶えず句風に工夫に工夫を重ねてきた日本そのものの様にも思えます.普通は父性のほうがとおりが良いのではないですか?良ければ外国産のものでも買うというほうがやたらに国産愛用を唱えるよりもなんとなく開けている様に思われます.しかし父性だけだと逆説ですがどこかの植民地になってしまうことが多いようです.その国に父性と母性が兼ね備わっていなければ主体性を持った独立国は産まれないのではないかと思います. もし一徹が母性を兼ね備えていなかったら主体性をもった息子は育たなかったのではないでしょうか.母親がどうしてしまったのかわかりませんが、母性父性は男性女性とは何の関係もないことを考えると納得がいく筋書きなのでしょうか?

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