• ベストアンサー

頼朝、義経、泰衡

もこ猫ミクにゃん(@miku-chi)の回答

  • ベストアンサー
回答No.6

#4です。 当時の人々のことは資料がほとんど無いが為と後世に強烈な創作物(平家物語 義経記)が出たために人物像がかなり歪められていますよね。 吾妻鏡でさえ後世に編纂されたもので、間違いもあれば、創作もあります。 腰越状なども創作説がありますね。 もちろん事実もありますが。 日記を付ける事が当時の貴族の習慣だったそうですが、泰衡や義経のはもちろん、基成や義経の元にいた異父弟の一条能成などの日記が現存していれば・・・タイムマシンがあれば・・・と思います。 前回の回答は自分でもまとめられなかった感があります。 お礼コメントにあった疑問に回答失礼します(後ろの疑問から失礼します)。 >頼朝が、義経殺害に真剣になるゆとりがあったのか??? もちろん頼朝は義経殺害については全く本気では無かったと思います。 目的は奥州藤原氏の滅亡ですから。 義経はただの難癖の材料です。 万が一義経が泰衡と結託したとしても頼朝は本当の義経の実力を知っているから(本当の義経の目的を知っているから)、脅迫できたのです。 私自身一押しの説が義経奥州不在説なので、頼朝は居ないと分かっていながら居るのだろうと圧力をかけ、故秀衡派と泰衡派の関係を悪くし、瓦解させようとしたのでしょう。 義経が平泉に何となくいるとした秀衡は病か何かでもうろくしていたかも知れません。 (もしかしたら誰かを義経だと思い込んでいたとか。事実かどうか不明ですが、義経の異父弟一条能成が当時平泉にいたという話があります。) そして泰衡らはその策に反対するも強く出ることが出来なかったのではないかと。 そして秀衡死去後も当初は義経が何となく居るふりを続けてしまったかと。 後に改めて「所在が判明したら、急ぎ召し勧める」と書状を出すも頼朝には無視されてしまいます。 義経が平泉にいたとしても泰衡自身はやはり迷惑だと感じられたでしょう。 平泉側から見れば義経は負け犬でしたから。 泰衡が愚かと言うよりも基成の傀儡だったと思われます。 そのために鎌倉に対抗する強い意思も平泉を鎌倉に引き渡す意思も見えなくなっております。 ですが、嫡子返上せずに秀衡の跡を継いだこと、奥州合戦の際は泰衡は総指揮の位置にいたということは、泰衡も鎌倉に降伏せず平泉を鎌倉に売らない意志の表れだと思います。 かと言って強くは対抗する意思も無いという矛盾が生じる訳でして・・・多分状況変化によって考え方も変わったのでしょう。 独立国として細々とやっていきたかったのでしょうね。 泰衡が貧乏籤を引いたと言えばその通りでしょう。 ・・・今回もまとまりのない回答ですみませんでした。

noname#247736
質問者

お礼

ありがとうございました。

関連するQ&A

  • 源 義経と頼朝の間には!?

    源 義経は平氏をやぶったのに源 頼朝はなぜ鎌倉に入れなかったのだろうか!?

  • 義経は衣川で難を逃れたあと…

    源義経は衣川の館を襲撃されますが間一髪難を逃れて北海道に渡りましたよね? もちろんモンゴルに渡ってチンギス・ハンになったってのは創作だと思いますが 義経はなぜ北海道に逃れたあと頼朝を討とうとしなかったのでしょうか? また 北海道で何をしようとしていたのでしょうか?

  • 源頼朝はどうして藤原泰衡を討ったのか?

    藤原泰衡は頼朝の命令に従い、義経を討って首を差し出しました。 明確に恭順の意を示しているにも関わらず、どうして頼朝は泰衡を征伐したのでしょうか? 奥州藤原氏の勢力に圧力を感じていたのでしょうか? 奥州藤原氏と朝廷の結びつきが強いからでしょうか? 頼朝の野心が強かったからでしょうか? よろしくお願いします。

  • 源義経、頼朝などの苗字って?

    源義経、源頼朝、平清盛、大江広元などには、北条時政たちのように苗字はなかったのでしょうか?        苗字  氏   諱 北条時政  北条  平   時政 安達泰盛  安達  藤原  泰盛 源 義経  ?    源   義経 平 清盛  ?    平   清盛

  • 奥州藤原氏と東北地方について

    奥州藤原氏のことでお聞きします。 藤原秀衡は源義経を受け入れ、大軍を擁して源頼朝に対抗しようとしましたが、藤原秀衡の死後どうしてあっけなく滅ぼされてしまったのでしょうか。 源義経が自害においこまれ、藤原秀衡が病死したという個人の死が原因だというにはあっけなさすぎるように思えるのですが・・・。 奥州藤原氏の東北地方の支配体制が制度疲労を起こしつつあったにもかかわらず、藤原秀衡という一人のカリスマによって維持されていたのでは?と推測しているのですが、奥州藤原氏の東北支配体制とはどのよなものだったものなのでしょうか。 また奥州藤原氏滅亡後、鎌倉幕府に対して東北地方で反乱等は起こったのでしょうか。奥州藤原氏滅亡後の東北地方と鎌倉幕府との関係についても教えてください。

  •  源義経が壇ノ浦の戦いの捕虜を連れて鎌倉を目指した際、頼朝は、義経が頼

     源義経が壇ノ浦の戦いの捕虜を連れて鎌倉を目指した際、頼朝は、義経が頼朝に無断で、後白河法皇から検非違使に任命されたことに怒り、鎌倉入りを拒みました。 これに対し、後白河法皇は、義経に、頼朝討伐の院宣を出しましたが、 これに怒った頼朝が大軍を京に向けたところ、今度は後白河法皇、頼朝に、義経討伐の院宣を出したと認識しています。  短期間のうちに、お互いを討伐するような院宣を出すことはありえるのでしょうか? ご存じの方、よろしくお願いします。

  • 頼朝は鎌倉のどこに?

    源頼朝は幕府を開いて、鎌倉のどこに住んでいたのですか。跡は今でも残っていますか。 鎌倉時代は城ではなかったのですか。 よろしくお願いします。

  • 西行と源義経の接点

    西行さんは1118年に生まれ、出家をしてから、1146年に初の奥州行き。縁者を訪ねての旅とのこと。1186年に再び、焼け落ちた東大寺大仏殿の再建を勧請するため、奥州藤原氏を訪れているらしいです。 一方、源義経は、1159年生。1187年に頼朝に追討をうけ、奥州に落ち延び、1189年に泰衡に責められて自刃したようです。 二人の人生は、保元の乱、平治の乱の後の混乱期に、場所も、京都・鎌倉・奥州、と重なっているようです。西行さんと頼朝のエピソードはいくつか残っていますが、義経との接点を何かご存知の方がおられましょうか。 頭の隅に、いつも疑問に思っていたことを思い切って質問します。 よろしくお願いします。

  • チンギスハーンが源義経だとする仮説について

    チンギスハーンが源義経だとする仮説(俗説程度に過ぎませんが)は 義経が頼朝から逃亡するときに北海道へ逃げて アイヌ民族の助けを借りて(頼朝は征夷大将軍でアイヌ民族を攻めていたので)モンゴルへ逃げて モンゴルで将軍になって死後に子孫のフビライハーンが仇討ちで頼朝が作った鎌倉幕府を滅ぼそうとして元寇を仕掛けたってことですか?

  • 義経について

    源義経は史実では奥州藤原泰衡によって滅ぼされたと ありますが、死亡したとされたあとも東北地方にはたくさんの伝説があり、チンギスハン伝説なども残って いると聞きます。チンギスハンが詠んだ詩が、静御前を思って詠んだ詩ではないか?とかチンギスハンの誕生の時期は義経と近いというところからそういう伝説が生まれたようなのですが、詳しいことは知らないので義経の史実死後の東北の伝説やチンギスハン伝説を知っている方がいましたら教えていただけないでしょうか?