stmim の回答履歴

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  • 普遍神は 無根拠が根拠である

     1. 人間が 理念としたり理論としたりあるいは義や愛と言ったりするそのような――経験合理性にもとづく――根拠から神は いっさい自由である。  2. その普遍神への信仰は 義無きを以って義とする。義をともなえば 人間のただのハカラヒによって神を信じるに過ぎなくなる。  3. この《神と信仰についての理論》にそぐわない神論や宗教のオシへは インチキである。  4. 言わんや 神は人間がつくったなどという浅い考えは もってのほかである。  5. 人間がつくったり規定したりしてできる神なら その人間のあたまのチカラを出ない。だから おふざけにしかならない。アイドル狂いにひとしい。  6. すなわち 根拠があるなら それは 人間の理性以上のものではない。のだから 無根拠を神は 根拠としている。  ご批判をどうぞ。

  • 先立つものがないから

    よくご年配の方と、話をしていると、 「先立つものがないから」と、話される方がいますが、先立つものがないからとは、どういう意味なのでしょうか?

  • 哲学とは

    哲学とはなんですか? 専門医だけでは繋がらないから、 総診みたいなものと考えて良いのでしょうか? どのような分野がありますか?

  • 悪は存在しない。善の欠け=悪 と呼ぶ現象のみだ。

     たたき台は つぎのようです。    1. 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。ウソ・イツハリのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 動悸を速め 時に顔を赤らめます。  2. ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。  3. つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎない。という考えです。  4. 自然本性と言うべき心としての善 これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことをも 悪と呼ぶ。     5. 悪は 存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。

  • オシへを信じるなどと どうして考えるのか

     キリスト教を信じるとか 仏教を信じるとか。  いったいどうなっているのか?  オシへは 人間の言葉で書いた命題であり思想である。  倫理規範をもふくむゆえ オシへにするのは自由だが だからと言って《考える》べき人間の自己表現をどうして 無条件に丸飲みするのか?   また そう信じなさいと他人に説くおろかさがまかり通っているのか?  信じる対象は 人間の思考を超えているに決まっているぢゃないか。  いったい人間は どこまでおろかなのか。

  • 善人なおもて往生をとぐ況や悪人をや

    私のような 何かと人に忌み嫌われる人。 暗闇から石つぶてが飛んでくる。 辻角から槍や棒が突きだされる。 どこからともなく水をひっかけられる 山月記の李徴のようです。 私の性格は多くの人が指摘しています。 70年前の小学校の恩師も、そういう性格だから気を付けろと。 閑院純仁さんにご一緒して訪問したある団体の方からも。 そして40年精進している信仰修行の団体の責任者からも。 人の目につくところに出てはいけないと。 そして46年(12年前に退職)いた大学の仲間たちからもそういう指摘がある。 ずぅっと同じところに住んでいるので70年前の友人たちも。 だから今は出ない。 なぜそういう存在なのかは分からない。 だが李徴の化身した虎のさが(性)であるようです。 何かがあるが、カウンセリングや療法での問題ではなさそうです。 気を付けて道を歩いています。 親鸞がいう悪人ってこういう人なんでしょうか。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1315057825...

  • 悪は存在しない。善の欠け=悪 と呼ぶ現象のみだ。

     たたき台は つぎのようです。    1. 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。ウソ・イツハリのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 動悸を速め 時に顔を赤らめます。  2. ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。  3. つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎない。という考えです。  4. 自然本性と言うべき心としての善 これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことをも 悪と呼ぶ。     5. 悪は 存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。

  • オシへを信じるなどと どうして考えるのか

     キリスト教を信じるとか 仏教を信じるとか。  いったいどうなっているのか?  オシへは 人間の言葉で書いた命題であり思想である。  倫理規範をもふくむゆえ オシへにするのは自由だが だからと言って《考える》べき人間の自己表現をどうして 無条件に丸飲みするのか?   また そう信じなさいと他人に説くおろかさがまかり通っているのか?  信じる対象は 人間の思考を超えているに決まっているぢゃないか。  いったい人間は どこまでおろかなのか。

  • 堕落した現在の日本仏教

    みなさま、初めまして。 今の日本にいる僧侶は、堕落していると思いませんか?。 釈迦がいた時代は、輪廻転生から解脱するため、生涯修行して いたと思うのですが、今の日本の僧侶は修行はしない、結婚して、 エッチして子供作る、娯楽に興じる、アルコールを飲むなどなど。 「ぶっちゃけ寺」を見てると、本当にそう思います。 今の修行は、宗派にもよるかと思いますが、数年で本山を終えて、 各寺の自分の寺に戻るみたいですが、はたして今の日本の僧侶で 自分の寺で修行している人っていますか?。 もし、釈迦がいたら、今の僧侶に向かってなんて説法しますか?。 ふと感じたことなので、お気軽にお答えいただければと思います。 宜しくお願い致します。

  • なぜ水分は人間に必要不可欠な生命線なのに

    なぜ水分は人間に必要不可欠な生命線なのに 海の水はしょっぱくて飲めないように神様はしたのでしょうか?

  • 世界に問おう、日本はこのままでいいのか?

    この21世紀の煮詰まった閉塞感の世界に問いたい 日本はこのような現状でいいのか?平和憲法を捨て、国民に格差を生じ 酷い労働環境、借金塗れなのに大幅な赤字予算、少子高齢化でも職がなく 有っても難民は受け入れない。 それで自分たちだけは一番強い国にくっついて行こうと言う 長いものには巻かれろ式のポリシーの無さ。 日本に思想などあるのだろうか?日本に哲学があるのか? 前回は存在論を問いましたが・・・今回は哲学を問います。 日本の哲学とはズバリ何?簡潔に表現して下さい。 一字でも構わない。

  • 集団的自衛権に貴方の哲学で物申して頂きたい。

    安保関連法案が国会で承認された様です。 みなさんどう思いますか この方向性を? 皆さんの哲学でこの集団的自衛権を含んだ関連法案に物申して頂きたい。 どうお考えでしょうか?

  • 悪は存在しない。善の欠け=悪 と呼ぶ現象のみだ。

     たたき台は つぎのようです。    1. 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。ウソ・イツハリのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 動悸を速め 時に顔を赤らめます。  2. ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。  3. つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎない。という考えです。  4. 自然本性と言うべき心としての善 これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことをも 悪と呼ぶ。     5. 悪は 存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。

  • 神は概念であるというだけのバカらしさ

     《かみ》と 言葉で言っているのだから 何らかの概念であるに決まっている。  それで終わってしまうという神経が分からない。  なぜ人間は 世界のすべてを概念で知ってしまい得ると思うのか。  《無限》は 概念であるだけか?  二で割っても三で割っても その商はやはり無限であるというその概念説明は それで分かったと言えるのか。

  • オシへを信じるなどと どうして考えるのか

     キリスト教を信じるとか 仏教を信じるとか。  いったいどうなっているのか?  オシへは 人間の言葉で書いた命題であり思想である。  倫理規範をもふくむゆえ オシへにするのは自由だが だからと言って《考える》べき人間の自己表現をどうして 無条件に丸飲みするのか?   また そう信じなさいと他人に説くおろかさがまかり通っているのか?  信じる対象は 人間の思考を超えているに決まっているぢゃないか。  いったい人間は どこまでおろかなのか。

  • 悪は存在しない。善の欠け=悪 と呼ぶ現象のみだ。

     たたき台は つぎのようです。    1. 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。ウソ・イツハリのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 動悸を速め 時に顔を赤らめます。  2. ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。  3. つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎない。という考えです。  4. 自然本性と言うべき心としての善 これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことをも 悪と呼ぶ。     5. 悪は 存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。

  • 神は概念であるというだけのバカらしさ

     《かみ》と 言葉で言っているのだから 何らかの概念であるに決まっている。  それで終わってしまうという神経が分からない。  なぜ人間は 世界のすべてを概念で知ってしまい得ると思うのか。  《無限》は 概念であるだけか?  二で割っても三で割っても その商はやはり無限であるというその概念説明は それで分かったと言えるのか。

  • オシへを信じるなどと どうして考えるのか

     キリスト教を信じるとか 仏教を信じるとか。  いったいどうなっているのか?  オシへは 人間の言葉で書いた命題であり思想である。  倫理規範をもふくむゆえ オシへにするのは自由だが だからと言って《考える》べき人間の自己表現をどうして 無条件に丸飲みするのか?   また そう信じなさいと他人に説くおろかさがまかり通っているのか?  信じる対象は 人間の思考を超えているに決まっているぢゃないか。  いったい人間は どこまでおろかなのか。

  • 間違っているぞ~~!!

    この世には愛も正義もある。何を愛して何を愛さないかが分からなくなりかけています。 正義と正義はぶつかりますが 調和する道はあるのです。人間にはその可能性があります。 もっとナチュラルに もっと理性的に もっと先人の知恵を活かして 資本主義というヤマタノオロチを制御しなければなりません 資本主義なんて 人間の為に考え出されたものではありません、弊害が多いのです。 共産主義も武力革命をしてはいけません。武力は武力を招くだけです 日本だけでも自殺する人が年に2万5千人ほどいます。世界ではどれだけいるのか? 多くの人が不条理の中に押しつぶされて悲惨な思いで死んでいきます 鬱や引き篭りの人も多いでしょう。労働環境も悪くなる一方です 派遣の法案が通りましたねえ。安保関連法案なんて愚の骨頂です。 人を殺さない国が 人も殺す国になるのです。日本の平和ブランドの終わりです 300万の犠牲者に誓った 二度と過ちは繰り返しませんから という近いは何だたのでしょうか? 日本は舵取りを間違っています。中国ともアメリカとも和して、南北朝鮮統一に賛同し 大国のエゴがまかり通らないように物申すべきではないのでしょうか? 国連を実効在るものにして、世界を一つの国家にすべく調整してゆけば良いのではないでしょうか? 物心つかない小さな子供に言わせて、嘘じゃないと宣伝するCMやドラマ いかに大人が嘘をつくかありありと証明しているのではないでしょうか? こんな日本は間違ってます。1000兆円の借金を同解消するか 根本的な解決が必要です。 教育、憲法、平和外交から資本主義を大幅に修正する第三の主義まで基礎から考え直すべきです 日本も世界も間違っている。このままではダメになる。こんな残酷な現実じゃダメだ。 勉強をしたくない生徒に無理やり数学を教えるべからず。

  • 所有権は 絶対なる無限――不可分離――なのか

     § 1 まづ初めの議論として 《絶対なる無限》を 実数なる無限――実無限――として扱い得るか?  無理数の存在をめぐる実数無限(それは 可能無限)に対して そのアタイの限りなさを或る種の仕方で確定させるということ。  すなわち この実無限という仮定。  実無限として実数無限を扱い得ると仮定するその視点。  仮定するのも仮定したその眼を持つのも 人間ですが それは仮定としてしか人間には分かっていません。実無限ということの内容について 実際に人間が知ったということにはならない。  それでも 仮定をもとにして――あるいはそれをさらに公理として据えつつ 公理のもとに――推理を展開する。  それによって 現実の事象と対応する結果が得られることがある。  仮定は――あるいは背理法のばあいは仮定に反する内容が―― 妥当だと見なされる。        ――こういったことはあり得るのでしょうね。       § 2 ひとつの島をめぐって ふたりの人間がその所有権をうったえてあらそっているとき・・・。  そこへ いわば実無限としての仮定を補助線のごとく引く。ことは 出来ますかねぇ? どうでしょうか。  《実無限》としての眼 これは――アレフさんとしましょうか―― 人間にとってまだ現実のモノゴトではありませんが 何らかの――言ってみてもよいのでしょうか――解決としてのあり方を示すことが出来ましょうか?  あらそうふたり・あるいはわれわれ人間の眼には なかなか見えないのですが それでもアレフさんの眼には 所有権の確定した図柄が見えていましょうか?  あるいは 所有権ということが 問題なのでしょうか?  あるいは 特に領土となると その主体としての国家が問題なのでしょうか?  あるいは 人心の意向やその趨勢というものが なんぴとの手にも負えないしろものなのでしょうか?  というふうに アレフさんの物語は 想定でありつつ 現実にチカラを得て行くことが出来ましょうか? どうでしょうか。  それとも 島の領有をめぐる問題には アレフさんはお休み願ったほうがよいのでしょうか? 限りなくつづく無理数のままにしておいたほうが?  ☆ このバスがどこ行きなのか 必ずしも分からないままに問うています。