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遣唐使船について

oska2の回答

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  • oska2
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回答No.3

>張 宝高という朝鮮人の名前が出てきます。 当時も、既に多くの朝鮮出身の渡来人が多く住んでいましたからね。 有名な朝鮮(百済)人では、中臣鎌足。 神社の基礎を築いた、加茂一族(下鴨神社・上賀茂神社神官)。 ※「鴨が葱を背負って」という言葉がありますよね。古くは、「加茂一族の元に禰宜が集まる」の意味です。 ※天皇家は、明治維新までは下鴨神社・上賀茂神社神官に参拝していました。 ※明治までは、天皇は一度も伊勢神宮を参拝した事はありません。 秦一族(京都太秦近辺を本拠にした)も、渡来人として有名ですね。 >当時の中国と日本の往来は、そんなにあったのでしょうか? 案外、交流があったのです。 海路は危険なので、歴代中国の支配下にあった朝鮮を経由する陸路利用も多かったのです。 ※この陸路経由を理由として、韓国では「日本文化は、すべて韓国が起源」と教育しています。(爆笑1) ※稲作・印刷・火薬・羅針盤。最近では、漢字も韓国起源説を唱えていますよ。(爆笑2) 余談ですが・・・。 中国大陸を経由して、海路で山陰にたどり着いたのがスサノウを王とする出雲一族です。 スサノウ一族からは、物部一族が誕生しています。 以上、文科省非公認の逸話でした。^^;

tahhzan
質問者

お礼

いやはや、意外な歴史に少々驚きました(鴨が…も(笑))。ありがとうございました。大変、参考になりました。

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