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古文の助動詞「す・さす」について

ある参考書より抜粋 (師輔ガ)正月一日つけさせ給ふべき魚袋のそこなはれたりければ、つくろはせ給ふ程、まづ貞信公(=師輔ノ父忠平)の御もとに参らせ給ひて、かうかうの事の侍れば、内裏に遅く参るよしを申させ給ひければ、 つけさせ給ふ、参らせ給ひて、申させ給ひければ、のさせ、せ、せの助動詞はすべて尊敬の意でとると書いてありました。 師輔は二重敬語を用いていて、それほどの人の場合だと、必ず誰かにさせる動作には一々使役を言わなくてもよい、そのため「つくろはせ給ふ」は使役とも尊敬ともとっていいとのことでした。また誰かにさせるほど、身分が高いというところから生じたのが敬語である、との説明などもありました。 そこで、質問なのですが、つけさせ給ふ、参らせ給ひて、申させ給ひければ、はすべて師輔が直接起こした行動なのでしょうか?身分が高い人であるならば、この動作も誰かにさせた行動で、ここを使役ととっても良いのではないでしょうか? 回答よろしくお願いします。

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  • Nakay702
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回答No.1

確信はありませんが、以下のとおりお答えします。 >つけさせ給ふ、参らせ給ひて、申させ給ひければ、はすべて師輔が直接起こした行動なのでしょうか?身分が高い人であるならば、この動作も誰かにさせた行動で、ここを使役ととっても良いのではないでしょうか? ⇒そうですね。 少なくとも、つけさせ給ふ、だけは尊敬と使役との両様の意味を表せそうですね。 あるいは、 尊敬:つけさせ給ふ、参らせ給ひて、申させ給ひければ 使役:つかせさせ給ふ、参りさせ給ひて、申しさせ給ひければ のように言い分けるのかも知れません。

Crepes1
質問者

お礼

いつも回答ありがとうございます! 尊敬と使役の使い分けの文まで提示していただきありがとうございます!参考にさせていただきます!

その他の回答 (1)

  • Nakay702
  • ベストアンサー率80% (9724/12096)
回答No.2

前便に対する補足です。 「つけさせ給ふ」の使役は、「つかせさせ給ふ」も考えられますが、 「つきさせ給ふ」の方が近いかも知れません。

Crepes1
質問者

お礼

補足ありがとうございます! 実は参考書にも 抜粋 「つくろはせさせ給ふ」とは言わない。それは「さす」は動詞にしかないということでもあるし、誰かにさせるほど…… とあったので、私も恐れ多くも「つきさせ給ふ」の方が良いのかなと思いました。

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