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ヘーゲルの《神は死んだ》

kikioooの回答

  • kikiooo
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回答No.3

他人に聞いても あなたは同じ質問を繰り返す・・ そりゃあ そうだよ・・ だって 正解 不正解を あなたが独断で決めるだけの遊び・・ あなたが知ってる事が正解になるだけ・・ ならば どんなに正解が書かれてたって あなたが不正解と見なせば それは あなたから見た場合 不正解の回答にしか ならない・・ つまりは 此処で どんなに聞いても あなたの疑問は晴れる筈は無い・・ 何故 そんな単純な事に 気づかずに 何時までも質問するのかな?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  もし過去のやり取りを知っているのなら 哲学として問い求めていることは 明白でしょう。  結果として現われる場合というのは 次の三つほどでしょう。:  1. 無知ゆえ尋ねた場合。最終的には ほかの資料や解説で確認しつつ わたしが判断し 教わりましたとお礼を言います。  2. 必ずしも答えの出がたい質問の場合。有望な回答をいくつか選び その回答者とさらに互いに問い求めつつ 最終的には 質問者が判断します。  3. かなりの程度においてすでに質問者ながら 尋ねている趣旨について妥当であるという自信を持っている場合。(しかも 常識や定説とは異なる内容であり それらの批判をおこなう場合)。  ――このときには もらった回答について根掘り葉掘り尋ねつつ よりよき〔ひとつの・またはその時点での最良の〕答えを選びます。互いに問い求めるという姿勢に変わりはありません。  ☆ 今回のは 現時点で(2)です。  主題――《神は死んだ》――については 長く扱って来ましたがこのヘーゲルの説というのは 具体的には初めてです。それについてのわたしのコメントは ほっかほかで湯気が立っています。ですから (2)の場合の質問になります。  もっとも それについての定説や常識を知らないので どう批判になるかは この場合分かりません。  質問について考え 回答を寄せたら どうなんだ?   寄せられた回答群からよきものをえらぶのは 質問者だということは 誰が質問者であろうと 同じである。  ききおおおくん 頓珍漢なことを言ってるんぢゃない。

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