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大西瀧治郎と真珠湾攻撃
先日の終戦記念日に特攻のことが取り上げられていたので、記事を見ると、大西瀧治郎が発案者だとありました。しかし、大西瀧治郎は、真珠湾攻撃の発案にも参加していたらしいのですが、本当でしょうか?
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>大西瀧治郎は、真珠湾攻撃の発案にも参加していたらしいのですが、本当でしょうか? 本当です。 山本五十六から、直接「真珠湾攻撃の作戦立案」を依頼されています。 山本長官と同様に「大艦巨砲主義に反対し、航空主兵論を主張」していました。 そこで、戦艦を中心とした艦隊でなく空母を中心とした艦隊編成になった次第。 面白い逸話が残っていますよ。 「戦艦を造るよりも、航空機1000機を造った方が強い」 「真珠湾を攻撃すれば、米国人は徹底的に日本と戦う事を決意する」 「これでは、日本は絶対勝てない」 「真珠湾を攻撃すれば、妥協の余地は無くなる」 「日本は、無条件降伏する事になる」 真珠湾攻撃の後も、同じ主張をしていた様です。 まぁ、下っ端でなく山本長官の右腕だったので発言が許されていたのでしよう。 実際、山本長官も「真珠湾後は、早く講和に持ち込まないと負ける」と述べていました。
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- eroero4649
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はい。Wikipediaの受け売りになりますが、きっかけは山本五十六提督が真珠湾攻撃のおおよそ1年前になる1941年1月14日に、大西瀧治郎少将に「真珠湾に航空攻撃ができないか」と作戦の立案を求めたことから始まります。 それに先立つ1940年11月11日にイギリス軍がイタリア海軍の基地であるタラント軍港を空襲し、戦艦1隻を沈没させ、2隻を大破させた「タラント空襲」があり、それに刺激を受けての発案でした。 しかしこの作戦、「あまりにギャンブルの度が過ぎる」ということで一度却下されています。 真珠湾奇襲作戦の兵棋演習を行ったところ、アメリカ軍の戦艦4隻沈没1隻大破、空母1隻沈没という戦果と引き換えに、機動部隊全滅という結果となりました。 それで一度は御破算となった真珠湾奇襲作戦ですが、連合艦隊司令長官を山本提督へ再任の打診をしたときに返ってきた言葉が「真珠湾奇襲作戦を認めるなら、引き受ける」だったのです。 連合艦隊司令長官は心身ともにかなりの激務になるようで、過去に2期引き受けた人は誰もいなかったんですね。しかもその頃に連合艦隊司令長官を引き受けるということは対米戦を指揮するということでもありました。誰もそれを引き受ける度胸がある人がいなかったのです。 それでもう山本提督にやってもらうしかないと文字通りの三顧の礼で頼んだときの交換条件が真珠湾奇襲作戦だったのです。 戦史マニアの間では有名な話なんですが、山本提督は三度の飯よりギャンブルが大好きなギャンブラーで、常々「俺ァ海軍やめたらモナコに行ってバクチ打ちになるんだ」と公言していたそうです。 そういうギャンブラーな人じゃないと到底できない作戦だったのです、真珠湾奇襲は。 実際、その真珠湾奇襲に向かう道すがら、機動部隊司令官だった南雲忠一提督は草鹿航空参謀に「僕はとんでもない作戦を引き受けてしまった」と漏らし、草鹿参謀に「今さらそんなことを言わんでください」とたしなめられています。 また、あまりにリスキーでギャンブラーな作戦なので、アメリカ軍のほうも「まさかそんなこたァしてこねぇだろう」と油断していた、というのもあります。 どんだけリスキーな作戦だったのかというと、クイズダービーでいうと1問目に「篠沢教授に、全部」というくらいのギャンブラー。
お礼