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戦国時代の戦死に対する考え方について

戦国時代において、戦死は誉れある行為だと思っていました。戦死といっても様々な状況がありますが、主君のために働いた戦死は、賞賛されたと思っています。 主君は家臣の戦死を褒めたたえ、残った一族に対して褒美を授ける。 残った一族は立派な死を遂げたと褒めたたえ、一族の誇り、武勇伝として語り継いでいったのだと考えていました。 ですが、重要な当主を失ったことで、残った一族が主君を恨み、後に反乱したり、寝返ったりすることもあったのでしょうか? 戦死に対して、もちろん1つの考え方だけなかったと思います。 そこで、実際の戦国時代において、戦死に対して武将たちがどう思っていたのか教えていただけないでしょうか? よろしくお願いいたします。

みんなの回答

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (815/3041)
回答No.7

>ですが、重要な当主を失ったことで、残った一族が主君を恨み、後に反乱したり、寝返ったりすることもあったのでしょうか? 働きに見合った扱いを受ければ、特に恨みには思わないでしょう。 鎌倉末期から結構壮絶な戦いをしてるケースは多いので、武将と呼ばれるクラスで有れば戦死は当然の物として考えていると思います。 あと戦国時代は分割相続から単独相続に移り変わった過渡期でして、当主が戦死すれば一族の者の誰かが当主に立つだけですので、当主をそこまで絶対視もしてないです、当主を絶対視するのは江戸時代、特に江戸初期の末子養子が無かった時代です。 ただ働きに対して見合った扱いがなければ、ついていっても損なだけなので簡単に寝返りますよ。

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  • head1192
  • ベストアンサー率20% (161/785)
回答No.6

戦国までの武将の価値観は「一所懸命」。 武士にとって最も大切なのは自家の知行地。 それを守るためなら命も捨てた。 知行地は主家との絆よりも大切。 主家は自家の知行地を守り保証してくれる存在であり、逆に言えば知行地を守ってくれない主家は、家来は平気で切り捨てる。 松平郷から下りてきた松平家に酒井家など三河の豪族が与力したのは、力を合わせたほうが外敵に立ち向かえるからである。 徳川傘下にあった真田家が上杉家に奔ったのは領地の沼田領を「北条家に引き渡せ」と命じられたからである。 自らの領地を守るために徳川を見限り上杉という大勢力に乗り換えたわけで、これが悪徳でもなんでもなかったのは、その後真田家が秀吉の斡旋でまた徳川家に帰参していることが示している。 つまり「所領安堵」の保証がなければ、家来は主のために命を捨てない。 自分が死んでも子が知行地を受け継ぎさらに論功行賞によって家が栄えるという保証があるから、武士は命を捨てるのである。 戦国までの武士はこのように現実の利害関係の上に成り立っていた。 儒教が武士の価値観の中心になるのは、江戸期に入りいくさがなくなり秩序が重んじられるようになってからである。

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  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11034/34396)
回答No.5

実は戦国時代の人々の価値観というのは、日本史の中でも際立つくらいに実利主義、現実主義でした。「結果が全て」の世界です。 戦国武将(家臣)というのは、今の我々が考えるほど堅固な主従関係があったわけではありません。今ならプロスポーツ選手とスポーツチームみたいな関係です。それぞれの武将は半ば独立した存在でした。だから、合戦に赴くときの費用はみんな自腹だったのです。 戦国時代の北条氏の手紙にも、家臣に対して「すぐに出陣するように。費用が足りなかったら貸してやるから、すぐに来い」と書いたものがあります。あくまで「貸す」のであって払ってはくれないのです。 自腹で出陣して、勝ったときの褒美をアテにしているのです。だから勝ちそうならある意味必死に働くこともあります。そうしないと褒美がもらえなくて赤字になるかもしれないからです。 褒美のひとつとして「感状」というのがあります。いってみれば感謝状で「この人はこういう戦いでこんな活躍をしました」というものです。これはただ自慢するために貰うものではなくて、どこかで就職先を探すときに「私、こんなに感状をもらった勇敢な武士なんです」とアピールするためなのです。また感状をもらうことで「こんだけ何度も感状をもらったんだから、そろそろ土地という褒美をもらってもいいんじゃないですかね?」とプレッシャーをかけることもできます。 だから家臣団といえど、大名を大将としているのは「この人を大将にしておけば自分も土地が増えるだろう」という期待があるからこそその人をその地位に置いておくわけで、その期待が裏切られたり「どうも危ういぞ」となると、容赦なく裏切られるのです。武田信虎がそうで、家臣団の支持を失ったので追放されることになりました。 戦国時代の関東地方では、河越の合戦があって北条氏康が勝利をすると、関東地方の戦国武将たちはみんな「上杉家はもうダメだな」と上杉家を見限って北条方につき、ほぼ関東地方は北条一色になります。 ところがここに越後から長尾景虎、後の上杉謙信と呼ばれる人がやってくると「どうもこっちのほうが強そうだ」とみんな北条方から長尾(上杉)方に鞍替えします。 これ以降、関東地方では、上杉謙信が関東に来るとみんな上杉方につき、謙信が越後に帰国すると北条に寝返るということがくり返されることになります。大国の狭間に翻弄される中小国って感じですね。 今年の大河ドラマも、伝統ある大手企業である今川家と新興ベンチャー企業である織田家との間で翻弄される中小企業である徳川家を描いた作品になりそうですね。だから「(どっちにつくのか)どうする家康」なのです。

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  • gunsin
  • ベストアンサー率32% (413/1282)
回答No.4

>戦国時代において、戦死は誉れある行為だと思っていました。 誰だって死にたくないのですから、名誉だと思っている人は いないでしょう。 武家は、お家の存続が第一義です、討ち死にしたら主君がお家の 存続を取り計らってくれると思うので必死に働くのです。 主君が危なくなった時、離反するか最期まで付き従うかの二つ ですが、歴史を見ると離反する方が圧倒的に多いですね。 一度離反すると末路は御想像の通りかと。 藤堂高虎は主君が亡くなり再雇用されて、大名になったのは稀 な事ですね。

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  • NOMED
  • ベストアンサー率30% (522/1725)
回答No.3

「不運な末路」をたどった人としてまずあげられるのは、家康が今川氏の人質となっていた幼少期から苦労を共にし、仕え続けてきた「股肱之臣(ここうのしん)」である鳥居元忠です ※鳥居家代々の家訓に従い、人質時代から家康に付き添い、生涯を通じて主君を守り続ける徳川一筋の忠義者で、大河ドラマ「どうする家康」でも重要な家臣(大名)で、最終回ぐらいには盛り上がる話かと思います 鳥居元忠(1539~1600)下総国矢作 4万石 → (息子の忠政が継承し)陸奥国磐城平10万石 話は代わり、将棋はチェスなどと同じく、古代インドのチャトランガが起源であると考えられていますが、日本に来てから発展し、相手の駒を自分の駒にすることができるという発展を遂げます つまり、軍門に潔く下り、当主を変えることをいとわない時代であったと言えます ただ、例えば、嫡男ではない男子も、主(あるじ)として認められたのも戦国時代ですから、関ヶ原の戦いで敵味方に分かれた真田昌幸・信繁・信之のように、一族総出で恨むとうことも無かったと思います が、日本の歴史は勝者の歴史で、敗者側の資料がほとんど残っていないのも事実です

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  • takochann2
  • ベストアンサー率36% (2386/6568)
回答No.2

アムロ・レイは戦死したリュウ・ホセイに二階級特進を与えた上官に対して、「二階級特進だけで、それだけでおしまいなんですか」と反抗していましたね。アムロみたいな家臣はさっさと追放しておくのが良いのでしょう。

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  • takochann2
  • ベストアンサー率36% (2386/6568)
回答No.1

戦国時代に限ったことではないですが、そもそも無駄死にと思ってしまうような君主(社会)には仕えない。そう思われないように褒美(遺族年金)と名誉(階級・勲章)を与えている。

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