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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:聖書の描く世界の中で、蛇は…)

聖書の描く世界の蛇とは?

stmimの回答

  • stmim
  • ベストアンサー率24% (57/236)
回答No.4

イブにリンゴを食べさせた蛇に対して神様は次のように言っています 神は蛇を罰しています 創世記/ 03章 14節 「主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は/あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で/呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。 」

Nouble
質問者

お礼

有り難うございます。 〉塵を食らう あれは 塵、なのですかね? 其れとも 慈愛により 肉を食っている の、ですかね? 興味深く、感じます。 また、 此の様な事態になる前に 管理者責任を 何故、果たさなかったか 自らの 管理者不行き届きを、差し置いて 罪を断じず 個を断じる 許しを示さない 興味深いです。 断じられる前、 蛇は、どの様な姿だったのか 興味深いです。

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    聖書中一人だけ律法を破ることを教えている者がいます、 エフェソス 2 「15 この方は自分の肉によって敵意を,すなわち[数々の]定めから成るおきての律法を廃棄されました。それは,二つの民をご自身との結びつきのもとに一人の新しい人に創造し,平和を作り出すためでした。」 確かにここで、パウロは律法は廃棄されたと言っているので、イエスの言葉を参考にすると、 パウロは天の王国に関連して一番小さい者ということになるんですが、実際にパウロは自分の事を一番小さい者と言っています。 エフェソス 3 「8 すべての聖なる者たちの中で最も小さな者よりさらに小さな者であるわたしにこの過分のご親切が与えられ,こうしてわたしは,キリストの測りがたい富に関する良いたよりを諸国民に宣明し, 9 定めのない過去から,すべてのものを創造された神のうちに隠されてきた神聖な奥義がどのように管理されるかを人々に示すことになりました。」 さらに、イエスは、 マタイ 10 「34 わたしが地上に平和を投ずるために来たと考えてはなりません。平和ではなく,剣を投ずるために来たのです。」 で、平和を投ずるために来たと考えてはなりませんと言っていますが、パウロは平和を作り出すだめでしたと、エフェソス2の中で、続けてダブルでイエスの言葉と対立しています。 しかし、パウロは自分のことを一番小さい者であると理解した上でこれらの言葉を言っているのが非常に気になったのですが、まず、 テモテ第一 1 「15 キリスト・イエスが罪人を救うために世に来られたとは,信ずべく,また全く受け入れるべきことばです。わたしはそうした[罪人]の最たる者です。 16 それなのにわたしが憐れみを示されたのは,わたしの場合を最たる例としてキリスト・イエスがその辛抱強さの限りを示し,永遠の命を求めて彼に信仰を置こうとしている人たちへの見本とするためだったのです。」 ここで、パウロは自分が最たる者で、イエスが辛抱強さの限りをしめした見本であるということ、 ローマ 9 「3 わたしは,自分の兄弟たち,肉によるわたしの同族のために,自分自身がのろわれた者としてキリストから引き離されることをさえ願うのです。」 キリストから引き離されることを願うと言っており、 ヨハネ 16 「8 そして,その者が到来すれば,罪に関し,義に関し,裁きに関して,納得させる証拠を世に与えるでしょう。」 で、真理の霊は罪と義と裁きの証拠を与えると書いてあるのに、パウロは、義と自制と裁きについて話すと書いてあります。 使途 24 「25 しかし,彼が,義と自制と来たるべき裁きについて話すにつれ,フェリクスは怖れを感じ,「今のところはもう下がってよい。よい時があったらまた呼ぶだろう」と答えた。」 この3つの証拠がなんなのかは聖書中誰も触れていないので、この証拠を提示できる組織は真理の霊から来ている組織であるのは間違いないと思いますが、すくなくても、ここではパウロは罪と義と裁きに関してではなく、自制と義と裁きに関して話しているのは間違いないと思います。そう書いてあるからなのですが。 じゃあ、パウロは何なのかと考えると、イエスがマタイ5で言っていて、自分自身でも言っているように、天の王国には関連しているが、イエスが辛抱強さの限りをしめして助ける一番小さいものと呼ばれる者達の見本だというのは話がつながっています。 そうすると、 イザヤ 48 「10 見よ,わたしはあなたを精錬した。しかし銀[として]ではない。わたしは苦悩の溶鉱炉であなたを選んだ。」 で、再び集められるヤコブの家の特徴として、苦悩の溶鉱炉と、イエスが辛抱強さの限りを示した最たる例をつなげると、このイザヤ48はパウロを見本としてパウロの言葉通りに行動している者ということを考えると、この者達は 同章「1真実によらず義によらずに語り告げる者たちよ。」 と書かれていて、同じく 同章「あなたがわたしのおきてに実際に注意を払いさえすれば!そうすれば,あなたの平安は川のように,あなたの義は海の波のようになるであろうに。」 と書かれているので律法を破ることを教える者とここで繋がります。 さらにこの者達は、 同章「9 わたしはわたしの名のために怒りをとどめ,わたしの賛美のためにあなたに対して自分を制し,あなたが断ち滅ぼされることのないようにする。」 で、神の名の為に怒りをとどめて助けられる者達は誰なのか、 同章「2 彼らは自分を聖なる都市からの者と呼び,イスラエルの神に寄り掛かったからである。その方の名は万軍のエホバという。」 で、聖書に神の名を署名したのは誰なのかというのが、OKWaveで最初に質問した質問の詳細なのですが、さらにエホバの証人が嘘を教えているというのであればキリストに属する最たる例であると(イザヤ48「真実によらず」により)自ら証明していることになるんですが、まず、 モーセの律法は本当に破棄されたのか、本当に破棄されていないのか、どちらかを強力に証明する聖句を使って詳しく教えてください。 エホバの証人は助からないというのであれば、このイザヤ48章に当てはまる組織はどこですか? 聖書だけを使って、さらにその聖句の解釈を裏付ける他の聖句を使って教えてください。 ・パウロは自分にねたみをおこし、それによって神を学ぼうとすることでも喜ぶと書いてある。 ・パウロは分裂している者達に誰の、何が正しいのかとは言わず、あなたたちは皆キリストに属しているのですの一言で終わっている。 ・パウロは全てを知っているが全ては話さないと言っている。 ・パウロは自分がヤコブの家のベニヤミンの部族なのだと言っている。 ・パウロは分裂、分派、敵意を示し続ける者は滅ぼされると言っている。 ヨハネ 13 「33 小さな子供らよ,わたしはあと少しの間あなた方と共にいます。あなた方はわたしを捜すようになるでしょう。そしてわたしは,『わたしの行く所にあなた方は来ることができない』とユダヤ人たちに言いましたが,今はあなた方にも同じように言います。 34 わたしはあなた方に新しいおきてを与えます。それは,あなた方が互いに愛し合うことです。つまり,わたしがあなた方を愛したとおりに,あなた方も互いを愛することです。」 これらの理由によりどこについて行けばいいのか、今すごく悩んでいるのですが、 本当にエホバの証人以外はすべて背教だったのか? 本当にエホバの証人は世界3大悪宗教なのか? 律法が破棄された、破棄されてないという対立教理に関してどちらかをとることになった証明の聖句を教えてください。お願いします。

  • キリスト史観は 終えられて あたらしい世界へと。

     1. イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。   ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~    はじめに ことばがあった。   ことばは かみとともにあった。   ことばは かみであった。   このことばは はじめにかみとともにあった。   すべてのものは ことばによって成った。   成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。   ことばの内に いのちがあった。   いのちは 人を照らすひかりであった。   ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。   くらやみは ひかりをとらえ得なかった。   ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~   16:しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。    あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。   17:はっきり言っておく。    多くの預言者や正しい人たちは、    あなたがたが見ているものを見たかったが、    見ることができず、    あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、    聞けなかったのである。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    2. つまり ヨハネ福音のほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。  3. これにしたがうと イエスは キリストなる神として モーセやアブラハム(=《預言者や正しい人たち》)よりも前にいたことになります。    4. その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちでここでは扱います。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たと見るひとつの主題です。  5. すなわち キリスト・イエスを俟ちのぞみつづけた歴史。これをメシアを待望するという恰好のキリスト史観と名づけます。    6. さて そのアブラハムからの二千年ほどの歴史は 別の質問で取り上げていますので措いておきますが たとえばイエスの時代において ペテロを初めとする弟子たちも イエスがメシアだとは分からなかった。という問題があります。  7. イエスが十字架上に去って行ったあと初めて かれがキリスト・イエスだと分かった。イエスが捕らえられたときには 自分たちは逃げ去ったほどでした。  8. 生前には――イエスはみづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。口では言っていたが 《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。この問題です。  9. それは 次の聖句を引き合いに出して説明されるようです。   ▲ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~   21: 更に、主は言われた。     「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。     あなたはその岩のそばに立ちなさい。   22: わが栄光が通り過ぎるとき、     わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、     わたしが通り過ぎるまで、     わたしの手であなたを覆う。   23: わたしが手を離すとき、     あなたはわたしの後ろを見るが、     わたしの顔は見えない。」   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  10. つまり 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――神なる真理そのもの――》は 見えない。と。      11. でも キリスト史観は 成就した。と――言うなれば《ことばの民》なる民族にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移するというかのように――捉えられているものと考えられます。    12. この虚構が なかなか捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのかを別としても。  13. ことばを《こと(事・言)の端》として捉える民にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか?   13-1. たぶん 辻褄は合っている。か。   13-2. 二千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとな        まれたと言われても こたえようがない。か。  14. といった問題もさることながら――つまり 一応そう触れておいた上で―― ここでは このキリスト史観について それが成就した途端にもうその使命を終えたという見方を持ちます。  15. そうして そのことによって 世界のすべての人びとにとって あたらしい世界を用意した。と考えます。キリスト史観がです。  16. あたらしい世界とは 何か?   17. あえてこの質問ではたたき台を必ずしも用意せず みなさんからいろんな見解をお聞きしたい。否定的な見解もありましょうが どうでしょう?  18. 質問者のひとつの焦点は キリストの背面を人間は見ることが出来たとするのならば そのような《神のうしろ姿》とは どういうことか? です。  19. 神の正面の姿を見ることができる(出来た)と説くシュウキョウの問題もあるかと思いますが・そして質問者としてはそういうふざけた自己表現はもう論外としたいと考えていますが いづれにしましても どうでしょうか?

  • キリスト教における自殺について

    よろしくお願いします。 キリスト教では非常に明確に、神に対する重い罪として自殺を禁じていますよね。 1、自殺することは他殺することよりも重い罪だとキリスト教では考えているのでしょうか? もし自殺の方が他殺するよりも重い罪である場合は、その理由はなんでしょうか? 2、聖書を見ると、自殺したという人の記述はあるそうですが、ことさらに自殺であることを強調して地獄に堕ちるとかは言ってないそうですが、現在のキリスト教では聖書やあるいはどのような教義によって、自殺の絶対的な罪を言っているのでしょうか? 殉教は自殺とは規定されないのですよね。キリスト教が規定する罪となるところの自殺とはそもそもどんなものでしょうか? 3、自殺の絶対的罪を言うようになったのは、イエス時代からでしょうか? それともある程度の解釈の変遷があり、言い出した時代などもわかっているのでしょうか?

  • キリスト教の世界観について

    私は無宗教ですが、いろんな宗教に関心はあります。世のため人のためになる信仰なら良いと思うし、論理的に筋が通っているなら神は存在しているとしても問題ないと思います。(神がいない事を科学的に証明できないだろうし) 訪問してくるエホバの証人のお兄さんと時々論議しているのですが、キリスト教の世界観に違和感を感じます。(どこまでがキリスト教の教義で、どこからエホバの証人の教義なのか線引きはよくわかりませんが) 神が造った人間は神に従って不老不死で永遠に楽園で暮らせたのに、サタン(蛇)にそそのかされて知恵の実を食べたため、この世界に「罪と死」が入ってきたということです。今の世界は直接的にはサタンが支配していて、最終的に神がそれを終わらせて神の統治がはじまるそうです。 神話的な話ですが、どんな暗示を含んでいるのかとても興味あります。(聖書は難解なのできちんと読んだ事がなく解説本を読む程度です。) 以下、エホバのお兄さんとの論議の流れです 唯一絶対・全能神が創ったこの世界における「サタン」とは? →堕天使であり、もとは神の被造物。 なぜ完全である神の造ったものがサタンになったのか? →自ら勝手になった。 完全である神はそれを予想しなかった? →神は先を見通す力があるが、使うときと使わないときがある。 神はなぜ人間に害をなすサタンを放っておく? →神の主権の正しさを人間にわからせるため それって「必要悪」ってこと? →違う。神は人間の「自由意思」で神を選んでほしい それってやっぱり、試金石としてサタンが必要? →(そこは否定) じゃあ、自由意思というけれども、サタンを選ぶのも自由なのに、最終的に神に滅ぼされるのが決まってるなら、自由選択というのはちょっと変じゃない? →どんな人間が滅び、どんな人間が神の国で生きるかは、神が決めることなのでわからない。 宗教は科学的である必要はないと思いますが、論理的に筋が通っている事は必要ですよね?大事な所はいつもボカされている気がします。 さて質問を整理すると、キリスト教の世界観におけるサタンの存在について、論理的に納得できる説明ってあるでしょうか? 私は自分なりに考えて、 神は、意図的に悪(サタン)を世界に加えた。それを人間が駆逐・克服していく過程で世界は発展していき「神の国」という理想の世界に近づいて行く。それは神が仕組んだプログラムかもしれないけれど「神の国」はあくまで人間が創る。 …とするとスッキリするんですが、エホバのお兄さんが言うには、天の国では1914年だかにイエスの統治による神の国が始まっていて、現世も近いうちに神の統治が始まるらしいです。人間にできる事は、神を信じ、神に愛される生き方をする事であって、理想の世界を創るのはあくまで神の実力行使。人間が世界を良くしようとする努力を否定してるように感じるのです。

  • 神がみづからを揚棄しちゃった:エレミヤ書31:31

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  みづからによるみづからの揚棄をおこなった。  つまり おこなうと預言させて   子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▼ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    ▲ (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)~~~~~~~~~     見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。     それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。     それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである     ――と、主は言われる。     すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲(エレミヤ書・同上) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  (α‐1)  ▼(パウロ:コリント後書 3:6) 文字はころし 霊は生かす。  ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると考えられる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと じんるいの全体としてひとつである。無い神も同じひとつの神である。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれることとなって〔みづからを〕棄てた。  (γ‐3)  そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神の名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。  ハタラキを及ぼす《神 と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。  ご教授・ご批判を俟ちます。賛成票をもどうぞ。