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我々有機体生物が理想として追いかけているものは、その本質を永遠に変化させない安定した無機質体なのでしょうか。

我々有機体生物が理想として追いかけているものは、その本質を永遠に変化させない安定した性質を持つ無機質体なのでしょうか。 不老不死の薬、ロボット、コンピュータ、ユビキタス、神、宇宙、貴金属・宝石、墓、輪廻・転生の教え・・・ 漠然とした、変な質問かもしれませんが、自分自身が石になればそれで済む話でしょうか。 よろしくお願いします。 大阪在住 難しい悩み大好き男 

みんなの回答

  • nobuchi
  • ベストアンサー率54% (475/875)
回答No.4

むむ、哲学的なジャンルですね。 「私は石になりたい」って意味でしょうか。 求める回答ではないかもしれませんが。 私はそもそも「無機質」を求めてるとは思えませんね。異なる相に惹かれ、向かい、対立するのが私たちの知ってる世界の姿です。 それは自然な行為です。 あなたの挙げた「無機」は、「そういう目」で見えたものにすぎません。人間が求めるものを、そんな単純化できるとは到底思えません。 「有機」であるからこそ、変化、拡大、創造、それらの方向性も持っています。 その「永遠」にしたって、何を以って「永遠」などと定義するのでしょう。時間の制約の内側にいる我々には「永遠」と言う概念すら、時間の対立要素としてしか認識できません。つまり、どうあがいても「無機」などという状態は、比べるものあっての概念なのです。 「石になって済むか?」 石になった人はそんな事考えません、そして永遠でもありません。水に洗われ、風に吹かれて、土に帰るだけです。「無機」も時間の内側の概念でしかありません。 つまり、「・・・なのか」と言う疑問こそ、有機体としての変化の意思の証明にしかなりません。 もっと限定するなら、 『人間という存在だからそう思うのです』 揺るぎない安定を願う? とんでもない。「増殖」が第一原因の「いのち」は、さらなる拡大を目指すのです。 え~、なんだか取りとめなくなってしまいましたね。

  • mon-roe
  • ベストアンサー率38% (330/852)
回答No.3

例として挙げられた物の半分は単に生活の中に取り入れたい物に思えるし、残りは超越した存在への単なる憧れの様に感じますが。 "理想として追いかけている"というのがどういう事か良く分からないので混乱してしまいますが、無機的な存在を追い求めている=そういった存在への昇華あるいは同一化、みたいなことだとするとそれはちょっと違うのでは、と思います。 > 自分自身が石になればそれで済む話でしょうか。 人間個人がその本質を変化させない存在とは、短絡的ですが死による"無"かと思うので、ある意味ではそういう事にもなるかと思います。 しかし、無になることや墓標を求めて日々を過ごしている訳ではないので(笑)果たしてそれが求めた答えか?と思います。 理想を求めるという時点で意思のない生物は省かれますが、そういった意思あるものが求めるのは、あらゆる欲求の全てを満たしたい。という、一個体の中にそれぞれ存在し、なおかつ他個体からは見えない"かたち"を全て埋めること、ではないかなと思います。

回答No.2

あなたの質問が私にはうまく伝わってこないのかもしれません。 >不老不死の薬、ロボット、コンピュータ、ユビキタス、 これらは理想としてるものではなく、我々を便利にしてくれるもの・発展途上でいつ完成状態になるかわからないものではないでしょうか。 >宇宙、 これも、どんどん変化しているもの。 >神、貴金属・宝石、輪廻・転生の教え これは、我々人間の価値感次第でかたちをかえるもの。 元々我々有機体は無機質体から進化〈?〉したものではないですか。 あなたが言いたい世界観と同じだと思われる小説があります。 JGバラードの「結晶世界」です。内容は参考URLにあります。発行は、東京創元社です。

参考URL:
http://www1.odn.ne.jp/~cci32280/pbBallard.htm
  • yamada504
  • ベストアンサー率27% (3/11)
回答No.1

 一般に無機質というと、「感情・個性の無い、いつまでも同じ状態・動作」といったイメージがあります。  しかしこれは、文型の人間が勝手にイメージした「先入観」ともいえるもので、実際には非常に安定した有機体もあれば、不安定な向き物質も多々あるわけで、科学的には、そのようなイメージは間違っているわけです。  近代科学に対して知識の深くない人は、自分の思考・経験が及ばないものが、着実に世界にはびこっていく様を見て、科学に対して漠然とした不安に襲われるものです(戦前、勤勉で見慣れないアジア系移民に漠然とした不安を感じたアメリカ人が、それらを排除しようとした移民法・・・に近いかもしれません)。  「フランケン・シュタイン」や「ゴジラ」に限らず、現代においても一般の人々が科学に抱く漠然とした不安が発露される場面は多いものです。  その風潮の中で、科学的・理論的なものを「非人間的・無機的」と決め付ける一般の先入観が生まれてしまったのです。    さて、質問の回答のほうですが、私は「無機質を求める」というよりも、「絶対を求める」が良いのでないかと思います。  人間は脳が発達するにつれて、記憶や思考が発達していきました。すると「よけいなこと」を考えるようになってしまったのです。  ライオンならただ腹が減ったら食うだけでしょうが、人間は知能が発達しているゆえ、「明日獲物がとれなかったらどうしよう、自分がケガをして狩りが出来なかったらどうしよう」などと、現状や将来に対して漠然とした不安に常に襲われるようになったのです。  「万物流転」はこの世の真理です。しかしそれをそのまま受け入れるにはシビアすぎるので、人々は「絶対なもの」を夢想し、それを渇望するようになっていったのです。  宗教も科学もイデオロギーも、それら人類の「無機質」というよりも「絶対」に対する希求が生み出したものではないでしょうか?  以上、理系の人間一個人としての考えでした。質問のご参考になれば幸いです。

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