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デカルト

デカルトの「方法序説」第4部に明晰判明性は神に由来すると あるのですが、この意味がよくわかりません。 これは一般的にどう解釈されているのでしょうか? また、この考え方の問題点はなんでしょうか できれば参考になるHPや文献もお願いします

みんなの回答

  • kigurumi
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回答No.2

簡単に言うと、自分が明白だと認識するのは、神様の存在のせいだ ってことじゃないかと。 懐疑主義が全盛の頃をデカルトは生きたんですね。 全てのものを疑う、自分の存在すら怪しい という閉塞感の時代。 デカルトもあらゆるものを疑ったが、少なくとも疑う行為をする私だけは確実に存在する とした。 疑う主体がいなければ、疑いすら起こらないから。 これが「我思う ゆえに我あり」なわけですよね。 で、デカルトは神を全くの善としたんです。 プラトンのイデアの影響ですね。 全くの善が神なら、その神は私に幻を真実だと思わせることはしない とした。 神はどこまでも誠実な者で、その誠実な者は私に真実のみを認識させるので、私の認識する事柄は正しい なわけです。 この考えが正しいとするのは、完全な善の神の存在を証明しなければなりません。 デカルトは神の存在を証明できませんでした。 そして、人間が持つ観念が必ず存在するというわけではないという問題をクリアーできていません。 例えばピカチューとかイエスって、実在しませんが、人間の観念では存在させることが可能ですよね。 デカルトが全くの神の観念を脳の中で持ったところで、ピカチューやイエスや宇宙人やツチノコやネッシーや妖精や超能力者や霊能者や、、、まあ そういうものが実在しないのと一緒で、必ずしも実在するわけじゃあない。 思ったものを実体化させることができたら、そりゃあ魔法使いです。 そういうものが存在するのはおとぎ話の本の中。 イエスはサタンとの問答で、サタンに飛べと言われたとき「私は神を試さない」と言ったが、信じていれば飛べたはずです。 作者の逃げ論法ですね。 神に全てを託して信頼しているものを、神は絶対に救ってくれるという確信 信仰があれば飛べたはずです。 神の存在を疑ったから飛ばない。 ピカチューが実在するというより、自分がピカチューになったと思い込んだ子供が窓から飛びました。 完全なる確信。自分の認識を少しも疑うことなく飛びました。 死亡しました。 というわけで、経験に基づかないと、、、 デカルトの理論は経験を伴わない、つまり実在を無視した机上の論なんです。

  • suz83238
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回答No.1

神の完全性から神の存在を証明しようとしたものです。 参考までに下記をご覧あれ。 http://members.at.infoseek.co.jp/StudiaPatristica/philosophia12.htm

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