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ルツ記について

旧約聖書のルツ記についての質問です。解説によると、神の意図の壮大さを預言する箇所であるとのことです。異邦人でありながらイスラエルのおきてを守り神に尽くしたことによりダビデの家系に名を連ねた人生が語られています。一人の誠実な女性の物語として好きな箇所ではあるのです。わたしは、誘惑に打ち勝って神を信頼するヒントを見出すべく読みたいのですが、苦難を乗り越えて成功するという話でもなく(聖書だから当然ですが)、ほかの預言書のように神様の言葉が出てきません。私たち日本人も含めて、現代のイスラエル人以外の人間はこのルツ記から何か大切なメッセージを受け取れるでしょうか。

noname#231379
noname#231379

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回答No.5

>誘惑に打ち勝って神を信頼するヒントを見出すべく読みたいのですが >…ほかの預言書のように神様の言葉が出てきません。 >ルツ記から何か大切なメッセージを受け取れるでしょうか。 ということですので、お答えいたします。 結論を言いますと、(1)神に対するルツの心、(2)女性としてのルツのふるまい、(3)神の公平さ、(4)メシアを実現させる神の高いお考え、などを知ることができます。  まず、ルツは、しゅうとナオミから故国モアブに戻るよう説得された際、「あなたの民はわたしの民/あなたの神はわたしの神」と言います。(ルツ記1:16 新共同訳1987) ルツは、その神について、イスラエル人である夫との結婚により知るようになりました。そして、この神こそ、天と地の創造者である、信頼できる真実の神であると強く信じるようになったのです。それで、上記の言葉は、この神から離れまいとする心の反映であることは明らかです。いわば「わたしは、あなたの民(イスラエル)の一人になります。わたしは、あなたが神としている方と同じ方を神として生きるよう決意しています」と言っているのです。このような発言や態度を形作るもととなっているのは、ルツの持つ「価値の尺度」です。ルツは、この神の特質やみ業に対する信頼、畏れと敬意、愛着をあらわし、もはやほかの神々を崇拝することはしないと決意しているのです。  二番目は、「あなたは、若者なら、富のあるなしにかかわらず追いかけるというようなことをしなかった。…この町のおもだった人は皆、あなたが立派な婦人であることをよく知っている。」というボアズの言葉に表されています。(同3:10)申すまでもなく、これにより、ルツの徳性、私利私欲のない貞潔な振る舞い、勤勉さなどが明らかにされています。  三、四番目は、ルツ記の記録により、神は、独自の利益を捨て、神をほんとうに信頼し求める者に対して、公平かつ親切にあしらわれること、また、メシアを生み出す家系となる人たちの信仰と行いについて、神が常に注意深くあるのだということがわかる、ということです。 確かに、ルツ記には、神が言われた言葉は出てきません。しかし、創造者であり全能者である神を信頼する人は、蛇の頭を砕くメシアを必ず生み出すという神のお考えをルツ記から理解できるにちがいありません。(創世記3:15) そして、メシアの家系の一員となるダビデの出自と、真に神を求め信頼する「立派な婦人」のおこないを聖書の一部として記録させ、3,000年の長きに渡り、万難を排して保全させ流布させてきたということ、この事実が、ルツ記の価値をうらづけています。

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回答No.4

 §1 はじめまして  こんにちは。わたしは ルツ( Ruth )ともうします。  日本人論として知られた『菊と刀―日本文化の型 定訳 (1972年)』を書いたルース・ベネディクト女史ですとか あの野球人ベーブ・ルース(ジョージ・H・ルース)など かなりわたしの名を 後世において 使ってもらっていますが 日本のみなさんには あまり馴染みがないかも知れません。でも フォークソングの本田ルツ子さんがいましたね。  わたしは 旧約聖書に 『ルツ記』としてちいさな短い一書をあてて 生涯のことを記してもらっています。その中で やもめのわたくしは 落穂拾いをして暮していたのですが そのすがたを じつは あのF.ミレーが 描いてくれました。その絵のことは よくご存知ではないかと思います。  聖書といっても わたしは じつは 必ずしもユダヤ人ではないのです。遠く血がつながっていますが 死海の東の地に住んでいたモアブ人です。ユダヤ人と結婚して そしてその夫は 早くに亡くなったのですが かれの母に わたしは 一生ついていって ユダヤの歴史に名を残すこととなりました。  祖先のアブラハムから十代目にあたる者はボアズといいますが その:    ボアズは ルツによって オベドを オベドはエッサイを    エッサイはダヴィデ王を もうけた。 と『マタイによる福音書 』は記しています。(冒頭の一章です。)そしてダヴィデ王のさらに子孫に イエスを生んだマリアの夫ヨセフがいるのです。わたしは そんな遠い昔に生きた一人の女です。  そんなわたしが その後少しづつ 人びとや世の中のことについてまなんだことなどを ここでお話しさせていただきたいと思います。いま生きていれば もう三千歳近くになっています。  §2 なんでもないこと  なんでもないこと これは やはり信仰ということかと思います。わたしは ただ生きたというだけで歴史上の人物になっています。ですから このことはやはり信仰ということばで翻訳されるのだと思うのです。その点について もう少し自己紹介のようなことをお話ししたいと思います。  というよりも 先ほどの『マタイによる福音書 』の冒頭の記事の中で イエスの系譜が書かれていましたが そこには わたしのほかに もう二人だけ 女性が記されています。そのかのじょらのことについて 短くご紹介したいと思いました。  一人は ラハブといって わたしの後の夫となったボアズのお母さんです。じつは 何を隠そう ラハブも 異邦人で しかも エリコの街の城壁の上に家を構えていた遊女だったのです。  イスラエルの人たちがエリコの街を攻略したときのこと。かのじょは 先に忍び込んできた斥候(スパイ)を二人かくまいました。そのことが縁で サルマンというユダヤ人とのちに結ばれたのでした。これも 信仰ということです。つまり 生活のなかで・人生のなかで なんでもないことの問題なのです。  つまり 必ずしも説明のつかない出来事のことです。あるいは ひととおり合理的に説明がつくけれども さらにこの説明の範囲や理解を超えて 話しは広がっているように思われることがらの問題だと思います。  ちなみにラハブは エリコの人びとから見れば 裏切り者です。売国奴です。イエス・キリストは その子孫ということになります。  さらに五代ほどさかのぼると いま一人の女性 タマルがいます。     ユダはタマルによってペレツとゼラを・・・もうけた。  とあります。そしてこのペレツとゼラの双子の誕生について 少し込み入った話が伝えられています。  §3 なんでもない生活の歴史とそれをこえるもの  アブラハムの子がイサク その子がヤコブで このイスラエルとも呼ばれるヤコブには 十二人の子がいました。四男がユダです。このユダも 地元カナンの異邦人を嫁に迎え 三人の息子を得ました。  タマルは 長男エルの嫁としてユダに迎えられました。結果から申せば 先ほどのペレツとゼラの双子は タマルとその舅(しゅうと)ユダとの間に生まれた子どもです。  この場合は 決してどろどろした関係があるのではなく 必ずしも悪いおこないがあったということでもないと わたしは思います。  夫のエルが結婚後すぐに亡くなると その当時のおきてでは 長男の家系として子孫を残すために タマルは 夫の兄弟によって子をもうける義務を負いました。けれどもそこに生まれる子は 自分の子孫とならないと知っていた次男のオナンは 「兄嫁のところに入る度に子種を地面に流した」そうです。のちに 自慰行為をあらわすオナニーという言葉は かれの名から来たといいます。このオナンも死にました。  三男のシェラは まだ幼く 成人するまで時を待つことになります。舅のユダは けれども このシェラまで失うのではないかと恐れ 成人しても かれをタマルのもとへ行かせなかったのでした。その結果 ちょっとした策を用いたのですが タマルは 舅ユダによって 双子の子孫を得ることになったのでした。  §4 歴史とそれをこえるもの(つづき)  ちなみに 弟が兄の妻と結婚し 生まれた子を兄の子にして、父の家を相続させるこの風習は レヴィラート婚と呼ばれるもの(申命記25:5-6)で イスラエルに限らず 広く世界で知られています。  話は飛びますが 新約聖書にこのレヴィラート婚にちなんで 人びとがイエスと問答する場面が記されています。     七人の兄弟が 年上から次つぎに死んでいき 次つぎに年下が初めの    兄嫁と結婚していったという場合 「復活の時 その女は七人のうちの    だれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです」という問い    です。復活はないと言う人びとからの質問でした。  イエスの答えは わたしには まだよくわかりません。    《神は死んだ者の神ではなく 生きている者の神なのだ。あなたたちは    大変な思い違いをしている。》      (『マルコによる福音書 』12:27)     というのが 大事ではないかと思いますが もっと多くのことが記されています。皆さんも その段落全体を読んで考えてみてください。『マタイ』では第22章:第23-33節 『ルカによる福音書』では20:27-40です。つまりたとえば次のようにも書かれています。     《復活の時には めとることも嫁ぐこともなく 天使のようになる     のだ。》            (『マタイによる福音書 』22:30)  §5 あらためて自己紹介を  後夫をつうじてわたしの義母となったラハブ そして遠い祖先タマル 二人の女性を紹介しました。  げんみつには夫の兄弟( levir )ではなかったのですが わたしの場合も このレヴィラート婚( levirate marriage )がからんでいます。後夫となったボアズは 亡夫の父つまり義父の親戚でしたから。  わたしの義母はナオミと言い わたしたちの地モアブにやって来て けっきょく 夫と二人の息子を次つぎと失くしました。ですから そのとき 自分はイスラエルに帰るからと わたしを含めた嫁二人には それぞれの実家へ帰りなさいと説いて聞かせたのです。ですが わたしの方は 聞きいれず とうとうユダヤまでかのじょに付いて来てしまいました。なぜかは わかりません。そうしたかったのです。  義母は あまりにもの不幸に遭って帰ってきたので 故郷のベツレヘムの人たちが ナオミさんではありませんかと声かけても こういって歎きました。「どうか ナオミ(快い)などと呼ばないで マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです」と。  その後 大麦の刈り入れのときには 落穂拾いをして暮したことを述べましたが 親戚筋のボアズの妻となって 男の子オベドをわたしが生んだときからは ナオミも喜んでくれました。  わたしの人生は これだけのものですというのが あらためての自己紹介になります。

noname#231379
質問者

お礼

ありがとうございます。紐帯を守るための親族一人一人の言動や、ラハズ、タマルとの繋がりなど、とても興味深く読ませていただきました。

回答No.3

20170503さん おはようございます。 ひとつの解釈としては、古代イスラエルでは、自分の先祖を知ることは大切であったので、単純にダビデ王の祖父のボアズの話とも受け取れます。 しかし、下記の絵を観てください。聖書の文字でなく、視覚化すると見えて来るものがあるかもしれません。 http://art.pro.tok2.com/M/Millet/vv006.htm 「種まく人」や「落穂拾い」で有名なジャン=フランソワ・ミレーの「刈り入れ人たちの休息」という作品です。 この「刈り入れ人たちの休息」という作品は、ミレーは当初は「ルツとボアズ」と作品名にしようと思ったそうですが、変えたそうです。理由は私にはわかりません。 私は、2010年に六本木の森アーツギャラリーのボストン美術館展で観ました。 聖書に戻ると「嗣業(しぎょう)」という言葉が重要と思われます。 難しい言葉ですが、「嗣業」とは、賜物・所有・相続財産のことを言います。 ボアズは、神に忠実に嗣業の土地を守り続けた結果、子孫のダビデ王、更にはイエスに血が繋がります。 絵から、男性社会であった当時のイスラエルで生きていくすべがなかった、貧しい、やもめのルツに落穂拾いをさせている優しさがにじみ出ているように私は感じます。 また、その人柄からか、豊作で、山のような麦わらが後景に描かれています。 では、農業に携わる仕事をしないでも、生きていける、現在の社会の中で、我々の「嗣業の土地」とはどこか? 私は「こころの中」だと考えます。 こころを耕す。 新約聖書の福音書に「種を蒔く人のたとえ」がイエスによって説かれていますが、石や茨の間に落ちた種は育たないが、良い土地に落ちたものは30倍、60倍、100倍の実を結びとあります。 「こころ」の中の良い土地(嗣業の土地・賜物)を見分ける力を祈る。 キリスト教では賜物は人それぞれという考えです。 ボアズという名前は「彼のうちには力がある」「頭脳明晰」とも訳すことが出来るそうです。 見分けることのできる力(ボアズ)が欲しいものです。 無論、私は神父でも牧師でもないので、一意見としてとらえてください。

noname#231379
質問者

お礼

素敵な絵「刈り入れ人たちの休息」のご紹介ありがとうございます。オルセー美術館展ですか。フランスまで行ってまででも見てみたい作品です。

回答No.2

 読んでみましたが、単純に、夫と2人の子供に先立たれた妻ナオミが、子供の妻ルツと、親戚ボアズに助けられるという話だと解釈しました。  個人的に関心があるのは、身近な縁の中に神の采配があるのではということですね。面倒くさいといって、近場の人や過去の人たちと疎遠になると、もう本当に何にも関係が無くなってしまうことも、経験上あったりします。

回答No.1

きゅうやくのほうが、浮気を繰り返す妻に耐える夫の話ですよね。 神と人間の関係。 で、正式に結婚した夫がいるから、 作者たちの考えてることが 俗っぽいですよね。 というか、なんかこうよほど結婚に問題があったのか。 あまりこういう風に聖書を考えたことはなかったのですが。

noname#231379
質問者

お礼

旧約は特に今の日本人には難解です。ありがとうございます。

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