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遣唐使船について

SPS700の回答

  • SPS700
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回答No.2

 当時の中国と日本の往来は、そんなにあったのでしょうか?  はい。3世紀に陳寿が書いたとされる『魏志東夷伝』には、今の朝鮮北方にあった・帯方郡からの行程を「従郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓国 七千餘里」とあって、朝鮮半島の西海岸沿いに水路をあるいは南にあるいは東に進むと倭に着く、とあります。  また同じ記録の中に倭の王に与えたと書いてある金印が、博多沖の志賀島から発見されています。これは、倭が貢物を持って行った返礼ですから、それまでに朝鮮経由の往来は結構あったようです。  遣唐使のルートは三つあって、  630年に始まってから約40年間は京都を出、大阪から瀬戸内海を博多まで行き、壱岐、対馬、あとは朝鮮半島の西海岸を北上し、黄海を渡って、山東半島、あと陸路で洛陽を経て長安という「北路」  これが663年に白村江(今の錦江)で話運が負け、それ以来、北はやばい、と南島路になります。平戸、九州南端、種子島、屋久島、奄美島、それから杭州沿岸という吹きそうね時代があります。  そして、8世紀の後半、から、遣唐使が終わる890年代まで、博多、五島、あとは長江河口付近まで運を天に任せる「南路」になります。  http://kousin242.sakura.ne.jp/wordpress018/?page_id=2976  ですから日本と中国の往来は少なくとも3世紀以来あったと思われます。

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