stmim の回答履歴

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  • 聖書上に描かれる天国について

    お世話になります。 聖書に示される天国 では 子をなす事は 禁じられている の、ですか?

  • 聖書の描く世界の中で、蛇は…

    ダブルスレット、済みません。 お世話になります。 聖書の描く世界では 蛇は、 リンゴを勧めた事、自体は 咎められて、いない と、思っていい の、ですか? 私説では …は、 自らを越えるパーフェクトさ 此を示す ニューバランスパーフェクト を、求めている。 と、今は 置いて、います。 蛇は、様々なものに リンゴを、勧めたが 他のもの達は チャレンジを拒み、保守に走った しかし人と、言う種は チャレンジに、応じた ので、 ニューバランスパーフェクトの 担い手として 期待を与えられた と、考えます。 イエス氏が 十字架に掛けられた理由 とは 反しますが 人が安らん 其れを前に、しては その為、には イエス氏は 自らの清さを選び 安らん事を、損じるか、 はたまた、 罪を選ぶか…、 と、言えば 罪を選ぶ で、しょう 蛇が、処罰されない は、…の思し召し 罪を、背負う は、 イエス氏の 人を安らん と、思う言葉 と、考える の、ですが 聖書の描く 根底としての世界、とは 反する ので、しょうか? お教えください。

  • 本当に死にたいぐらい悩んでいます。

    本当に死にたいぐらい悩んでいます。 中学生なのですが、本当に困ってます。 五億年ボタンという話をみてから知らないうち自分も何もない世界にとばされていて五億年の時を実はすごしていえその記憶を消されているだけではないのかと考えてしまい、とても怖くなり発狂しそうになります。 自分ではそんなことありえないと思えないんです。 どうしたらこの恐怖を克服できるでしょうか。 自分ではありえないと思えないので根本的にその恐怖を解決したいんです。

  • 俗世は、何故魂の労働を為ないのですか、

    俗世は、何故金銭だけで労働を考えるのですか?

  • 承認欲求を捨てることはできるのか?

    承認欲求というのはエゴの一つですが、これを完全に捨てることはできるのでしょうか? ひとつの欲求を捨てるのでれば、まずその欲求の満足感を知っていることが前提であるのかという疑問です。 「承認欲求がある限り人は自由にならない」といわれますが、それはもっともなことだと思います。 しかしその欲求を捨てる、あるいは軽減するということを目的とした場合、その欲求が一度でも満たされているという経験が必要に思えます。 また、社会や家庭で承認欲求が満たされるという経験に乏しい場合でもその欲求をコントロールしたり捨てさることはできるのでしょうか?もし可能であればそのための具体的な考えや実践のための方法についてお聞かせください。

  • ダーウィンの進化論はラマルクの進化論とは違います

    ダーウィンの進化論は、進化の主役は自然にあり、それを「自然選択」といって、これはデカルトに始まる機械論的世界観によるものですので、目的がありません、偶然により進化します。 それに対してラマルクの進化論は彼の「動物哲学」で述べられているもので、キリンの首が長いのは、高いところのエサを食べようとして意志し、首を伸ばそうとして首が長くなったと言いました。 それを「獲得形質の遺伝」と言っています。 ところが、どなたか、首を伸ばして高いところのエサを食べるのをダーウィンの進化論と同一視して論じる人がいます。 でも、ダーウィンはそんなことは言っていません。 自然が選択して、たまたま首の長いキリンが生まれて、それが環境に適応した結果、首の長いキリンが種を増やした、と言っているだけです。 19世紀の末、英国のハーバート・スペンサーは「社会進化論」で、自然界には生存競争があり、その生存競争によって種は「淘汰」される、そして「淘汰」を生きぬいたものだけが生き残る、と言いましたが、それもダーウィンの進化論とは違うものでした。 19世紀の英国による世界制覇を合理化・正当化するためと、当時の英国の「進歩思想」、歴史は進歩発展するという思想に基づくもので、ダーウィンの進化論とは似てもつかないものでした。 ダーウィンは自然界に「生存競争」があるなんて言っていませんでした。 だから「自然淘汰」と訳していますが、正式には「自然選択」です。 それに「進化」と言っていますが、どちらかといえば「変化」です。 「進化」というと、進歩発展を連想しますが、ダーウィンは環境の変化に応じて、種も変化すると言っているだけです。 自然が進化のイニシアチヴを握っている、という意味で。 確認質問です。 間違っていますか?

  • この世の善と悪の法則

    質問です。 この世の善と悪の法則について疑問に思ったことがあります。 悪(過ち・犯罪・いじめ)を犯した人は必ずと言っていいほど、何かしらの罰を受けますよね? 多くの場合、それらを犯した直後もしくは近日中に捕まったり、交通事故に遭ったり、病気になったり、家族の誰かが亡くなったり、といった何かしらの付けが回ってきます。 ゲームや漫画、映画、ドラマでもそうですよね。悪は最終的に滅びる~的な。 他方、善を行った人には、悪(人)と違って、それ相応の”善いこと”が返って来なかったり、貢献したのにも関わらず、その思いが届かなかったり。めぐって来るとしても10~20年先になる。また、善いことを行ったけど不幸(最愛の人の死、疾病等)が返ってくる場合も当然あります。 さしづめ、 悪➡それ相応またはそれ以上の罰を受ける、罪を償う 善➡必ず返って来るとは限らない。良いことをしたのに不幸が巡って来る どうして善人の立場は複雑で苦しい立場なのでしょうか? これだと、「良いことしたのに不幸しか起きないじゃん。時間の無駄じゃね?」っていう考えが芽生えて悪に陥ると思うんですよ。 教えてください。

  • エネルギーと性質はどういう関係?

    エネルギーの属性と言われる性質ですが エネルギーは様々な性質を持ち その性質は真理の法則に従っています エネルギーはどの様にも変わるのですが、性質は真理に則っているのです そしてその性質が働くことでエネルギーに態を与え存在を実現するのです エネルギーのない性質はないし 性質のないエネルギーもありません そしてなによりも 我々の精神の多様性 これが何から来てるか考えると 性質から来てるとしか考えられません。それ以外にこの様に多様ななものは 宇宙のどこを探しもありません。 我々の精神は性質で出来ているのです。 我々の精神を存在と認めるなら その精神を構成している性質も存在と見るべきでしょう 性質に関する研究がなされてきませんでした 是非研究していただきたいものです。 エネルギーと性質はどのような関係にあるとお思いますか?

  • エネルギーと性質はどういう関係?

    エネルギーの属性と言われる性質ですが エネルギーは様々な性質を持ち その性質は真理の法則に従っています エネルギーはどの様にも変わるのですが、性質は真理に則っているのです そしてその性質が働くことでエネルギーに態を与え存在を実現するのです エネルギーのない性質はないし 性質のないエネルギーもありません そしてなによりも 我々の精神の多様性 これが何から来てるか考えると 性質から来てるとしか考えられません。それ以外にこの様に多様ななものは 宇宙のどこを探しもありません。 我々の精神は性質で出来ているのです。 我々の精神を存在と認めるなら その精神を構成している性質も存在と見るべきでしょう 性質に関する研究がなされてきませんでした 是非研究していただきたいものです。 エネルギーと性質はどのような関係にあるとお思いますか?

  • 「宇宙の外側タマネギ理論」

    こんにちは。 本当のところ、「宇宙の外側」というのは、どうなって居ますでしょうか? 外側の外側の外側・・・まで、ご解説頂ければ、幸いです。 【訊きたいポイント】・・・「さて、「そ」の、外側には、何があるんでしょう」 よろしくお願い致します。

  • 「宇宙の外側タマネギ理論」

    こんにちは。 本当のところ、「宇宙の外側」というのは、どうなって居ますでしょうか? 外側の外側の外側・・・まで、ご解説頂ければ、幸いです。 【訊きたいポイント】・・・「さて、「そ」の、外側には、何があるんでしょう」 よろしくお願い致します。

  • 仏教の出典について

    鎌倉の鶴岡八幡宮の「鎌倉国宝館」の東大寺展に行ってきましたが、作品解説に下記のように書かれていました。 「地蔵菩薩は釈迦の死後、56億7千万年を経て、弥勒菩薩が出現するまでの無仏時代に人々を救うと言われ、特に地獄に落ちた人を救済してくれる菩薩として、広く信仰されている」 この考えを書いた仏教の経典を教えていただければ、幸いです。 鎌倉なので鎌倉五山がある禅宗かもしれません。 補足として、現在頭がこんがらがっているので、如来と菩薩の違いを簡単に教えてください。 再来するのは、お釈迦様(如来)ではなく、弥勒菩薩なのでしょうか。 このようなことをお寺で質問すると、檀家でない人には答えられません、とか、修行に身なので分かりません、と言われます。 よろしくお願いいたします。

  • 存在主義 何か問題ありますかね?

    人間は存在への意志を持っています 存在主義とはあなたならあなたの存在を未来に実現するために人事を尽くすことです 余裕が有るなら在ってもいいのですが 自分が存在する為には家族の存在、社会の存在(社会で働く人の存在)が必要です。 戦争などあれば自分も危うくなりますから 世界平和と世界の人々の存在を肯定し どこまでも存在を充実し 未来に新たな存在を実現・充実していく事です。 21世紀になったらこうなるとか言ってましたが 不十分です どこまでも存在を追求し、無駄な破壊や暴力を無くすこと 生態系等の環境の存在も充実します。 つまり存在を追求していけば分かる、そして実現するのが存在主義です。 資本主義も自然と修正していくでしょう。世界平和も自然と実現していくでしょう。 存在の実現は真理に沿わなければ成りません。真理の探究が存在の実現に繋がるでしょう 悟りよ幸あれ。存在主義。 何か問題ありますかね?

  • 意識存在は輪廻転生の証拠となり得るか

    肉体の死によって全てが無になるのなら、これ以上楽なことはないと思われます。 しかし、現意識があるということは、現意識は、現世に存在したということです。 現世に存在したということは、意識がいったん無に帰したあと、ふたたび現世に現れる可能性があるということではないでしょうか。 現意識は現世に存在するという間違いを一度犯しています。 これは意識が現世に存在するということの証拠になります。 すると、無に帰した後、ふたたび意識が現世に現れるという間違いを犯す可能性があるということではないでしょうか。無に帰した意識がふたたび現世に現れないとするならば、無から意識が現れるということもないのではないでしょうか。 よく人間の意識を機械のスイッチに例えて、ついたり消したりする、それが意識に相当するものだという説があります。その説は意識を無から発生させ無に帰するものです。 しかし、優れたパソコンであっても、それは意識ではありません。優れたパソコンは電気が通っているかいないかというだけです。電気が通っていても意識はありません。 意識とそうでないものの違いは、感受性と創造性を発する主体(つまり心)があるかどうかということだと思います。 意識でないものと、意識を同一視することはできないのではないでしょうか。 そこで意識の比較対象が現時点では存在しないと思われます。だから機械のスイッチを入れたり切ったりすることは、意識が無から発し無に帰することを証明していないと思われます。 意識はまだ得体の知れない何かです。 睡眠と死を同一視する見方もあります。睡眠中は意識がなく、次の目覚めの時に飛んでしまうわけです。その間、無だったと言えるのではないでしょうか。しかし、肉体がなくなったとしたら、目覚めの時は永久に訪れないから、永久に無であると言えるわけです。 しかし、睡眠と死を同一視するのも間違っているのではないでしょうか。何故なら、睡眠は肉体が存続しているという条件で、死は肉体が存続していないという条件だからです。条件が違うのに、睡眠を理由に死を決定することはできないのではないでしょうか。 意識があるということは来世も存在するということなのでしょうか?

  • 意識存在は輪廻転生の証拠となり得るか

    肉体の死によって全てが無になるのなら、これ以上楽なことはないと思われます。 しかし、現意識があるということは、現意識は、現世に存在したということです。 現世に存在したということは、意識がいったん無に帰したあと、ふたたび現世に現れる可能性があるということではないでしょうか。 現意識は現世に存在するという間違いを一度犯しています。 これは意識が現世に存在するということの証拠になります。 すると、無に帰した後、ふたたび意識が現世に現れるという間違いを犯す可能性があるということではないでしょうか。無に帰した意識がふたたび現世に現れないとするならば、無から意識が現れるということもないのではないでしょうか。 よく人間の意識を機械のスイッチに例えて、ついたり消したりする、それが意識に相当するものだという説があります。その説は意識を無から発生させ無に帰するものです。 しかし、優れたパソコンであっても、それは意識ではありません。優れたパソコンは電気が通っているかいないかというだけです。電気が通っていても意識はありません。 意識とそうでないものの違いは、感受性と創造性を発する主体(つまり心)があるかどうかということだと思います。 意識でないものと、意識を同一視することはできないのではないでしょうか。 そこで意識の比較対象が現時点では存在しないと思われます。だから機械のスイッチを入れたり切ったりすることは、意識が無から発し無に帰することを証明していないと思われます。 意識はまだ得体の知れない何かです。 睡眠と死を同一視する見方もあります。睡眠中は意識がなく、次の目覚めの時に飛んでしまうわけです。その間、無だったと言えるのではないでしょうか。しかし、肉体がなくなったとしたら、目覚めの時は永久に訪れないから、永久に無であると言えるわけです。 しかし、睡眠と死を同一視するのも間違っているのではないでしょうか。何故なら、睡眠は肉体が存続しているという条件で、死は肉体が存続していないという条件だからです。条件が違うのに、睡眠を理由に死を決定することはできないのではないでしょうか。 意識があるということは来世も存在するということなのでしょうか?

  • 意識存在は輪廻転生の証拠となり得るか

    肉体の死によって全てが無になるのなら、これ以上楽なことはないと思われます。 しかし、現意識があるということは、現意識は、現世に存在したということです。 現世に存在したということは、意識がいったん無に帰したあと、ふたたび現世に現れる可能性があるということではないでしょうか。 現意識は現世に存在するという間違いを一度犯しています。 これは意識が現世に存在するということの証拠になります。 すると、無に帰した後、ふたたび意識が現世に現れるという間違いを犯す可能性があるということではないでしょうか。無に帰した意識がふたたび現世に現れないとするならば、無から意識が現れるということもないのではないでしょうか。 よく人間の意識を機械のスイッチに例えて、ついたり消したりする、それが意識に相当するものだという説があります。その説は意識を無から発生させ無に帰するものです。 しかし、優れたパソコンであっても、それは意識ではありません。優れたパソコンは電気が通っているかいないかというだけです。電気が通っていても意識はありません。 意識とそうでないものの違いは、感受性と創造性を発する主体(つまり心)があるかどうかということだと思います。 意識でないものと、意識を同一視することはできないのではないでしょうか。 そこで意識の比較対象が現時点では存在しないと思われます。だから機械のスイッチを入れたり切ったりすることは、意識が無から発し無に帰することを証明していないと思われます。 意識はまだ得体の知れない何かです。 睡眠と死を同一視する見方もあります。睡眠中は意識がなく、次の目覚めの時に飛んでしまうわけです。その間、無だったと言えるのではないでしょうか。しかし、肉体がなくなったとしたら、目覚めの時は永久に訪れないから、永久に無であると言えるわけです。 しかし、睡眠と死を同一視するのも間違っているのではないでしょうか。何故なら、睡眠は肉体が存続しているという条件で、死は肉体が存続していないという条件だからです。条件が違うのに、睡眠を理由に死を決定することはできないのではないでしょうか。 意識があるということは来世も存在するということなのでしょうか?

  • 人は何で人を産むの?

    生まれてこなければ、生きてる間の悩みとか死の苦しみとか一切無縁なのに。 途方もない悩みや苦しみを与えるとわかってて、どうして人は人を産むのですか? かと言って、本人が抱える悩みや苦しみなんて、誰も代わりに背負ってくれないし。 本人が「産んでくれ」と頼んだ訳でもないのに、勝手に産むなんて実に無責任じゃないですか?

  • 哲学には世界平和に責任がある?

    この何百年と願い続けられた世界平和ですが まだ実現しません。米中露の和平交渉が上手く行くと良いのですが その為には確りとした理念が必要だと思います。 その理念は哲学・思想の仕事です あなたは世界平和にどの様な考えを持っていますか? イマジンでは実現しなかった世界平和 あなたはどんな考えを持っていますか? ぜひ教えてください。

  • 哲学には世界平和に責任がある?

    この何百年と願い続けられた世界平和ですが まだ実現しません。米中露の和平交渉が上手く行くと良いのですが その為には確りとした理念が必要だと思います。 その理念は哲学・思想の仕事です あなたは世界平和にどの様な考えを持っていますか? イマジンでは実現しなかった世界平和 あなたはどんな考えを持っていますか? ぜひ教えてください。

  • 全自動運転

    「クルマの無い社会」というのが、考え難い故に、 クルマの「副作用」というのは、言わば「大目に」見られて来ました(と、思います。) それが、仮に「交通事故0」の達成が、「全自動運転」によって可能になるなら、 ドライバーは、進んで運転から手を引くべきでしょうか。 「自分で車を運転したいのなら、サーキットへ行って」 そういう時代が、来るのでしょうか。 【訊きたいポイント】 「「全自動運転」時代の到来に向けて、ドライバーの「立場」とは?」 宜しくお願い致します。