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千年前の布団
枕草子の解説を読んでいると、当時は敷布団、掛け布団が無く、脱いだ着物を上から被せて寝ていたそうです。真冬の夜間、よくそれで寒く無かったな、と感心したのですが、実際は、どのような感じだったのでしょうか?
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『枕草子』が成立したとされる西暦1000年頃は、地球の特に北半球世界が「中世温暖期(8世紀~13世紀)」と呼ばれる比較的に暖かい時代に突入して、その影響で清少納言が生きていた平安時代の日本でも、温暖化が叫ばれて久しい現代日本と同程度に暖冬傾向だったと推測されています。ただしその100年後くらいには寒冷化が起きたりして、平安時代の日本の気候は乱高下していて安定せず、そのため旱魃や冷夏による飢饉と疫病の流行が頻繁に起こる、正に "生き地獄" の様な時代背景でした。 同じ時代の紫式部の代表作の『源氏物語』の中にも、恐らく式部自身が同時代に体験したであろうと思われる大型台風襲来の様子が非常に詳細に記述されており。その記述内容から恐らく(屋根の瓦が吹き飛んだ、大木が折れた~等々)、昭和日本に襲来した「室戸台風(1934年)」と同程度の規模の大型台風であったと推測されます。温暖化が進むと、東アジア地域での台風は大型に発達しやすくなるので、これらの記述内容からも当時の日本が中世温暖期の影響を受けていたものと思われます。 従って当時の平安時代の日本は、猛暑で苦しむ?令和の日本人と同じ様な状況だったので。冬の寒さ対策よりも、圧倒的に夏の酷暑をどうやって凌ぐかの方がはるかに重要でした。実際、当の清少納言も『枕草子』の中で「夏は夜、月のころはさらなり」と書いています。ただ彼女は「冬はいみじう寒き、夏は世に知らず暑き(夏は暑い方がイイ)」とも書いていますので、その体感温度感覚がよく分からん人ですね(笑)。 まあとにかく、当時は暖冬傾向だった事には間違いないので。隙間風が吹き込むあばら家で身を寄せ合いながら震えて暮らす農民家族とかでは無く、絶対権力者である帝の后の側仕えで、しかもフィクサーである道長からもお気に入りであった彼女は、十分に暖かくして暖を取れるくらいの部屋と着物を与えられていた事でしょう。 P.S. 因みに「掛け布団」を上から掛けて暖かくして寝る様になったのは明治時代からで。それまでは江戸時代とかでも、布団はあくまでも下に敷くモノであり。暖を取るために上から掛けるモノは着物というか、中に綿を詰めた "丹前" でした。裕福な商人とか大名クラスの富裕層だけが、ふわふわの綿が詰まった掛け布団を使い。普通の庶民階級は丹前ですね。 平安時代でも似たような感じですが、この頃は逆に富裕層が着物を上に掛けて眠り。庶民は土間とかに藁で編んだ筵や茣蓙を敷いて、その上で着の身着のままで眠るのが普通で、掛け布団代わりの着物をプラス出来たのは中間層以上の小金持ちからです。とにかく明治時代になって開国し、インド産の綿花を東インド会社が機械紡績で安く大量に世界中にバラまく様になるまでは、"綿" は現在のシルク製品並に生産量も少なく高級品だったので。
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- eroero4649
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それいったら、氷河期の原始人やネアンデルタール人はどうやってシベリアやヨーロッパの冬を乗り越えていたんだろうなって思いますよね。氷河期で水位が下がって陸続きになったベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸に人類は渡っていったわけですからね。 でも昭和初期北海道生まれの父親も、幼少期の思い出で「朝起きたときに布団がうっすらと白くなっていた」とかいってたので、人間そういう状況で生まれ育てばいけるのかもしれません。 そういや、子供の頃にアムンゼンの伝記を読んだとき、冒険家に憧れていたアムンゼン(ノルウェー人)は将来の冒険のために子供の時から冬でも毛布しかかけないで寝ていたってあったけど、あれは本当なのかなあ。普通に凍死しそうですけど・笑。
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- 4017B
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ごめんなさい…藤原道長がパトロンだったのは紫式部の方でしたね。清少納言は中宮定子に仕えており、パトロンというか藤原家の繋がりで言えば藤原道隆がパトロン筋に当たります。 >時代劇の布団 もちろん嘘です。というか時代劇の中の描写で、実際の歴史的事実と合致してる描写の方が少ないです。割合的には正しい描写は5%も無いのでわ? そもそも江戸時代、旗本とかの大名席クラスは直に町人階級と会話する事自体が "御法度" でしたので。暴れん坊な将軍的な話自体が成り立ちません(笑)。水戸黄門システムはギリ可能ですが…例え将軍家であっても、徳川家天領地以外の大名家の領地で「家紋をひけらかして無理を通す」などテロ行為にも等しく大問題になります。絶対にあり得ない(笑)。 あと江戸時代の風俗で言えば。丹前は冬場の装備で、夏は中の綿を抜いて薄くして、そのまま夏物の着物として使いました。今でも「綿入れ」という名前で丹前の事を呼ぶ事がありますが、これは冬場に備えて夏物に綿を入れる習俗があった頃の名残ですね。
お礼
- toratora(@aasjetto)
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基本が裸暮らしですから 着物を持っていること自体貴重なのです 十二一重でも 裸に袴を着けて着物を重ねるだけ 庶民は獣の皮とかをまとうか貴族からのおさがり上下一枚だけ 布団代わりの着物もなかったとおもいます 日本でも70年前は真冬は火鉢か豆炭炬燵しか暖房はなかったのですから順応していくんです 大昔の平均寿命の短いのも寒さで赤子がなくなったからかもしれません
お礼
- Reynella
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平安時代の絵がすぐには見つからなかったのでこちら。春日権現験記という鎌倉時代の絵巻物に描かれた絵ですが。。。畳も敷き詰められていない、というのは大河ドラマなんかでもよく見ます。これは夏でしょうけど。冬はたまらなかったでしょうね・・・ ただ、風俗博物館の展示によると、高位の貴族は天蓋付きベッドで寝ていたようです。私も詳しくは知らないので、こちらでどうぞ。 https://www.iz2.or.jp/kizoku/chodo2.html 板の間に薄めの敷き布団だけを敷いて寝たことも、畳に布団なしで寝たこともあります。翌朝、体がぽきぽき、節々が痛くて閉口しました。毎日あれとは恐れ入ります。
お礼