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価値観が入れ乱れ情報が錯綜する世界では信じる指針が

価値観が入れ乱れ情報が錯綜する世界では信じる指針があるのは強さになるのだろうか? 皆さんにとって、信じる指針とは? (利点欠点限界盲点とは?)

みんなの回答

  • hekiyu2
  • ベストアンサー率35% (271/774)
回答No.3

価値観が入れ乱れ情報が錯綜する世界では信じる指針があるのは 強さになるのだろうか?   ↑ 強さになる場合もあるし、弱さになる場合も あると思います。 指針があれば、迷いませんから自信があるように 思われ、指導力が発揮できます。 迷わない、というだけで強さになります。 反面、指針に固執して、環境適合性に欠け、 衰退滅亡する、ということもあります。 近代国家が出現し、国民国家化が進んだのに 指針に固執して後れを取ったのが中国、韓国でした。 指針に固執しないで、西洋的価値観に染まった日本は 中韓を凌駕しました。 尊皇攘夷をやっていたと思ったら、あっさりと 文明開化になり、鬼畜米英から欧米化一辺倒の日本は ここまで豊かになりました。 皆さんにとって、信じる指針とは?    ↑ 指針などに固執しない、という指針を 信じます。 生き残るのは、最優秀でも、最強でもない。 環境に適合出来たモノが生き残るのです。

  • koosaka
  • ベストアンサー率43% (78/179)
回答No.2

「価値観が入り乱れ情報が錯綜する世界」って、何だか広告宣伝のキャッチコピーみたい! 価値観って何ですか? そんなものあるんでしょうか? それに情報って何ですか? 私は毎日、新聞・雑誌や、テレビやパソコンをやっていますが、情報という言葉が分かりません。 芸能人の不倫スキャンダルが、情報なんでしょうか? それに「入り乱れる」というけど、どこが入り乱れているのでしょうか? むしろ、あなたの頭の中が、「入り乱れている」のではないでしょうか? 私には世の中は「整然」としていると思っています。 それに「信じる指針」と言っていますが、私はキリスト教徒でもないし、イスラム教徒でもないし、ヒンズー教徒でもないし、ユダヤ教徒でもないし、仏教徒でもないし、モルモン教徒でもないし、クェーカー教徒でもないし、原理主義でもないし、いかなる信仰を持っていないから、信じるものは何もありません。 自分の存在でさえも信じていません。 だから「信じる指針」と聞かれても、困惑するばかりです! 「信じる指針」なんてないので、信じる指針があっても、強さにはならないと思います。 「信じる指針」の欠点としたら、そんなものはないので、あったとしたら、気が狂ってしまうことが欠点というか利点です。 限界・盲点としたら、「信じる指針」というものがないことに気が付かない、という限界で、同時に盲点です。 それでよろしいでしょうか(笑)!

回答No.1

【人間三原則】 1.分業化=助け合いにより、人類は一個の生命体(社会生命)である。(生命)  我々の身の回りの衣食住の多くが世界中からやって来ており、もはや我々は一体の社会生命である。 かつては集落単位で戦っていたものが、地方、国家へと生存単位が拡大し、今やグローバル化しつつあるのだ。 そこにおいて、戦争はもはや誰の利益ももたらさない、国境に利権を持つ政治家や軍需産業、石油メジャーを除き。  産業、経済、情報のボーダレス化に導かれて、人的交流も活発化する時、物流に続いて人の意識もグローバル化し、助け合いとしての社会=生きる喜びに満ちた世界は実現する。 2.量子的時空相補性により、心(時間)と宇宙(空間)は相補分化する。(認識)  存在は確率波動性(量子的不確定性)を有し、不確定性原理において「ある値を確定しようとすると他方は無限不確定に発散する」という場合の2対の相補的不確定性、位置(S)と運動量(St)、時点(T)と質量(Ts)は、それぞれ時間性(記憶(自我仮説)=過去=超光速)と空間性(予測(環境仮説)=未来=光速下)の、原点(感受表面 (量子相互作用)=現在=光速)からの対発生に由来している。  その「対発生」は、具体的な発生ではなく、階層現象(超弦(量子定常波)<クォーク<素粒子<原子<分子<細胞<個体(脳))の表面的定性化による仮想的非光速性に基づき、相対性理論の4次元ミンコフスキー空間における時・空軸の虚数関係によって等距離点に生じる0の面(界面原点)=ライトコーン(光量子の軌跡)として、全ての存在性を無へと還元するものだ。(図)  即ち、宇宙とは心の内にのみ存し、環境は自我仮説の成立のための必要として派生しているのだ。 3.存在=意識ゆえに、生きる目的は物質的繁栄ではなく精神的充足。(幸福)  物質に目的はない。しかしその目的のなさはエントロピー増大=淘汰として進化を導き、結果的に生物として生きる方向性を与え、その事は意識に、意志の達成としての精神的充足の追求を目的化させる。 それは単純な快楽主義=「意志の強さ×達成度」の追求だけでなく、そうした結果を把握する「×意識を明瞭にする認識の深まり×結果の感受性」や、その目的を「×人生を通算した充足量の最大化する認識の深まり」の関数として得られる。  その「認識の深まり」は、一方で分業化=社会生命としての助け合いを可能にした。しかし、自己の生の社会的拡張を不断に把握できる認識の深まりを怠り、その自己チューな意識をして他律的に社会行動をとらせるため、お金や出世といったアメや、法規やモラルといったムチを発達させた。 その結果、生きる事は、自律的な生=助け合う喜びから、お金をもらうためにイヤイヤ働かされる=苦痛から逃げた結果に変質したのだ。  認識の深まりによる社会生命的自覚化(愛)=自律的社会行動(助け合い)=生きること自体による喜び(最大充足)こそが、人の真に生きる目的なのだ。

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