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江戸時代の知行とお金の流れについて
例えば江戸時代に武士が1000石の知行地を貰った時、四公六民により400石が残り、その半分が家人の給料になるとネットで見つけました。 そこで疑問に思ったのですが、知行地を与えた将軍や藩主に対して、上納金のようにして米を収めることはしなかったのでしょうか? 将軍や藩主は贅沢な暮らしをしていたので莫大な収入があったと思うですが、お金の流れがいまいち分かりません。
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