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割り粥とは?

映画「関ヶ原」で、石田三成が大谷 吉継からふるまわれた 割り粥という料理。生米を砕いて作るお粥だそうですが、 一つ疑問が。この生米は白米でしょうか、玄米でしょうか?

  • akmyu
  • お礼率18% (81/443)
  • 歴史
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みんなの回答

回答No.3

おそらく玄米でしょう。 ただし、割り米にするには臼でつきますので、結果的には白米に近い状態になってはいたと思われます。 白米が普及するのは江戸時代に入ってからです。 大名の石高を表す石も実際に収める年貢も従来の習慣から玄米で計量されていました。 白米に換算すると目減りしていました。 白米は貯蔵性が悪いので貯蔵は玄米で行っていました。 白米を貯蔵すると食味が落ちます。 江戸時代には市中に舂米屋(つきごめや)という精米店がありました。 必要な量だけ精米させたり購入していました。 現在も農家などでは玄米で貯蔵して1ケ月分程度を都度精米しています。 地方都市へ行くと精米をする自動販売機があります。

回答No.2

白米だと思います 当時玄米を食べてたのは庶民 武士はほぼ白米です 関ヶ原の戦いの時も諸大名は白米持参です 家康は「この天気では飯は炊けぬが生米は食うな、水に浸して犬の刻に食え」と下知してる事から 当時は武士階級でも白米が主流だったと思います

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (812/3031)
回答No.1

そういったものは各家でレシピがあるでしょうから定型的なものは無いと思いますが、割粥の場合わざわざ消化がよくすぐエネルギーが摂取できるように米を臼で割るという手間をかけてるのですから、そこに消化の悪い玄米を持ち込むことはありえないのではと思います。信長なら必ず味噌を混ぜたことでしょうし、家康なら麦を混ぜたでしょうね、そもそも割粥なら白米でしょうが、秀吉は貧農あがりなのでなおのこと白米を好んだことでしょう。 割粥は秀吉の好物として知られているので、なつかしい食事で旧交を温める演出として出てきたのでしょう。

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