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日本史においての「政権」の呼称。
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>日本史の武家の時代では「政権」と本当に呼ばれていたのでしょうか? 使われていませんでした。 歴史を説明する際に現代の人達に理解され易いように使われているだけです。 江戸時代の幕府も藩も当時言葉はありましたが実際には使われていませんでした。 幕府は公儀、柳営,営中などと呼ばれ藩は大名家として〇〇家と呼ばれていました。 >やはり「天下」でしょうか? 天下人、光秀の三日天下などという使われ方はされていましたが公的に使われることななかったようです。 幕末に大政奉還という儀式がありましたが天下変換とは言われませんでした。 一方倒幕側も王政復古としていて天下復古とは言いませんでした。 日本は古来「治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)」は天皇でその天皇から統治する権限を譲り受けるという形式が取られていました。 後醍醐天皇が自ら統治しようとしたのが建武の新政と呼ばれるものです。 従っていかに平家にあらずば人にあらずと豪語しても平氏天下、三好天下などという表現は使われませんでした。 明治政府も憲法で天皇の大権としていて天皇から指名された人物が組閣して政治に携わるという形でした。
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- D-Gabacho
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おっしゃる通り当時は「政権」と呼ばれていません。また「平氏天下」などということばもありません。そもそも当時、政権を端的に表すことばはありませんでした。教科書などが「平氏政権」「豊臣政権」などのことばを使っているのは、それを表す当時のことばがないからです。当時のことばがない、あるいは、あったとしてもわかりにくい場合、現代人が理解しやすい用語をつくって使うのは、現代人に説明するのが目的の教科書や論文なら、けっして間違いとはいえません。時代劇で使うのは、ちょとどうかと思いますけど。
お礼
返事が遅れてすみません。 参考になりました。
- 4017B
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基本的に明治維新以前の日本での政治権力の中枢機関を指し示す言葉は「朝廷(朝庭)」ですね。いわゆる武家政権で現代用語では幕府と呼ばれているモノも、当時は朝廷と言う言い方が普通でした。江戸幕府ですら当時の記録などには朝廷と記されている場合も多く、江戸時代も後期になってようやく天皇家側を朝廷、徳川家側を幕府と言う言い方が定着しました。 尚、朝廷という言葉自体は中国由来の言葉で、紀元前50年くらいに前漢時代の『戦国策』という歴史書で初めて使われ、日本で初めて記述として現れるのは古事記の中です(712年)。また「政権」という言葉は元々は和語に無い概念であり、明治維新と共に文明開化開国の波に乗って西欧から入って来た新しい概念である "regime" を漢語風に訳した言葉ですね。現在、我々が普通に使っている言葉の多くは明治時代に新規に作られた造語である場合が多く、特に政治関連の用語はほぼ100%と言っても良いです。
お礼
返事が遅れてすみません。 参考になりました。
- maiko04
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あくまで天皇の下の「征夷大将軍」だったのでは?
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