性愛論の批評と要約

このQ&Aのポイント
  • 性愛論についての批評と要約をまとめました。
  • 人間の身体が性愛に向けられる理由や性愛を拒否することの可能性について考察されています。
  • 愛の形成や社会的な性愛の規範についても触れられています。
回答を見る
  • ベストアンサー

性愛論は いかに為すべきでないか。

性愛論は いかに為すべきでないか。  橋爪大三郎の議論を批評してくださいませんか?  ▲ (橋爪大三郎:性愛論) ~~~~~~~~~~~~~  それでは 人間の身体はなぜ 性愛へとさし向けられているのか? 身体はなぜ もうひとつの身体を求めるのか?  個々の人間にとって 他者の身体を求めることは 絶対の条件ではない。少なからぬ宗教が禁欲を課し 生涯を通じて信者(特に聖職者)に一切の性愛行為を禁じている。性愛を拒否して生きることは可能で そうしたとしても人間の条件から外れたことにはならない。しかし 注意しなければならないのは あるひとが性愛を拒否して生きることは そのひとがそもそも性愛と無縁でありうることを意味しないどころか その反対だということだ。性的身体をそなえた存在だからこそ ひとは性愛を拒否できるのである。性愛を拒否するかぎりにおいて そのひとも潜在的にやはり性愛にさし向けられている(他者の身体と性的に関係している)と言える。  この意味で すべてのひとは 性愛へとさし向けられている。そして 性愛(他者の身体を求めること)へとさし向けられている自己のなかに ひとは愛を自覚する。  愛はどのように修飾され 精神化されようと その根本は 他者の身体を求める自分の身体のダイナミズム(欲動)にある。そしてひとは そのダイナミズムがなぜ自分に訪れてくるのか 理解できない(*)。それは身体にそなわっており そこから自分のところ(精神)にまで立ちのぼってくるように感じられる。そのことは どうしようもない与件である。もっともひとは それに支配されるわけではない。それを否定したり それにあらがったり それを無視したりすることも可能である。身体のダイナミズムは それによって押しとどめられ 一定の形態を与えられる。    * もし理解してしまえば たぶんそれはダイナミズムではなかったことになってしまうであろう。  実はそうした選択と加工と変形のプロセスこそが 愛を形成する。誰かれ構わぬものを愛とよばず このひとでなければという選択を愛とよぶように 身体に根ざしたダイナミズムがそのままストレートに表われたものは 愛ではない。大脳の精神機能が介在し そのダイナミズムを特定の対象のうえに照準(選択)し その社会のコードに合わせて分節し言語化したときに(加工と変形) それはその社会における愛のかたちとなる。  ひとは 性愛のダイナミズムがいったいどこから訪れるか 知らない。だが それがどこへたどりつくかということならば 知っている。それは その社会の性愛に関するコード すなわち性文化のシステムなのだ。それは こう言い換えてもいい。自分がなぜひとを愛するかは たぶん誰にもわからないだろう。しかし いかに愛するか(愛すべきか)ということなら 誰でも知っている(わきまえている) と。   性愛のダイナミズム(いわゆる性欲)は もちろん 人間が有性生殖をする動物であるという条件に由来している。脳のなかのどこかに そのダイナミズムが組み込まれていると思われる。ひとは 自分にそのダイナミズムがそなわっていると感じる。そして どの社会も このダイナミズムを一定の規範に従わせる 性文化をもっている。《愛》の観念は 西欧社会からわが国にもたらされたが だからといってそれ以前のわが国が 性文化(愛の文化)をまったく欠いていたわけではない。しかしそれは ほかの文明の場合とちがって 明確な社会規範をもたらさなかった。  《愛》という漢字は 中国のものである。日本にはこれが 仏教用語として入ってきた。・・・  (『性愛論』1995 序章 ひとはなぜ愛するか pp.11-13)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 引用を途中で切りました。この立論を批評・批判してください。    わたし自身の議論はほとんど無いのです。いかに議論すべきでないかについて 少しく述べます。  ▲ (橋爪 同書) ~~~~~~~~~~  サカナをはじめとしてさまざまな動物の行動〔は〕 生得的な反射の連鎖(積み重ね)によってできている。その証拠に・・・本物の代わりにそっくりの色をぬった張りぼてのサカナをくねくね踊るように泳がせたりすると 彼らはすっかり間違えてそれに応ずるのである。・・・   ・・・それに対してわれわれは 人間の《愛》は決して反射の積み重ねなんかではない という感想をもつ。この感想が正しいかどうか いちおう疑ってみる必要があるとしても われわれは《愛》を 〔それよりも〕はるかに複雑なものと想定しよう。   (pp.1-2)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまりこの《複雑さ》を 《反射行動の積み重ね》なる型に嵌め込んでしまってはなるまいと。(ニ千字にて)。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.2

1 愛の対象は、他者の身体には限られないのではないか、ということと、 2 「誰でも知っている」「一定の規範に従わせる」というところが多少乱暴ではないか、と思われました。

bragelonne
質問者

お礼

 くりなるさん ご回答をありがとうございます。  ★ 1 愛の対象は、他者の身体には限られないのではないか、ということ  ☆ これは たぶんおっしゃるとおりだと――まづは特に現象から捉えて―― 考えます。  そして 橋爪もしくはわたしは この《他者の身体を求める》という欲動に発する感情と思惟とさらにはその意志行為 これをここでは《愛》とよび この定義に 狭い形においてとしても まづは決めますし こだわるものと思います。  言いかえると その定義からはみ出すほかの内容は 提出され問題提起されたときに そのつど取り上げるという段取りです。  もし不都合な点があれば あるいは これこれこのように定義したほうがよいだろうという提案などがありましたら おしえてください。  ★ 2 「誰でも知っている」「一定の規範に従わせる」というところが多少乱暴ではないか、と思われました。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  すなわち性文化のシステムなのだ。それは こう言い換えてもいい。自分がなぜひとを愛するかは たぶん誰にもわからないだろう。しかし いかに愛するか(愛すべきか)ということなら 誰でも知っている(わきまえている) と。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここですね。どうですかねぇ。  たとえば 《近親婚の禁止》 これも性文化のシステムの中に組み込まれていると思います。《誰もが知っている》と言えませんか?  否定命令もしくは禁忌というかたちで受け取る場合と そうではなく性愛を含む愛を――それが 単純に捉えて 人間どうしの社会的な関係であるのですから――近しい間柄からさらに遠くへ広げるという欲求であり動きであると受け止める場合とでは違うかも知れませんが このシステムの一環について 人びとは《いかに愛するか(愛すべきか)ということなら 誰でも知っている(わきまえている)》と言えませんか? 単純にすぎますか?  次には  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~   脳のなかのどこかに そのダイナミズムが組み込まれていると思われる。ひとは 自分にそのダイナミズムがそなわっていると感じる。そして どの社会も このダイナミズムを一定の規範に従わせる 性文化をもっている。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここですね。たぶん次のようにきちんと述べていればよかったかも知れません。(他人の文章について 勝手に思うだけですが)。  ▲(修正) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ひとは 自分にその〔《愛》をめぐる〕ダイナミズムがそなわっていると感じる。〔そしてこのダイナミズムをしっかりと受けとめて 生活の全体として・また人格の全体として 自己表現をおこなう。自己表現しつつ わたしたちは生きる。  そのときの生活態度が思想であり この思想は 人びとそれぞれの互いの生活態度として言わば競い合う。対話であり 話し合いである。そこから共通のよき中身を取り出したものが 共同の主観(コモンセンス)である。この《常識》にもとづき 人びとは共同生活および共同自治をおこなう。  共同主観は 一定の単位体としての社会において取り決められたとするなら 掟(置きて= laid ⇒ law )となる。この結果 一定の歴史を経ていくと〕どの社会も このダイナミズムを一定の規範に従わせる 性文化をもっている。〔という情況が現われる〕。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 少し乱暴でしたね。素通りしていました。よく読まれていますね。  (1)など また何かありましたら よろしくどうぞ。  あっ 《規範に従わせる》という制約もしくは押しつけの要素がいけないということでしょうか?  それはそうでしょうね。  あくまで人びとが 自由に話し合って取り決めたということですが たぶんときが経つにつれて 昔の共同主観は観念化してふるい共同観念になってしまいます。もしくは新しい時代の現実には合わない共同の幻想でしかないようになる。こういった歴史的な流れがあるということでしょうか?

その他の回答 (8)

noname#117439
noname#117439
回答No.9

オコリザルです。 「愛」と言う言葉の刻印が書き記す通り、性愛もまた欲動とは無縁です。 >もし理解してしまえば たぶんそれはダイナミズムではなかったことになってしまうであろう。 これが正解。 ただし、理解不能が欲動では無く、感情で無いのが欲動です。 感情に由来しなければ「脳」及び身体からも遊離している事になります。 欲動の謎についてはこのように解釈しています。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 「愛」と言う言葉の刻印が書き記す通り、性愛もまた欲動とは無縁です。  ☆ 愛は ブディズムで渇愛とか言って そして昔はその系譜で一般に受けとめられていたようで むしろそのまま性愛という概念にも近いものだったようですね。(たとえば戦後からは もうそのような使い方は お目にかからなかったとも思いますが。つまり ラヴと同じような意味で使っていたと思います)。  たしかに性愛は 欲動と言った場合にも 単なる感情と捉えて済ませるものでもないでしょうね。  ▲ 性愛にさし向けられる  ☆ と橋爪は言っていますね。《感情にさし向けられる》といった状態は あまりないですから。感情は われわれの意識が性愛にさし向けられたそのあとの気持ちなのでしょうね。あるいは その前の気持ちもあるでしょうか。好きだとか。ウマが合うだとか。  《身体》に根ざす力のような動きが ひるがえって もし汲めども尽きぬ泉のごときものであるのならば それは何らかのかたちで われわれ人間の存在それ自体の伸びだとも考えられます。《善》だとも考えられます。考えられませんか?  少しご議論の中身で言葉が錯綜している部分があるように思いましたが 上のような感想を持ちました。いかがでしょう?

noname#111961
noname#111961
回答No.8

少しズレますが、社会の問題点は競争原理だと思います。誰もがあらゆる場面で戦略を強いられ、比較され、差別視される格差社会です。その中に比較に左右されないで接することが可能な関係があります。家族や友人や一部の恋人などの関係です。宗教でよく云われる教えは、簡単には比較に左右されないということです。しかし現実は前に書いた装飾や本能…競争原理に支配されているため、比較に終始して表面的になってしまう。

bragelonne
質問者

お礼

 19841116 さん ご回答をありがとうございます。  なるほど。ひとは 自分をほかの者とつねに比べてしまうということですね。  少しでも あいつより上でありたい。あの人間よりは上にいたい。  だから ほんとはそんなことをしたって 大した差をつけられるものではないのに 《不自然なかざり》を自分にはつけようとする。ややもすると この飾りをつけからかして自分の周りに垣根をつくってしまう。へたをすると 友だちに対してさえこの孔雀の羽根をひけらかしてしまう。たしかに  ★ 社会の問題点は競争原理だと思います。  ☆ でしょうね。そうして わたしなどは《宗教に言われる》前にも そうは言うものの  ★ その中に比較に左右されないで接することが可能な関係があります。家族や友人や一部の恋人などの関係です。  ☆ と思うし これを一人ひとりがしっかりと 柔軟にも 固めたいですね。  そうして たぶん このふつうの社会的な愛は 性愛論とかかわっているのだと思います。いえ 《論》とではなく 実際のツイ関係とそして一般の二角関係とですね。  それだったら 通俗的に言って 二人は 三角関係に落ち入るおそれは少ないでしょう。もしややもして そういう泥沼に陥るというときには 一方は容易に分かりますし ひょっとすると周りの友だちでさえ感づくようになるとすら思えます。  こうなると メロドラマなどは上がったりになるかも知れませんが。  あれーぇ また話しが勝手にすすんぢゃって。  ★ しかし現実は前に書いた装飾や本能…競争原理に支配されているため、比較に終始して表面的になってしまう。  ☆ だいじょうぶですよ ここまで人びとも分かっているとしたなら。  ひょっとすると われわれ日本人は たしかにご多分に漏れずこの競争原理に立っている部分が大きいと思われるとした場合 それでも 日本人は互いにゆづり合いつつ 謙遜しつつ 競い合っているのかも知れません。つまり《飾り》を出来るだけ落とそう・つけないでおこうというかたちで競争しているのかも知れません。――ふるいですかねぇ。

回答No.7

ぶらじゅろんぬさん。こんんちわ。 6番です。 丁寧なご返信ありがとうございます。 すみません、あまり元気がないので一言だけです。 他の場所で、 ☆人間にとって必要不可欠と思われる「族」を  維持するのはとても困難に思われる、  それはダイナミズムを持っているからで、  なぜダイナミズムを持つのか、 というような内容の質問を拝見し、 (質問の内容を誤解しているかもしれませんが)、 「さよならだけが人生だ」 これは、 >人間の《愛》は決して反射の積み重ねなんかではない :これを受けて、 ダイナミズムは必ずさよならする、 生まれては消える、 ダイナミズムから自由になった時間を持つことができる、 という意味で書きました。 たとえば家の中に転がっているエロ本を 勝手に捨ててしまっても、 たぶん買った人はそんなに困らないように、 という説明でいいのだろうか。 >《流動しない》ですか? >あくまでも想定であり  :それが、この人の言っている【愛(?)】 なのかなあと思って「流動しない」と書いたのですが、 【】の中は、「愛」で、いいのかなあ。 あと、少し違和感を覚えたのは、 >ダイナミズムがそのままストレートに表われたものは 【愛】ではない。 :ここなんですが、「愛ではない」のですか? 単に「愛」という言葉の意味を わたしがよく理解できていないだけかもしれませんが、 「愛」は「欲」以外の何ものでもないように思っていたので。 【】の中に別の言葉が入っていたら納得したかもしれません。 すみません、しゃべる気満々だったのですが、 個人的事情により、 数日か数週間か数ヶ月、電子媒体から離れます。 お邪魔しました。 ありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 ねうとらるさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 電子媒体から離れます。  ☆ いやぁ お忙しいかただ。それが どうも活力の源であるのかも知れませんね。  分かりませんから それは措いてとしまして。  誤解してしまったようですね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  「さよならだけが人生だ」  これは、  ・・・  ダイナミズムから自由になった時間を持つことができる、  という意味で書きました。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なるほど。分かりました。ただ  ▲ 性愛のダイナミズム(いわゆる性欲)  ☆ に対して《さよならする》ということは どうなんでしょうね? どういう事態を言うのでしょう? ブディズムで言えば 出家するといったことなんでしょうか?  いえ だって 何なにから《自由になった時間》というのは その《何々》を捨てるとか離れるとかだけを意味するわけでもないでしょう。《ダイナミズムを自由に 公共の観点からも塩梅よく自由に 用いることができる》という意味もあるのぢゃないですか? それは パートナーとの共同の意志行為でもあるはずですが?  とは言うものの 歳を取っても そして若いならなおさら そんなことはむつかしいのですが。でも思いきって 大ほらを吹いておきましょうか。たぶん ダイナミズムから自由な時間というのは すでに境地が違って来ていて――そのツイ関係において 二人がそれぞれ及びともに 境地を深めて来ていて―― いわば次元が違うと言えるかも知れない。  その意味では エロ本を買って持っている人の自由意志をも尊重してやってください。境地を高めていく巡礼の旅路を 本人の心のおもむくところに従って あゆむように見ていましょう。  もしエロ本を勝手に処分するというのでしたら それに対してはぎゃくにわたしから こう返しましょう。  ★ ~~~~~~~~~~~    >ダイナミズムがそのままストレートに表われたものは 【愛】ではない。  :ここなんですが、「愛ではない」のですか?  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ ただし さらに二転三転して これは《愛》ではないとわたしは思います。  これも微妙だと思われることには 《ダイナミズムがそのままストレートに表われたもの》は 愛ではないと言えると思いますが  《〈ダイナミズムがそのままストレートに表われたもの〉を ひとりの人間として社会的な存在として・その意味で公共的な人間関係という場に身を置く者として そのダイナミズムにわが精神がひざを折るかのごとく屈するという場合がある》と思います。このとき その判断を為す意志は 《愛》に属していると考えます。  まぼろしの声として:  ところが 《神は愛なり》と言われたようなのです。  結婚は善であると。手段として善であるというよりは 結婚それ自体が善であるのだと。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  他の場所で、   ☆ 人間にとって必要不可欠と思われる「族」を   維持するのはとても困難に思われる、   それはダイナミズムを持っているからで、   なぜダイナミズムを持つのか、  というような内容の質問を拝見し、  (質問の内容を誤解しているかもしれませんが)、  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この部分は ピンと来るようでいて 全体としては――過去の質問を探してみましたが――まだしっくりと理解がおさまらないでいます。ちょっと保留とします。考えたりしてみます。  前言をひるがえしても《自由》の概念を裏切るわけではないと思いますよ。

回答No.6

葡羅儒論縫さん。こんばんわ。 宙ぶらりんです。やっとかめでございます。 すみません、回答ではなく、 お願い、をいたしたく、お邪魔しました。 引用の文を斜めに読んで、 なんとかわたしが拾うことができたのは、 ☆ 無視というのは、 communication(あるいは表現?)の一つで、 所詮「無関心である」ことはできない。 ☆ >反射の積み重ねなんかではない :常に流動し、常に自由であることができる。 (さよならだけが人生だ?) ☆ しかし、人間には、どうやら、 流動しないものが、あるらしい、 と考えることもできそうである。 と、だいたいこのようなことなのですが、 わたしが理解できていない部分で、 (あるいはわたしが誤解している部分で)、 どうしても省くことのできない、 どうしても強調しておくべき要素があれば、 できれば もう少し平たく説明していただけませんか。 とりあえず、 教えてもえらいたくお邪魔したのですが、 次にいつ現れるか、分かりません。 現れるか現れないかも分かりません。 しかし補足欄に何か書いていただければ、 必ず読みます。

bragelonne
質問者

補足

 やっとかめは 八十日ぶりということですか? ぢゃあ もっと行っているかも知らんですな。  《 photo 》は絵ですか写真ですか?  《縫》は 訓読みだ。おもしろい。  こんばんは 非右非左さん。ご回答をありがとうございます。  ★ 無視というのは、 / communication(あるいは表現?)の一つで、 / 所詮「無関心である」ことはできない。  ☆ まづその箇所を読みなおします。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~  自分の身体のダイナミズム(欲動)・・・がなぜ自分に訪れてくるのか 理解できない(*)。それは身体にそなわっており そこから自分のところ(精神)にまで立ちのぼってくるように感じられる。そのことは どうしようもない与件である。  もっともひとは それに支配されるわけではない。それを否定したり それにあらがったり それを無視したりすることも可能である。身体のダイナミズムは それによって押しとどめられ 一定の形態を与えられる。    * もし理解してしまえば たぶんそれはダイナミズムではなかったことになってしまうであろう。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 微妙ですが ここでの《無視》は その対象が人間という存在ではないということだと思います。ただ 確かに生命の躍動の一部であり 生の一部である。しかも その躍動には 相手がいる場合さえある。相手の存在がまぎれもなくあるなら 存在のことではないのか? という突っ込みが入りますから 微妙です。  相手の存在がすでにある場合には おそらく それでもまだ 人間どうしの・人格全体をとおしてのまじわり(交通)には到っていない段階でのことだと推し測ります。どうでしょう?  ▲ 人間の《愛》は決して反射の積み重ねなんかではない という感想をもつ。  ☆ この命題の意味するところは 本能かそれに近い情動の次元ではなく ひとは自由意志によって選択し相手を互いにつれあいとして決めるということがある。両性の合意という鍵を握る行為が存在するのだと言っているのではないでしょうか?  ★ さよなら  ☆ も一般にあり得ますが   ★ 常に流動し、常に自由であることができる。  ☆ とは言える段階と言えなくなる段階とがあるでしょう。何らかのかたちで二人のツイ(対)関係がその意思表示と合意があって成ったあとは あたかも―― 一般に婚姻の状態に入ることによって――二人は同じひとつの人格にさえなります。どちらも 自分だけの意志で 二人やその家のことを決められるものではなくなります。ただし しかるべき事由によれば さよならもあり得るのだと思います。  ★ しかし、人間には、どうやら、 / 流動しないものが、あるらしい、 / と考えることもできそうである。  ☆ これは 何でしょう? 《流動しない》ですか? 人間とそのものごとで朽ちないものはないですよね? 無常という言い方は控えますが 移り変わりゆくものばかりですね。もちろん《不動》の何ものかを想定することが出来ますが。あくまでも想定であり それは神のことですが。  ですからこの神とわたしとの関係として それは 思考に非ずという非思考のことですよね? 非思考の領域では 《流動しないものがあるらしい と人はその主観内面において 自由に心の伸び(志向性)を持ちこれを見ていることが出来る》。ですかね? ――だったら たとえさよならをしても その心の伸びもしくは心の明けとしての窓のあたりでは わが愛はとわにあれかしと思っていることができると思います。  お礼欄を開けておくことにしました。たとえ閉めたあとでも お礼欄なら何か書き込むことができます。                      これでいいのかなぁ。

noname#117439
noname#117439
回答No.5

オコリザルです。 AVビデオやその手の娯楽漫画の類をながめると、行為に置いて女優さんが「「いってー、いってーいっしょにいってー」とか何とか言って、実際に射精のタイミングに合わせます。 直感的に射精のタイミングが判っているからできるのですが、ならば精神的な愛を交わす交流を主体にした営みとなります。 女体を利用してただマスタベーションしているだけの潜在的な変質者については行為が愛の交流とならないためとてもへたくそなんでしょう。 明白にへたなら愛の不感症です。 性愛の本質は、愛の交流であり、耽美的な側面もありますが、生殖行為及び伴侶への愛撫として健康的な生きる営みにはついて回ります。 性愛について宗教的取り組みを禁欲と解釈するのは過ちです。 宗教家はアホです。 伴侶に対する愛し方の選択と自制が実際です。 性愛は自然の摂理にかなった営みであり、自制も本来はおかしいのですが、禁欲との対比なら自制が本来です。 人間を愛せない聖職者の語る神とはまやかしでしょう。 仏と表現してその実態を考慮しないクソ坊主は自分は信仰を全うしていると過信するのでなおさら始末が悪い。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  まづ思うことは 質問の趣旨における橋爪の文章とどう絡むのか分からないところです。  また 性愛論は どうあってはいけないかについて問うています。性愛論そのものを――述べてもらってもよいのですが―― ここで説いて回答とするというのは 趣旨から外れると思います。つまり 性愛とはどういう事態かといった問いではないのです。(むろん定義をしたり 性愛の中身はこれこれこういうことだと説いてそのあと 橋爪理論やわたしの問いに答えてもらえればよいのです)。  具体的に分からないところを挙げて行きます。  まづ  ★ 愛  ☆ をどういう意味内容において使っておられるのかです。  ★ 精神的な愛を交わす交流 / 愛の交流 / 愛の不感症 / 人間を愛せない聖職者  ☆ これらの語句が分かりづらいです。性愛との違いですね。  ★ 性愛は自然の摂理にかなった営みであり、自制も本来はおかしいのですが、禁欲との対比なら自制が本来です。  ☆ いまここでの文章には 《摂理》という言葉を用いたなら やはり定義が必要になると考えます。  ★☆ 自然にかなった営み / 人間にとって自然の営み  ☆ だったら――非自然である文化と対比させたかたちにおいて―― 分かると思います。そこに《摂理》を持ってくると ややこしくなりませんか?  ★ 自制・禁欲  ☆ はいづれも おそらくこの質問では 主要な課題ではないと考えます。言いかえると この自制なり禁欲なりを議論に入れるとしたなら その結果 性愛論がどう変わるのか・入れないとどういう欠陥が議論に出て来るのか それを明らかにしていただくとよいと思います。そういう質問の趣旨ですが どうでしょう?

回答No.4

#1の者です。 「性愛を隠さない伝統文化においても、性愛を表にあらわすと穢れでは」との事ですが、ブータンの民家の壁には巨大な男性器が描かれる(あるいは花や傘などの吉祥紋)ことが常ですが、これも「穢れ」で飾ろうとしているのでしょうか? 同様に、多くのアニミズムにおいて、男性器(金精様)や女性器を祀っています。 (ちなみにここは質問サイトであり、継続的な議論を招く回答やお礼は禁じられています。ガイドラインをお読み下さい)

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ (ちなみにここは質問サイトであり、継続的な議論を招く回答やお礼は禁じられています。ガイドラインをお読み下さい)  ☆ これは面妖な。情報の交換だというふうに触れました。質問者からの情報も 意見を述べるかたちになっても 交換されてだいじょうぶですよ。それに 回答者は 質問者からいかに補足要求が――あ そう言えばこの用語はなくなりましたが――出されていても いつでも自由にやめることができます。  やり取りしている情報の中につまびらかにし得ないことがあれば どちらからでも いくらでも問い求めるのは 何らおかしくありません。  ★ 「性愛を隠さない伝統文化においても、性愛を表にあらわすと穢れでは」との事ですが、・・・  ☆ まづ《性愛を表にあらわすと穢れでは》の《穢れ》を言ったつもりはなかったのですが あっ そんなふうに述べてしまっていたかとまづ思いました。不本意ですから。  ところが 見直してみると そうは言っていませんね。つぎのようです。  ☆☆ (No.1お礼欄) ~~~~~~~~~~~~   おそらく表の世界も裏の世界もないと思うのですが いかがでしょう?   と言ってもまだ何にも説明していません。つまりもともと おそらく特定のふたりの世界をかたちづくると思われるいとなみに関しては――すなわち着衣か無着衣かの問題はいま措いておきますが―― 言うとすれば密室のわざであり その限りでウラの世界にあると言えるのではないでしょうか?   裸かそれをおおうかは どうでしょう? どうでしょうね? わたしにはよく分かりません。(あまり考えたことがないという意味にとってくださるとありがたいです)。いづれの場合にも すなわち裸にせよそうでないにせよ 肌を一部分は露出するにせよ一般の服装から見て異形と見える姿をよそおうが そのひとに下心があればあるということですし なければない。まづはこのように単純に捉えます。  この限りで 主観史観に立ちます。個人史観ですね。《文明》? 何するものぞ! という心構えです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 表か裏かで 穢れかそうでないかを決めるとは言っていません。社会一般の風習によって決めるとも言っていません。総体としての文明のかたちや中身によっては決めないとさえ言っています。言いかえると  ☆☆ (No.1お礼欄) ~~~~~~~~~~    ▲ (橋爪〔の代弁?〕) 「裸がワイセツ」ではなかったというその“文明化”以前 性愛はもし表の世界にあったとしたら それは《穢れ》てはいなかったのか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という問いを出したのは あくまで問い返しとしての表現です。最後の疑問を受けて 《やっぱり 〈穢れ〉だったであろう》といった見方を提出しているというわけのものではなかった。でも そういう解釈を与えてしまったのは わたくしの犯した行き違いでしたから その点 ごめんなさい。つつしんでお詫びを申し上げます。  確認ですが あくまで  ☆☆ おそらく表の世界も裏の世界もないと思うのですが いかがでしょう?  ☆ これです。  ですから  ★ ブータンの民家の壁には巨大な男性器が描かれる(あるいは花や傘などの吉祥紋)ことが常ですが、これも「穢れ」で飾ろうとしているのでしょうか?  ☆ につきましても 答えは イエスでもノーでもありません。それは そういう風習があるということなだけですから。表だからどう裏だからこうもなく またそのこと自体に穢れも清らかさもありません。と見ます。  こんなところですが どうでしょう? (この問いかけに どうしても答える義務があるものではありません)。

noname#111961
noname#111961
回答No.3

愛とは、社会の文明文化などにより装飾された不自然と、本能的な欲求が結びついているものです。

bragelonne
質問者

お礼

 19841116 さん ご回答をありがとうございます。  たぶん おっしゃるとおりだとわたしも思います。  ★ 本能的な欲求  ☆ という《自然》は 橋爪の言うところの  ▲ 他者の身体を求める自分の身体のダイナミズム(欲動)  ☆ なのでしょうね。  ▲ この意味で すべてのひとは 性愛へとさし向けられている。  ☆ 性愛ないし性愛関係は 両性のツイ(対)関係としてわたしは捉えています。  ▲ そして 性愛(他者の身体を求めること)へとさし向けられている自己のなかに ひとは愛を自覚する。  ☆ おそらくここに自覚した《愛》は その水源としてのツイ関係(ないしその欲動)を含みつつ それを超え出ようともしている愛なのでしょうね。言いかえると 一般にふたりの人間どうしのまじわり(交通)としての二角関係――そこにおける 友情やら信頼関係だとかの愛――をも視野に入れているのだと思います。  どうでしょう? ここまでの段階において この愛は 《自然》をはみ出してしまったでしょうか? 留まっていると見るべきでしょうか? すなわち  ★ 社会の文明文化などにより装飾された不自然  ☆ という要素に取って代わられたでしょうか? それともこれら両要素が それぞれ別々にあって ひとりの人間の内に合わさっていると見るでしょうか?    ☆ たぶん ツイ関係としての《本能的な欲求:他者の身体を求める欲動・性愛》から二角関係としての《友情・信頼・それとしての愛》がつちかわれ これを基にして生活態度としての思想が編まれていき そこから――つまり 互いの思想のすり合わせをつうじて―― 非自然としての・つまりは社会制度としての文化が持たれる。  おそらくこの時点では 《自然:性愛→愛→社会の仕組みとしての文化:非自然》というその文化も 人びとに共通の共同主観(常識)として まだ みづみづしい。  そこから おそらく歴史の移り変わりをつうじて 常識もふるくなる。観念化する。現実から遊離する。幻想と化す。こうして しかもこの共同の観念もしくは幻想は まだまだ社会的に有力であって いろんな手練手管をつかって みづからを保守し持ちこたえる場合がある。 すなわち   ★ 社会の文明文化などにより装飾された不自然  ☆ の様相を呈してでも 生き延びようとする場合がある。  ここで愛も したがって たとば身分制のもとで 友情としても男女の愛としても その身分の差という観念に縛られて身動きすることが出来ない状態にもなると考えられます。そうであったと考えられます。現代では その縛りから自由になったでしょうか?  あぁ ずいぶんおしゃべりでした。が どうでしょう?

回答No.1

近代化以前の、自然と一体化し、千年単位の厳密な伝統文化(=モラル)が支配していた時代(今でも一部の途上国で)、肌を露出し、夜這いを常としても、性の乱れはなかった。 「裸がワイセツ」になった“文明化”以降、性愛は穢れた裏の世界に押しやられたのです。 原住民の裸がワイセツなのではなく、裸を目にすると四六時中発情するので衣服で隠さねばならない、現代人の心の方がワイセツなのです。 人類が認識力を発達させる上で、肉体に付属した感覚器官から入力されるため、それを成立させている遺伝子(=種)とは解離した、自己中心的な傾向があります(性欲も“自己チュー”に発露させるようになる)。 淘汰は、常に種の進化を指向するので、そうした自己中心性を抑圧する他律的システム(モラル、宗教、法規)を発達させます。 (だから「抑圧」する側の宗教者は、禁欲性が求められがち) しかし、人の生きる真の目的である“精神的充足量の人生を通算した最大化”において、自己存在の本質(社会生命性の自覚化=愛)に基づく自律的生(達成の認識=充足)に比べて、先述の「他律性」はマイナスです。 裸が恥ずかしいのではなく、着衣の方が恥ずかしいのです。 (環境が快適で意識が社会的なら、裸こそが理想)

bragelonne
質問者

お礼

 サイテックスさん ご回答をありがとうございます。  そうですね。近代・現代の文明批判をぶっておられますね。  ★ 「裸がワイセツ」になった“文明化”以降、性愛は穢れた裏の世界に押しやられたのです。  ☆ たぶんですが たぶん 橋爪大三郎が聞いたら こう問い返すのではないでしょうか?   ▲ (橋爪〔の代弁?〕) 「裸がワイセツ」ではなかったというその“文明化”以前 性愛はもし表の世界にあったとしたら それは《穢れ》てはいなかったのか?  ☆ おそらく表の世界も裏の世界もないと思うのですが いかがでしょう?  と言ってもまだ何にも説明していません。つまりもともと おそらく特定のふたりの世界をかたちづくると思われるいとなみに関しては――すなわち着衣か無着衣かの問題はいま措いておきますが―― 言うとすれば密室のわざであり その限りでウラの世界にあると言えるのではないでしょうか?  裸かそれをおおうかは どうでしょう? どうでしょうね? わたしにはよく分かりません。(あまり考えたことがないという意味にとってくださるとありがたいです)。いづれの場合にも すなわち裸にせよそうでないにせよ 肌を一部分は露出するにせよ一般の服装から見て異形と見える姿をよそおうが そのひとに下心があればあるということですし なければない。まづはこのように単純に捉えます。  この限りで 主観史観に立ちます。個人史観ですね。《文明》? 何するものぞ! という心構えです。  ★ 自己チュウ  ☆ という言葉を使われているのをよく見かけますが これは どういうもんでしょう? ――質問者が説教しはじめましたが 基本的に規約の精神としての《情報の交換》として捉えてもらうとありがたいところです――自己中心的でない人間はいますか? 利己的でないひとはいましょうか?   たしかにわたしも 勤勉とガリ勉とを区別しますので 自己中心主義や利己主義は 程度問題を超えた部分があると考えますが たとえばこうです。  いくら自己チュウであったとしても――二人とも そうであったとしても―― 要は互いに自由に意思表示を為し(または それに相当する仕草や振る舞いを見せ) 自由に合意に達すること。これが出来れば だいじょうぶなのではないでしょうか? 人間どうしの二角関係もしくは両性の対(つい)関係は ふつうの人間の人間的な自然としても人間的な文化としても 成った。こう言えると思うのですが どうでしょう?  ★ “精神的充足量の人生を通算した最大化”  ☆ は いま述べた二角関係およびツイ関係――そこから第三角も生まれるでしょうし――が 人間的かつ社会的に成ったならばついて来るでしょう。そのことが  ★ 自己存在の本質(社会生命性の自覚化=愛)  ☆ の実際であるのではないでしょうか? その過程――つまり動態であるでしょうから――においては   ★ マイナスの《他律性》  ☆ さえをもプラスに活かしていけるでしょうし ツイ関係なる二人という核が成ったならば だいじょうぶでしょう。たゆたえども 沈まず。(わたしは このとき ふつうの信頼関係としての二角関係の成立だけでじゅうぶんだと考えますし ツイ関係は この一般的な二角関係に どちらかと言えば含まれる。こう見ています)。  ★ 宗教  ☆ は その集団化・組織化が現われた時点で 個人〔の主観内面における非思考なる信仰〕は死んでしまうものだ。つまり組織としてのまた社会慣習としての宗教は 個人の信仰にとって自殺行為だと考えますので   ★ 〔淘汰は、常に種の進化を指向するので、〕 そうした自己中心性を抑圧する他律的システム(モラル、宗教、法規)を発達させます。  ☆ ことは もっともだと考えます。(個人の非思考というなぞの世界から 個人としてのモラルないし倫理は 生活態度として表現されてくるでしょう。法も持たれるでしょう。それと同じようなことを 集団宗教も 何のかんばせがあってか知りませんが おこないます)。言いかえると  ★ 淘汰は、常に種の進化を指向するので、  ☆ という筋からとは別に 上のように考えます。個人の非思考――なぞの何ものかへの畏れ――は 淘汰にあらがってでも 存在のとうとさ・掛け替えの無さをうったえ続けるものと考えます。  設問にあたって何にも考えていませんでしたが ご投稿を受け取って このような感想を持ちました。サイテックスさんも そろそろわたしという人間の傾向がお分かりになって来ておられると思いますので もはやすでに忌憚なく考えるところを述べる仕儀に出ることにしました。どうでしょう?

関連するQ&A

  • 同性愛者と小児性愛者の受け入れる姿勢の違い

    今回、同性愛が理解される一方で小児性愛者が理解されないのはなぜかということを相談したいと思っています。 昨今、同性愛者はテレビやCMにも顔をだし、社会的にはまだまだでしょうが社会的に認知される機会が増えてきたと感じます。 それに伴って、異性愛者へのカミングアウトという言葉も頻繁にききます。 昔は、同性愛者であること自体がタブーであり、それを言うことで精神病などのレッテルが貼られ、同性愛者であることを社会や他者に否定されてきました。 今は、その傾向も昔と比べると若干同性愛の社会的認知が増え、理解する人々が増えてきているように私は感じます。 またクィア理論などの登場によって、セクシュアリティのあり方も次第に変わりつつあるように感じます。 では、小児性愛者はどうでしょうか。 小児性愛者は人々から変な眼で見られ、もし彼らがカミングアウトしたものであれば人格を疑われるのではないでしょうか。 また、小児性愛者は精神的に何かおかしいと思う人もいると思います。 彼らは昔の同性愛者が体験した状況と同じ様に、精神的におかしい人と認識される立場に今現在いると私は感じました。 とすると、小児性愛者は同性愛者と同じように社会から認知され、理解されるように将来なるのでしょうか? クィア理論では、セクシュアリティに普通はないことを前提として説明されています。 それは、すなわち小児性愛も同性愛者も異性愛者も、一般的な枠に嵌ったセクシュアリティではなく、差別されようのないセクシュアリティのあり方と理解することもできます。 中東では、年齢的、社会的立場の違う男性の同性愛行為の存在を確認できます(具体的には、親子の差ほどの年齢同士)また、昔の日本にも存在しました。 もし、小児性愛者のセクシュアリティが否定されるのであれば、同性愛者はどうなのでしょうか? もちろん、パートナー関係が大人/大人、か大人/子どもというところで年齢的、社会的な立場は違います。 同性愛者を含むセクシュアルマイノリティの人々は小児性愛者も擁護する運動を行っているようには思いません。また、小児性愛者は何らかの行動をした結果、社会に認知され、法的罰則を与えられ、管理されるようになるのではないでしょうか。 今の社会は同性愛はよくて小児性愛はなぜだめなのか。そこから派生して、社会から受け入れにくい現状の中、カミングアウトは果たして必要なのでしょうか。 うまくまとまらずすいません。

  • 恋愛感情と性愛感情の根本は同じですか?

    恋愛感情と性愛感情(肉体的な欲求)は同じだと思いますか? 違うと思いますが か? 違うとしても、異性を好きと思う感情とそれ以外の人間や動物を好き、可愛いと思う感情は違う気がします(同じと言う人もいます) 同じだとしても、例えば男性が女性のことを好き、可愛い、抱き締めたいという欲求や感情は性愛(肉体愛)とも違うような気がしますが、根本的には同じ(エロい肉体的な欲求)なのでしょうか? 皆さんはどう思いますか?

  • 自分の性愛思考が受け止められません

    23歳男です。自分の性癖、性愛がどうしても受け止められず、混乱してしまいます。そのことについて相談させていただきます。 私の性癖は二次元の人ではない生き物に恋や性欲を感じてしまう「ケモナー」という性癖のかなりひどい状態の性癖です。なので人間の性器や下半身を見るとたまにドキっとしてしまいますが、恋愛感情やSEXをしたいだきつきたいなどはかなり薄い状態です。 自分の性格が「他人と違うのはおかしいこと」「他人と違うといじめられる」という被害妄想が激しくマイナス思考気味なので他人の恋愛や結婚の話をきくと嫉妬やイライラしてしまい、自分をせめてしまいます。また、ケモナーというジャンルは同性愛者でもある方が多く、偏見はないのですが自分も同性愛者になるのではないのだろうかと受け止められないのです。 今まで人ではないキャラクターを愛してきたのですがもしこの愛がなくなったら自分はどうなるのか不安になります…。 自分の性癖をどう受け止めていけば気が楽になるでしょうか?少しでも+に考えていきたいのであまり厳しいお言葉は受け止められませんが助言お願いします

  • 男性器と女性器を持った両性愛の人がいたら・・・

    現在の性別は、男性・女性しかありませんが、 もし、第3の性別として、男性器と女性器の機能を持っている両性愛 の人種が現れたら、 Q1、今の社会はどうなると思いますか? Q2、生活面、経済面にはどのような影響がありますか? ・男性・女性・両性愛 の人口比率は平等とします。 ・両性愛の性別の人の体の特徴は、  上半身は男性似と女性似に分かれ、下半身は男女にあるものが両方付いていて、  その機能も果たす 中学生の時ふと疑問に思ったので、皆さんの意見をお聞きしたいです。 ちなみに私が中学生の時考えたのは、 A1、男性は女性を、女性は男性をあまり求めなくなる。 A2、生活面、 性行為は、現在男性の人はMが増え、           現在女性の人はSが増える    経済面、 子供が増える

  • 両性愛者の方、両性愛者のパートナーがいる方へ

    はじめまして。 私には付き合って5年ほどの彼氏がいます。 最近、彼がバイセクシャルなのではという疑惑があり困惑しています。 彼に直接カミングアウトされたわけではありません。彼がゲイやバイの男性と交流しているという事実を知ってしまいました。 彼には、「いつか、あなたのタイミングでいいから、本当のあなたについて知りたい。知ったとしても私の気持ちは変わらない」とLINEを送ってしまいました。これに対して返信はありません。 彼と別れるつもりはありませんが、寝ても覚めてもこのことばかり考えて、1人勝手に悩んで、別れた方がお互いのためか、でも本当のことを知らないで別れたくないと葛藤しています。自分が勝手に悩み、それに疲れ、食事もまともにとれていません。 彼とは付き合いが長いですが、彼は私との将来のことも考えてくれていて、彼のお母さんとも仲良くさせてもらっています。彼が今まで私に向けてくれた愛がフェイクや嘘だと思えないです。 私以外の女性を好きになったという話もありません。そもそも彼は、私と出会うまで誰にも恋愛感情がなく、私と出会って初めて私を好きになってくれました。 1番ショックだったのは、同性愛者かもしれないという事実ではなく、私よりも、ゲイやバイの仲良しの男性の方が彼の本当の姿以外にも、彼について知っているということでした。 彼は、自分の家庭環境と私の家庭環境や学歴などをよく比べて、自分に負い目を感じているような言い方をします。その都度私は、「そんなの関係ないし気にすることじゃないよ」と言うのですが、私に家族のことや本当の自分のことを言えていないことがあるようです。このことを知った時に、彼にとって本音を言えない私はなんなんだ?と自分に自信を失いました。ただ、今後、彼が本当のことを教えてくれたら、そのときは否定したりせず、付き合うことを続けていくつもりです。 同性愛者の方には、性的対象が男性で恋愛対象が女性である場合やその反対、または両方当てはまるなど、さまざまな形があることを知りました。 彼にとって男女がどのような対象なのかわかりません。ただ、異性である私と付き合っている以上、恋愛対象は女性であってほしいです。性的対象は、今まで性交渉のタイミングはありましたが、お互いの体調面などで最後まで至ったことがないので、どちらかわかりません。 両性愛者の方、または両性愛者のパートナーがいらっしゃる方に質問、相談です。 ・両性愛者の方がノーマルの異性と付き合った時にどんな心情になるのか知りたいです。 ・両性愛者の方とお付き合い、ご結婚されている方は、どのようにして関係を続けていますか。 私は、主に女性同士の恋愛や女性の性と心についてですが、専門的に学んでいるので、同性愛などに理解があるつもりです。彼がもしも同性愛者であっても否定はしません。 彼は、私以外に性別問わず付き合っている人がいるようには見えません。 私は彼の人間性が好きなので、どのような事実でも別れるつもりはないですが、彼はきっとカミングアウトをしたときに、別れを切り出すと思います。それは避けたいです。できれば同等に話し合いたいです。 アドバイスや体験談をお待ちしています。よろしくお願いします。

  • 同性愛者はイスラム教など滅びてほしいと願っているのですか?

    宗教に対する思い入れが強く、アラブ諸国では政治にまで宗教が深く関係しているイスラム教国家ではイスラム教の教えにより同性愛が重罪とされています。特にサウジアラビアやイランでは同性愛者は死刑になります。これに対して同性愛者差別だ!今すぐそんな決まりは撤回しろと反ホモフォビアデーにデモを行う人たちもいます。 しかし、イスラム教社会において同性愛が社会的秩序を乱すのならば、禁止されるのも止むを得ないのではないのでしょうか? 例えば、日本では同性愛を合法とする代わりに幼児性愛を違法としており、また日本と同じように幼児性愛を禁忌とする国ではイスラム教徒の開祖ムハンマドが10歳にもならない少女と結婚して肉体関係を持ったことでムハンマドをロリコン呼ばわりして反イスラム主義者がイスラム教やムハンマドを強くバッシングする要素となっていますが、日本人にとっちゃこれは別に幼児性愛に対する差別のつもりではないのですよね?あくまでも、幼児性愛が私たちにとっての社会的秩序を乱すものだと判断しているから禁忌としているだけですよね。 それと同じように、イスラム教を重視する社会において同性愛が社会秩序を乱し、幼児性愛が社会秩序を乱さないとされているのならば、アラブ諸国で同性愛が禁止されて幼女性愛が認められるのも止むを得ないのではないのでしょうか? まあ、トルコのように政教分離ができているような戒律にゆるい国だってありますが、一方で、宗教を非常に重んじて国の支えとしている戒律に厳しい国もありますからねぇ もし、もしどうしても同性愛を認めない宗教国家なんて最低だ!宗教の開祖が幼女性愛を行い、今も幼児性愛を認めている宗教なんて下劣だ!とするならば、イスラム教徒なんて死に絶えてしまえというのが同性愛者をはじめとする人々の本音なのでしょうか? もう一度聞きます。同性愛者の方は、イスラム教なんて邪教で、イスラム教の戒律から手を切れないような国なんて今すぐ滅びてしまえと考えているのですか?

  • 性欲がないと不完全な愛しか持てないのでしょうか?

    悩みなのですが 性愛が無い愛は子供の御遊びみたいなものだと言う事をテレビで言っている有識者の方がいらっしゃいました。 しかもその意見にはお客さん含め拍手喝采 と言った具合でした。 その時僕はそりゃ子供は性欲なんて持ち合わせないから、性欲を持ち合わせる大人とは大いに違うだろうな。位に思っていました。 お恥かしい事に私は体のほうは無理やりすれば何とか(反射としての反応は示します)なるのですが、幼い頃の体験上女性を性的な目で見てしまうと(AVなどを見ると)罪悪感から見れなくなってしまいます。 今までセックスしたいと思ったことはありませんし、勿論男女問わずして性的な反応をしたことが有りません。 現在25歳で今まで好きになった人もそのような事も一切ありませんでした。 しかし、最近好きになってしまった(今まで好きになったことも無いので何とも言えませんが)女性が居ます。 その時に上記のことを思い出しました。 性愛や性欲が無い人間は愛情を持つことが出来ず、欠陥した物しか持つことが出来ないのでしょうか? 子供のお遊びの様な感情しか持てないのでしょうか?御回答よろしくお願いします。

  • 非性愛の疑いがある自分は今の彼と今後どうすべきか

    24歳女、社会人です。 大変長文になりますが、誰にも打ち明けられず、悩んでいます。 付き合って2年になろうとしている彼氏がいます。男性とお付き合いするのは2度目です。 1人目、2人目の彼氏とも「一緒にいると楽しそう」と思えたので告白を了承しましたが、 時間とともに相手からのスキンシップが増えると、 手をつなぐことまでは何とか耐えられますが、キスされたりすると胃や胸のあたりがムカムカし、嫌悪感でいっぱいになります。 一緒にいる時間は確かに楽しく感じるのですが、どうしてもダメなのです。 デート中でも「今すぐこの場を離れたい」、「彼氏の近くに寄りたくない」と思ってしまいます。 3カ月ほど前、今の彼とのデート帰りに「私との結婚を考えている」と言われました。 目の前が真っ暗になりました。それ以来悶々とすることが多くなり、自分から彼氏と距離を置くようになりました。 彼は私のことをとても大事にしてくれています。 私が手をつないだりキスしたりすることをしきりに嫌がるので、(恐らく)冗談で「一緒にお風呂入ろう」とか「キスしよう」とか言うことはありますが、決して無理強いはしてきません。 よって付き合って2年たっても性行為には至っていません。 内面的、また経済的な条件から言っても、客観的に見て結婚を考えるにはとても素晴らしい相手だというのは、よく分かっています。 結婚を考えるとなると、当然ながら子供を産む、すなわち性行為に至ることとなると思います。 しかし自分が「性の対象」として見られていることを考えるだけで、虫唾が走るというか、嫌悪感がむずむずと湧きだし、気持ちが悪くなります。 ネットで検索してみると、「非性愛」とか「無性愛」という言葉に出会いました。思い当たる節がいくつかありました。 --------------------------------------------- (1)自分に向けられた恋愛感情が不快 中学生くらいからずっと、たとえそれが今まで自分が少しでも「良いな」と思っていた異性であっても、相手が自分のことが好きだと分かると一気に気持ちが冷めたり、急にその異性のことが気持ち悪く思えてしまうことがありました。 自分に対して恋愛感情のベクトルが向いていない異性の友人とであれば、すんなり手をつなげます。しかしそこに恋愛感情が絡んでくると、なんだか気分がモヤモヤし、不快になるのです。 時には告白してきた相手にその場で酷いことを言ったり、ひたすら無視して傷つけたりしましたが、年を重ねるにつれてそのように相手を傷つける行為を恥ずかしく思い、反省し、徐々にきちんと対応することができるようになりました。 (2)世間一般との結婚観のズレ よくあるイメージでは、「結婚=愛する人と一緒になり、その人の子を産む」ですが、私の場合そういった結婚願望はなく、「この先一緒に暮らしていく相手(家族)は欲しい、子供もほしいが養子で良い」と考えます。「必ずしも自分の産んだ子でなくても良い」というよりは、「その前段階である性行為をするくらいなら自分で産みたく無い」が自分の考えの根底に近いように思います。 (3)異性に対してときめかないわけではない、恋愛感情が無いわけではない 格好良い異性を見ると「良いな、隣を歩けたら素敵だな」と思いますし、ときめきます。ラブコメ映画やドラマも普通に見ますし、話の主人公がやっと両想いになれたりすると「良いな、羨ましいな」とも思います。よって恋愛自体がダメなわけでは無いと考えます。 ただし性行為においては、ファンタジーというか、現実世界とは切り離して考えていて、テレビの向こう、本の中、劇の中の出来事、という印象です。今考えれば、現在まで「したい」という気持ちも湧いたことがありませんでした。 --------------------------------------------- 上記の理由から、自分は「非性愛」かもしれない、と考えはじめました。「非性愛」という言葉に出会うまでは、特に(2)については深く考え詰めたことが無く、明確な自覚がありませんでしたが、「養子が欲しい」という考えは高校生くらいから漠然と持っていました。 現在の彼との付き合い方を知っている友人からは、私の態度を見て「それって本当に彼が好きなの?」と言われたこともあり、もしかしたら本当に好きではない相手だから嫌悪感を抱くのか?とも考えましたが、一緒にいるとリラックスでき、楽しい気持ちになれましたし、泣いて悩みを打ち明けたこともありました(親や同性の親友にもしたことがありません)から、決して心を許していないわけでは無いと考えます。ただ、身体的接触は別なのです。 「本当に人を好きになったことが無いからそんな風に思うのでは」というご指摘もあるかと思いますが、「本当に人を好きになる」という状態がもし「この人にだったらどこに触られても良い」ということであれば、その通り、無いのかもしれません。 表題につながる問題は、先の人生を孤独に生きることへの不安、そして両親や彼への罪悪感です。 友人達は結婚ラッシュを迎えており、一緒に生きていく家族を見つけたんだな、と考えると素直に羨ましいです。 この勢いで次々と家庭を持つ友人が増えれば、当然、今までのような交友関係を保つことは難しくなります。 1人でいることが苦なわけではありませんが、それは最終的に頼れる場所、つまり私の家族が健在だからであって、もちろん私の家族、両親は永遠に生きている訳ではありません。 この先の人生を一人で生きていくのは不安です。 こんな私に対して「結婚してもいい」と考えてくれるなんて、今の彼は本当にありがたい存在です。 しかし、いざ彼から「結婚」をちらつかされたら、私の頭、気持ちは、拒否反応を示し、彼を遠ざけてしまいました。遠ざけたこと自体彼に申し訳なく思っていますし、この先お付き合いを続けていても私に対してこれ以上の関係は望めないことも、申し訳なく思います。しかし、すさまじい嫌悪感が湧きあがることは事実なのです。 またこの考えのまま、この体質のままでいては当然両親に孫の顔を見せることもできません。 体に問題があるわけでは無く、子供を産める体に、健康に産んでくれた両親にとって、最大の親不孝かもしれません。両親からは特に結婚を急かされている訳ではありませんが、血のつながった孫を可愛がりたいと考えるのが、世間では常識ですよね? このまま1人ズルズルと生きていても、後に何も残せず、後ろめたい人生を送っていくのだと考えると、益々鬱々とした気分になります。 非性愛のことを彼にカミングアウトすべきでしょうか? しかし年齢も年齢ですし、その後彼が離れていってしまったら、もう二度と彼のような、2年間も嫌だ嫌だと言ってきた私に付き合ってくれたような優しい人には出会えないのではないかと考えると、躊躇してしまいます。非常にわがままな考えだと分かっていますが、この先ずっと1人で生きていく孤独を考えると、どうしても踏み出せません。 また、もし私が本当に非性愛だった場合、この先どうすれば人並みの幸せを得ることができるのでしょうか? 非性愛とはカウンセリング等の治療で治るものなのでしょうか? そもそも非性愛というカテゴリは、医学的に確立されていない、という表記も見かけました。 そのような症状にも治療はあるものなのでしょうか? 大変長文となってしまい、申し訳ありませんが、真剣に悩んでいます。 ご意見をお聞かせください。

  • オカマの皆さん、私のような兄貴は好きですか

    まばゆさに目をつぶってはいけない。 光の中にその輪郭を読み取ろうとする愛の探求者。 私はそこに何者の姿を見つけるのか。 猛々しき実在する仮面ライダー。 ドリル番長だ。 テーマは異性に対する愛情だ。 一般に俺様は自分だけが大切だ。 こういう表現は自己愛と定義されている。 男性が共感可能な男性に欲情するとしたら、それは自己愛の延長にある倒錯だろう。 男性が女性に対して愛情の実現を試みるとすれば、それは自己愛、自分だけ大事を突き抜けて、まさしく他者を愛している事を証明することが出来る。 人が孤独で無く、お互いに人と人、すなわち人間であるその社会性を自覚する基盤が言葉にすると愛だ。 お互いに人と人、同性同士は友情で愛と云うより友情と云う言葉が当てはまる。 こっちの方が、社会基盤を安定させ、人と人との職業などの共同の生産性を発揮できる。 友情は愛情に匹敵し、現状では対価をもたらす生産活動だ。 自分自身として、すなわち人間の前に人そのものとして、男女で交わされる生産活動は子供を産むことだ。 生物の一種族である人は、原始的な愛情を友情と云う生産活動に昇華させ社会を形成している。 さてこの論説は、オカマバー クラブヴァルハラで繰り広げられる哲学バトルの傾向とも符合する。 私は仏陀に対してV字攻撃してくるオカマの倒錯した愛情に、自らがセレビィと云う女の子を装い痴漢撃退しまくった。 これはアニキ愛を回避し、幼児性愛から君達にみずみずしい愛なり、友情なりの感情をもたらすためのアニキな親切だ。 これで友情に対する哲学に裏付けされた定義は完成する。 要するにだ。 兄貴に愛を自覚する同姓はオカマだ。 私が発見した友情の観念に到達していれば男だ。 今回は愛を至高の人間の資質とだけ定義した西洋の倫理への補足のつもりだ。 ほかにもこんな事を考えた。 発表済みだけど、人は他者に自らが生きる事と等しく、その者が生きる事を助ける事が出来て、だからこそ社会性がある。このような他者への配慮を広く善といい、社会への体裁だけでなく、自らの心から善心を発露すれば、その情動は愛と云えるだろう。 このように変化したりする愛の派生定義について質問をしご回答いただくという体裁で、読者をウハウハさせる知的SMショーを行おうという趣旨だよ。 兄貴の熱さを君に入魂しよう。

  • LGBT 。マイノリティを認める社会の疑問

    LGBTとは L=レズビアン、G=ゲイ、B=バイセクシュアル、T=トランスジェンダー。 順番に、女性同性愛者、男性同性愛者、両性愛者、生まれたときに法律的/社会的に割り当てられた性別とは異なる性別を生きる人 ということですが、LGBの3つは自分自身のことではなくて 「性愛の対象が誰か」 ということを表す単語ですね。 Tがいわゆる性同一性障害という「生まれつきの疾患」(疾患と言ってはいけないのか)です。 これを十把一絡げに「性的マイノリティ」とかいって「婚姻」はできないけど「パートナー証明」を出すとかしてますが、それって「自分はリベラルだからマイノリティを差別してませんよ」的な社会的アピールなだけの気がするんです。 渋谷区がLGBが社会的に認められるなら、小児性愛はどうなんですか? ロリはマイノリティの人権として認めないの? オカマを認めるのにイヌとか2次元を性愛の対象としている性愛マイノリティは認めてもらえないんですか? 渋谷区にはロリアニメの抱き枕と結婚したいマイノリティだっているんじゃないの? って話になるんじゃないですか?違いますかね? と、ふと思ったので。。。