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仏教の教え

仏教の教えで、 煩悩も悟りを開く元となる 煩悩のお陰で仏道に導かれる契機をつかむこともある という考えがあったように思います。 これを何と言いましたか? また、このような考えを述べた、わりと有名な古文を見た記憶があるのですが、何でしたか?  徒然草、平家物語、正法眼蔵随聞記、のどれかだったかもしれません。

  • gesui3
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  • Nakay702
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回答No.1

以下のとおりお答えします。 >仏教の教えで、 煩悩も悟りを開く元となる 煩悩のお陰で仏道に導かれる契機をつかむこともある という考えがあったように思います。 これを何と言いましたか? ⇒「煩悩即菩提」と言います。 >また、このような考えを述べた、わりと有名な古文を見た記憶があるのですが、何でしたか?  徒然草、平家物語、正法眼蔵随聞記、のどれかだったかもしれません。 ⇒『正法眼蔵随聞記』らしいです。 例えば、https://okwave.jp/qa/q9996947.htmlには次のような説明があります。 一部引用しておきます。 (引用) 《「煩悩即菩提」は禅の中だけで使われていると誤解されるかもしれませんが、そうではありません。禅語として挙げられる言葉を紐解けば、今回の煩悩即菩提を題材にしているこのエピソードのように、お釈迦さんの時代へと繋がっています。 お経には、文の不足も多いので、こうして補足していくわけですが、こういった補足部分は、別の機会にお釈迦さんが語っていたり、あるいは正法眼蔵(道元禅師著)など、他の経典や書物などで書かれていたりします。》

gesui3
質問者

お礼

「煩悩足菩提」というのですね。 ご照会のサイトを見たら、自分の所に戻ってきましたので、独自に調べたらよく分かる解説に行き当たりました。どうもありがとうございました。 参考: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%A9%E6%82%A9%E5%8D%B3%E8%8F%A9%E6%8F%90#%E8%A6%AA%E9%B8%9E%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E8%A7%A3%E9%87%88

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