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人は死んだらば「死体」に成り、次に「灰」になるので
人は死んだらば「死体」に成り、次に「灰」になるのでは? 美術カテゴリー皆さんの ご回答のほど、 お待ちしております。 関連知恵袋 哲学カテゴリー 2017/01/23 13:11 人は死んだらば死体に成り次に灰になるのでは? http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q11169573946 okwave 哲学カテゴリー 2017-01-23 18:25 質問No.9284919 人は死んだらば「死体」に成り、次に「灰」になるのでは? http://sp.okwave.jp/qa/q9284919.html
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これは『死』について問うものなのか、はたまた『人』について問うものなのか、真意はどちらなのでしょうか。 『人』が死体となる『死』が自然死であったとしても、灰にするには何らかの死体以外の外部的な要因(たとえば火葬するための火を焚べる『人』)が必要になります。 これには、人は死んだらば死体に成り次に灰になる、といった「環境」や「場」に、死体となった『人』以外に別の「人」が存在していなければなりません。 このことは、死体となり灰となる『人』から、そこの「場」にいるべき「人」を取り除いたとき、『人』は灰になることもなければ死体となったことも確認されないことになります。 つまり、『人』の死は、それを見る別の「人」である誰かがいなくては起きない、ということになります。 とある話で、富士の樹海で自殺した人たちの死亡推定時刻は、明け方頃に集中しているとされているそうです。 うつ状態特有の『朝が来ると気分が滅入る』という心理作用かもしれませんが、樹海の暗闇を一晩彷徨いこの世の最期の恐怖と孤独を味わった矢先、明け方の光が樹海をうっすらと照らし始める状況を想像してみます。 富士の樹海の地面は苔に覆われて絨毯のようで、そこに光が差し込み始めたら、とても美しい光景だと思うのです。 で、そこには、自分の『死』を見届けるなり確認するための別の誰か「人」は存在しません。 死体は語ることはありませんが、自殺者は、樹海の自然の中で、もう孤独ではないと思えて命を絶つのかな、と思ったことがあります。 これは有限な生命を環境との一体感によって無限へと転化させることなのではないか、と。 通常の『死』も葬送も、それを確認する「人」が必要だと思うのですが、樹海における自殺者は、その「人」を自然に置き換え、環境との一体感の中で社会的孤独から解放された気分になるのかもしれません。 このことは、たとえば鳥葬などといった風習が存在していることもひとつの例かもしれません。葬送における死体の最後の変化に人が立合わず鳥に行わせることによって、生命が天(太陽)に帰っていくという魂の循環を意図しているようですが、これは環境との一体感による永遠性の獲得とも取れるように感じます。
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- Postizos
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「九相図」(くそうず)という宗教画のジャンルがあって、これは美女(の場合が多い)が死んで腐って風化して土にかえって行く様子をリアルに描いた物なのですが、 http://hiratomi.exblog.jp/4036054/ 俗な解釈では「これは肉体を精神が宿る容れ物だから肉欲に縛られてはいけないということを教えるためのものである」とするのですが、絵師の興味はそういう浅いことではなく、そうやって腐って自然物へ変化して消えて行く姿に一種の美を見ている、醜とされる物の極みが美につながっていることに心を奪われるのではないかと思うのです。 人は自然(じねん)としてこの世に生まれ、また自然物となって消えて行く、そのような存在、自分の意思ではどうにもならない存在として生が意識された時、人は心を打たれるのではないでしょうか。 人は死んだらば死体となりますが、灰になるとは限りません。火葬しても燃えて気体になって空気の中へかえって行く部分もたくさんあります。 あなたは生まれる前の事をおぼえていますか?死んでもそこへ返って行くだけです。生まれたからには精いっぱい生きて、よき生となるように、死なないようにするべきですが、死んだあとの事を怖れることはないのです。
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- sunabo
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人間が死んだらばっていう仮定が誤りかもしれません。荒川修作という美術家は「人間 は死なないんだ。死ねないんだ」と言いました。
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ご回答のほど、 ありがとうございます。
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