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安濃津の安濃が取れた理由
安濃津の安濃が取れて、津だけになった理由を教えてください。他にも津がつく地名はたくさんありますが、ここだけなのはなぜでしょうか?
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一応、神奈川にも地名が「津」だけのものが有ったりします。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5_(%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B8%82) >安濃津の安濃が取れて、津だけになった理由を教えてください。 回答者No.1様がすでに仰っていたように、平安時代の書籍で既に安濃津の略称として津と言うのが使われていた様です。 さらに、伊勢神宮への供米の積み下ろし港などで知名度が上がったのも無視できないかと思います。 (伊勢神宮も「伊勢」の部分を略して神宮と呼称されることも多いですね。) ただ、戦国時代末期から江戸時代初頭では、城の名前等で安濃津という地名が使われていたにも拘らず、現代では津としか言われなくなった理由として、考えられる理由を自分なりにあげさせていただきたいと思います。 (津藩を称して「安濃津藩」とも言いますし、津城も「安濃津城」とする資料は有ります。) 1.江戸時代の分藩で安濃津地域を領有する藩が2か所ある。 安濃津地域は、江戸時代に津藩と久居藩に分かれます。 久居藩は、5万3000石と城主格の大名で、無視する事が出来ない程度の格が有る大名だったりします。 また昭和の大合併までは、安濃津郡と津市は別の自治体だったように、現在存在する津市と安濃津が同一であったかは、一考が必要かと思います。 平安時代の源平争乱の墨俣の戦いでは、平氏によって安濃津から船舶と船員を徴収しましたが、実際には、現在の三重県内の複数の地域[浦]から動員されている事が書籍で判明しています。 古代に、三津の一つに数えられた安濃津が現在の三重県津市の港だけだったか一考が有っても良いかと思います。 (室町時代の明和の大震で安濃津が崩壊した崩壊した事は、各種書籍で残っていますが、津は町として戦国時代にも残っています…。) 2.安濃津は、伊勢平氏の本拠地 平安時代末期に武家の最高位を占めた伊勢平氏は、安濃津を拠点として発展しました。 (平清盛の父「平忠盛」は、津市が出生地になります。) 伊勢平氏の本流では、安濃津三郎の名を継いだ様に、安濃津の地は伊勢平氏にとって大変重要でした。 (平清盛は、伊勢より伊賀の地の方が縁が強いのですが…。) 江戸時代の岐阜や安土の扱いを見れば分かるように、幕府や一般常識として武家が天下統一を兆した地を領するのは、大変センシティブな問題でした。 実力第一の戦国期や江戸初期であれば、意識されなかった事であったとしても、江戸時代が長く続くと、当事者の意図とを無視して過去の歴史経緯が問題視される事が出てくると思います。 安濃津という言葉は、日本史にとって大変影響力が大きい言葉ですから、一外様の大名が名乗る事を躊躇ったとしても、仕方ないかと思います。
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- aeromakki
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江戸時代以前から、安濃津と津が併用されていたようです。 特に、津城が築かれたのは1571年(元亀2)で、この影響は大きいと思います。 https://kotobank.jp/word/%E6%B4%A5%E5%9F%8E-180125 「津」とは「港を要した町、港町の事」だそうです。 憶測ですが、京都に最も近く有名な津であったため、「津と言ったら安濃津」というイメージが早くからあり、特に室町時代には対明貿易で栄えたようです。 その後、津城が築かれ、津=安濃津が定着していき、「津」と呼ばれるに至ったのではないでしょうか。