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哲学 デカルト 明証について 詳しい方

デカルトの第2部の明証は、簡単に言うと横断歩道は赤なら渡っちゃいけないと思い込んでいるが、本当に正しいとは限らない、みたいな考え方であっていますか?また、違うのなら、何か例をあげて解説お願いいたします。

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  • koosaka
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回答No.1

デカルトは、神が人間に「生得観念」としての理性を与えたのだから、人間の理性的認識は、明晰かつ判明であって間違うことはないと言いました。 もしかしたら悪魔がいて、その悪魔が私をしてそのように思わせているかもしれないが、神は誠実なので、人間をダマすことはあり得ない、と。 もし、間違うことがあれば、それは感性によるものである、と。 デカルトは、その例として、数学をあげています。 1+1が2であることは、誰にとっても正しい。 デカルトは人間の知識を数学的な知識と、経験的な知識に分け、その経験的な知識を、数学をモデルとして必然的なものとして考えることができるならば、人間の知識は「普遍数学」によって、すべて解明できる、と言いました。 ユークリッド幾何学の原論のように、公理・公準から必然的に推論して定理へと導いたように、哲学も「われ思う・コギト」を出発点にして、体系として作ることができるのではないか、と。 あなたは、「簡単にいうと横断歩道は赤なら渡っちゃいけないと思い込んでいるが、本当に正しいとは限らない、みたいな考えかたであっていますか?」と言いますが、神さまは絶対に「横断歩道は赤なら渡っちゃいけない」というと思います(笑)! デカルトも、それに賛成すると思います。

その他の回答 (1)

回答No.2

そうさね、赤信号を渡った歩行者が車にひかれても、そのリスクを納得してわたってもいい場合があるという話かね? 自分が死なないなら何をしてもいいという哲学だとすると、誰かを殺しても合法の可能性があるね。なぜなら赤信号を渡った歩行者が死んでも自己責任だからだ。 いいんじゃない。 実験に参加しても、犯罪者じゃなくて英雄だ。

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