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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:森の中にいると視線を感じるのはおかしいですか?)

森の中で視線を感じる理由とは?

このQ&Aのポイント
  • 森の中に住んでいると視線を感じることがある。
  • 大人になっても森の中で視線や気配を感じる。
  • 他の生き物が見ていると感じる時は、居心地が悪くなる。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • ZXYZY
  • ベストアンサー率25% (199/777)
回答No.4

日本には森羅万象と言う言葉が有ります。 これは樹木が限りなく茂り並ぶ様にあらゆるもの(万物)が存在すると言う意味です。 気づいていない方が多いとは思いますが、見ると見られるは一対です。 見ている人は見られているのです。 森の中で、目を閉じると目を開けているよりも更に多くの音が聞こえてきます。 聴覚を遮断すれば、私たちの目は更に多くの視覚情報を見つけようとします。 この世の生きとし生けるものは、全て呼吸し、活動し生活をしています。 森の中に、異物(人間も異物です)が侵入すれば、木も虫も動物も鳥もその異物を見ます。 何も人間だけが他人やモノに視線をくれるわけではないのです。 世の中に、人工物をはじめとする様々なものが溢れてしまった現代においては人間の五感は麻痺してしまい、その先の第六感は使うことさえ出来ません。 しかしながら、質問者様は多感な子供時代に森に囲まれて過ごしたことによりモノを見る目、モノの声を聴く耳が研ぎ澄まされ未だその機能が失われずにいるのだと思います。 普通の人よりそれらの機能が敏感に反応するから視線や気配を感じるのです。 全てのものは、自分が感じることが出来なければ信じられないし、受け入れられません。 悲しいかな、殆どの現代人が失われた機能をあなたが持っているから変人扱いされるのです。 少なくとも、私は信じますし、偶にではありますが私も同様の経験が有ります。 大丈夫です、あなたはおかしくは有りません。 人よりその機能が優れているだけです。 その機能があれば、森や山中で迷うことや危険を回避したりすることが出来ます。

sheggy
質問者

お礼

見ると見られるは一対、改めて意識しますと不思議な感じですね^^ 子供の頃、街頭のない舗装はされてる道路上ですが森の中の暗い道を学校から歩いて帰らなくてはならず、本当にみんながこちらを見ているきがしてとても怖かったです。その森の中で過ごした時期は少なく、そのあとは割と都会に引越したのでとても気分が良くない時期が続きました。いろいろな感覚を麻痺させる時間が必要だったのかもしれません。信じることができないと受け入れられない、本当にその通りだと思います。それからいろんなことを信じるのをやめて拒否し続けている気がします。なんと言いますか 拒否するチカラを少し弱めてみたいと思います。とても森羅万象という響きが心に残ります。ありがとうございました

その他の回答 (5)

  • ii_z
  • ベストアンサー率68% (11/16)
回答No.6

子供時代に森の中で生活していたのですか。羨ましいですね。 「視線」や「気配」は当たり前にあなたの周囲の動物たちの視線や気配と思います。 それらは必ずしも超感覚的な物だけとは限らず、あなたが半意識・無意識のうちに視覚の端、聴覚の隅で細切れに動物の姿を見、動物たちのたてるかすかな音を聞き、それらを無意識のうちに認識していて、それら細かい希薄な多数の情報が総合して、あなたの意識上ではそれとない気配や視線を感ずるように自覚する。ということなのかもしれません。 そういう能力が子供時代から磨かれてきたのでは? 私は森の中で生活はしてきませんでしたが、年を取る前はしばしば森の中に作業に行ってました。 そのような時に私が感じたのは「自然に参加している感覚」です。 勿論人間として生きていれば自然に当然参加しているわけですが、それ以上に森の中でしばらく作業をしていると濃厚に自然参加の感覚がしてくるのです。 「自分は自然の一部なのだ」「自然は自分を受け入れてる」「自分が今日この時ここに来るのは何百年も前から決まっていたのだ」「自分は自然の役に立ってる」「自然は自分を必要としている」等々という感覚が湧いてくるのです。 偶然や自由意志でそこにいるのではなく、必然として自然の中のそこにいるという感覚です。 その時その場に来なければならない必然が自然的に有って、自然の中にいるその時の自分は自然の仕組みの中に組み込まれていて、自分は自然の役に立ち自然は自分を必要としていて、そして自分も自然を必要としている・・・というか。 森の中から出てきてしばらくするとその感覚は消えてしまい、そしてどういう感覚であったのかさえ記憶から薄れていく。 今、上記のように書いてますが、その感覚の記憶はおぼろげなので一部は正確ではないかもしれません。 私は登山などめったにしないのですが、登山家が登山する際に感ずる魅力というのもそういうものなのかもしれません。 そのあたりに動物がいれば「オッス」と挨拶を交わす関係です。共に自然の一部であり、共に自然の役に立っており、生きるも死ぬも全て何百年何千年も前から運命として決まっている。そういう自然の仕組みの中で今日その瞬間に出会っている自然の仲間ですから。 「動物vs自分」ではなくて、「自然vs自分」と「自然vs動物」であって自分と各動物は対自然で生きていて、動物も自分も自然の一部なんだから動物と自分は「オッス」の関係。(でも熊には気を付けてください)

sheggy
質問者

お礼

自分がここにいる、これをするのが決まっている感覚、カチッと全てが噛み合うような瞬間が怖くて、最近はいつでもどこにいても否定している気がします笑 お話を聞いてとても楽になりました。これから気軽にオッスしてみます。ありがとうございました

  • oska2
  • ベストアンサー率44% (2327/5177)
回答No.5

>そこは私の居場所ではないから帰りなさいという感じで居心地が悪くなります。 野生動物側から見ると、部外者の侵入を拒否しているのですね。 遠くから侵入者を監視しているのです。 ある程度まで侵入してくると、危害を感じて攻撃的になる事もあります。 >自然豊かなところで暮らすとこうなりますか? 郷に入っては郷に従え! この考え方で暮らせば、野生動物との生活が可能ですよ。 ポツンと一軒家の住民も、「ここには狸・鹿・猿などが近くまで来る」と話しますよね。 里山に住んでいる方々は、鹿・猿などの農作作物被害にを受けても楽しく住んでいますよね。 >超現象というほどのものではないですがほかにみつからずカテ違いでしたらすみません。 ジブリ映画「もののけ姫」ですね。

sheggy
質問者

お礼

もののけ姫… 以前、屋久島の人とお話する機会があり、ちらっと森の中ではみんながこっちを見ていると言われて、初めてその話が通じる人と会えたのですがその話はすぐ別の話題に移りそれ以上話すことはできませんで、こちらへの投稿へ至りました。拒まれた時はそれに従います。ありがとうございました

回答No.3

森の中では何かの視線を感じた事はありませんが、人のあまり入らない自然の多い場所で自分を拒否される感覚や少し高い空間に何か物の存在を意識することはあります。拒否される感覚があった時はそこから深入りせず離れるようにしています。

sheggy
質問者

お礼

そうなんですよね、人の入らない場所や周囲に人がいないところの方がその感覚があります。自分が極端に怖がりなだけなのかと思う時もありますが、そうではなさそうでよかったです。ありがとうございました

noname#248885
noname#248885
回答No.2

森に限らず、生活してたら「誰かに見られてる」「どこかで覗かれてる」気はします。そういうときって、だいたい自分が他の人に見られたくないときです。または。後ろめたい気持ちや罪悪感があるときとか。 私の場合、自己否定がすごい強かったときに「誰かに見られてる」気がしてました。 他ならぬ自分の影に怯えてただけなんです。 だから、強く気持ちをもってとしか言いようがありません。 霊的なものは質問者さんが隙を見せたり、 少しでもマイナスなエナジーをかぎ分けて付け入ってくるものですから

sheggy
質問者

お礼

このお話を聞いて、ゲド戦記を思い出しました。 自分の影から逃げずに気持ちを強く持っていこうと思います。ありがとうございました

  • kaitara1
  • ベストアンサー率12% (1159/9192)
回答No.1

その視線は、ほかならぬあなたのものでしょう。我に返ったということでしょう。

sheggy
質問者

お礼

なるほどですね‼︎ ありがとうございます

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