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質の悪いカメラでしかも失敗した写真の方が質感がある

昔のガラケーのカメラで撮った写真をみたら、 質の悪いカメラでしかも失敗した写真の方が質感がある、陽射しの強弱が解る、 温度、湿度が解る。 リアルな分、懐かしさが伝わります。 つまり、その時の情報量が多い。 今のカメラみたいに、勝手にきれいにしてくれた分、その当時の空気はカットされてしまうのでしょうか? ※カメラに詳しい人ではなく、絵画に詳しい人からご意見いただきたくお願いします。

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  • may1995
  • ベストアンサー率56% (712/1262)
回答No.6

絵の仕事をしており、美術大学で一応写真などの実習(現像や焼き付けまで)も やったので解答をしてみます。 解像度が高い写真(現在のハイスペックのもの)だと、 ほかに想像力の入り込む余地は少ないようには思います。 大変美しいですし、感動もちゃんとありますが、例えて言うと スーパーリアリズムの絵画のようなものといいますか。 見たまま、そのままであるというか。ちょっとわかりづらくてすみません。 (スーパーリアリズムは、写真や実際のもののように手で描け、超絶技巧に 感動する、というような意味では、またぜんぜん違うのかもしれません。 でも、想像力を掻き立てるという 意味ではハイスペックの写真と似ている部分もあるように思います) 昔のカメラで撮影をした時、あるいはガラケー等での写真に 懐かしさを感じたりするというのは、たぶん少ない情報量や、 ピンぼけや失敗等の部分を、記憶が補おうとするのかもしれません。 絵とは違いますが、小説などを読んでいる時に、 写真や絵画で観る時よりも、具体的に音やにおい、雰囲気、空気感のようなものが 迫ってくる時があります。(私はそうです) 情報量が少ないと、逆に補う能力が活発化して、 結果情報量の総量...というか、そういうものが高くなるのかも。 「これが正しい」というのではなく、単に私がそう思うということです。 絵画で言うと色々と山のようにあるけれど、そうですね、 ターナーの風景画などは煙ったようなものも多くて、 写真と比べるとリアル感は少ないでしょう。 印象派の光がさして木漏れ日がちらつくような絵画でも、 写真とは全く違う、たとえば点だったり、筆を荒く使うことで 表現していて、近づくと光ともなんとも言えないもので構成されたりしています。 でも、そこでリアルな絵画やハイスペックな写真と比べ、 どうなのか?というと、そこは人それぞれでしょうが、 自分の中の経験と比較して、いろいろな記憶の扉を 開け、より感動が高まるのでは。 天気のいい日に上を見上げたら、 ちらちらと木漏れ日が輝いていたこと。 霧で煙った海がやや荒れて、空もどんよりと落ちてきそうであり、 空気も水を含んで重たくなって湿った海のにおいがする。 波が打ち寄せる音、海鳥がなく声。 というにおいやムードまで 連想をしたりする人も多いかと思います。 想像力で補えるスペースが有るものだと、 懐かしさなどが最大限引き出されるのかなあと考えたりします。 いわゆるノスタルジーということでしょうか。 音楽でもそうですね。昔のSP盤の音はクリア度合いでは 劣ってはいるでしょうが、ほかにない空気感を伝えてくれるとか、 CDよりレコードのほうが、針が動く微かな音まで、記憶とつながり、 音楽を深く楽しめるという人もいます。 ただ、そういう連想をしないタイプもたくさんいるでしょうし、 また絵画でもそうですが、写真でも好みというものがあります。 音楽もひたすら美しい高音質のほうがいいという人もいるでしょうし、 写真も出来る限り高画質で情報がたっぷりはいったものの方がいいというひとも いるでしょう。私もどちらかと言うとそうですが、 質問者様は、連想で記憶がかき立てられるタイプなのかもしれませんね。 あと、蛇足ですが私は今もう現行販売されてない初期の初期の 低画素数のデジカメを愛用したりもしています。 想像で補えるという意味と、あとレンズの相性というのもあるかも。 今一応使う人もそこそこいるカメラも使いますが、 どうしてもそれでは写り込まない空気感のようなものを感じます。 それは想像力とはまた別の、機械のつくりやレンズなのかなあとも 思ったことはあります。その、古いカメラを何台か持っているのですが、 不思議な事に全部がいいとは限らないんです。 自分との相性なのか、機械やレンズのおかげなのか。 上記に回答したことだけでは解決できない疑問を、私も持っています。

nopne
質問者

お礼

ありがとうございます。 お礼が遅くなりすみません。 なんか、解決できない疑問と言われ掬われた感があります。 カメラに詳しい人の話でも解決できない部分ですね。

その他の回答 (5)

  • Postizos
  • ベストアンサー率52% (1786/3423)
回答No.5

写りの粗いカメラや失敗した写真のほうが生々しい実感を呼び起こさせる。そういう事は実際あります。 たしかに顔がきれいに写るとかおせっかいな加工をする設定もあると思いますが、この場合は細かくきれいにうつること自体が臨場感を失わせるということなのではないでしょうか。 写真は錯視を利用してもいますが、写真や画像は「物」でもあって実際にあった光景を機械的に記録しているから、あとで別の発見をしたりもできるわけですよね。 なにもしないで投げ出されているような写真の方が実際に見た時に実物から受けた印象を生(なま)な「物」として残しているのかもしれません。 細かく平均的に良く写る事はかえって着目しているものから目をそらしているのかもしれません。 イリュージョン性が半端に高まったために「物と」して見る事を妨げているのかもしれません。 失敗の方が良いというのは、かえって人はそこから良く読み取ろうと集中するということもありますし、失敗を見て手直しして行く前の、ありえないような破綻から偶発的なおもしろさ・事実を感じ取ることもあると思います。美術の世界でも、何でも技量によって描いてしまおうとするより偶然的な要素や現象を造形要素として入れた方が想像力を増して、人間の手を離れた「物」として大きな世界を獲得できるのではないでしょうか。 しかし写真と絵画は違うので安直に結びつけて語るのはかえって世界を狭くすると思うのです。わからないことはまだまだたくさんあると思いますが、理屈ではなくてそういう印象とか実感というのは、「そういうことはある」として、まず大事にするべきのように思います。 「悪いカメラ」と評しているそのカメラが実はそう悪くないという事も考えられます。(粗いながらもそういう写りをするカメラだと)。 画像データーを扱う上ではいじり過ぎてシズル(最初の臨場感)を失なってしまわないようにすることはひとつのコツだと思います。 また物に出会った時、最初のシャッターがベストである事が多いのは写真を撮る人の多くが経験していると思います。

nopne
質問者

補足

イリュージョン性が半端に高まったために「物と」して見る事を妨げているのかもしれません。 ↑ここ凄く良い言葉ですね。 ありがとうございました。

  • foomufoomu
  • ベストアンサー率36% (1018/2761)
回答No.4

>勝手にきれいにしてくれた分、その当時の空気はカットされてしまう それは、おおいにあると思います。 画像を加工してきれいに見せる場合、情報を増やすことはできなくて、情報を削ることになります。 いらない情報だけをすっぽりと削れればよいのですが、PhotoShopを自分で操っても、なかなか、そう、うまくいきません。ましてや自動処理では、必要な情報までごっそり削られるのは仕方のないところでしょう。 >失敗した写真の方が質感がある これは意味が分かりません。どんな失敗のことですか? 多少、暗めに写したほうが、失われる情報が少なくなるのは実感しています。

nopne
質問者

補足

ありがとうございます。 なんかほんと、言いたいことが言葉に出来ず申し訳ありません。 失敗とは暗い写真ですね。 野外での暗い写真。明暗により質感が判るというか。

  • moritaroh
  • ベストアンサー率56% (658/1172)
回答No.3

心理的な距離感の問題ではないか、と思います。 微妙に「記憶」などの回答と似ているかもしれませんが、ただちょっと個人的には言葉として違うように思うので「距離感」とします。 よく「うまい写真」というのは、撮り手であるカメラマンの位置が分からない、言い換えれば「どこにカメラマンが立ってどのように撮ったのか分からない」写真が多いと思います。写真を撮っている時のカメラマンの存在を感じさせない、ということでもあります。 いまの高精細なスマホのカメラは、さまざま補正などありますが、妙な広角レンズを採用していることが多いので、実際に自分の目で見ている対象との距離とほぼ同じくらいの画角があり、情報量としては非常に多いと思います。目で見ているのと遜色無い「距離感」ですね。 ですが、かつてのガラケーのカメラの場合は画角が狭く、広範囲をきれいに写すのは難しかったように思いますが、実際に自分の目で見るよりも狭い範囲、言い換えれば「あ、ちょっと写真撮っておこう」と思った瞬間とか、写真を撮った自分の存在の気配が「距離感」の近さとして残っているのかもしれません。 言うならば「手触り感」ともいうか。 再現性というレベルでは、その瞬間の空気までも今のカメラの方がすべて色に変換して綺麗に撮ってくれると思います。ただ、それは目に見える情報です。 が、対象との距離感や撮影者自身の気配など『目に見えない情報/写真外の情報』というのは、ザラついたガラケー写真の方が残っているのかもしれません。 たとえば、ハイスペックなカメラに憧れるセミプロカメラマンの方の写真などは、私はとても上手だと思うもののほとんど面白くは思えません。 ですが、アート系のカメラマンの方や、たまに素人でもセンスの良い写真を撮る方などは、撮影者の気配が漂うような『目に見えない情報/写真外の情報』がふんだんにある興味深い写真が多いように思います。 『目に見えるリアリティ』がハイスペックなカメラの得意分野で、『目に見えないリアリティ』というのが、もちろん偶然にもよりますが、ガラケーのカメラやローテクカメラの持ち味だったのかもしれません。もっともカメラマンの腕が良ければ、ハイスペックなカメラでもそのような気配などをうまく引き出すことはできると思いますが。 ちなみに、他の回答者さまが印象派の絵画などを引き合いに出していらっしゃいますが、印象派が生まれた理由は、あの当時、初めて屋外に持ち出せるキャンバスや絵の具が開発されたからです。それまでは室内のアトリエで絵の具の調合などをするところから画家たちが多くの弟子と行っていたのですが、印象派の時代からは、画家個人が道具を持って描きたい対象の目の前で描くことができるようになったので、『目に見えるリアリティ』から『その瞬間の感覚的なリアリティ』へと移行しました。 現代でのリアリズム絵画などは多くが写真を資料に用いて描いていますが、その超絶技巧を見る楽しみはあるものの、『目に見えない、その瞬間の感覚的なリアリティ』というものはやはり印象派の巨匠たちには劣るのかもしれません。 ただし、印象派の技巧を真似ただけの絵画は面白くありませんし、現代のリアリズム画家でも写真ではなくこだわりのちゃんとしたモデルを使って描いている人もいますが、やはり『見える/見えない』どちらの場合でも、感覚としてのリアルさがあるものの方が面白く感じますね。

nopne
質問者

補足

私に全部理解するのは難しいですが、良いお話をありがとうございました。

  • oktonny
  • ベストアンサー率51% (22/43)
回答No.2

最初に、ご質問の内容(意味)について確認です。 早い話が「昔のガラケー」で撮った低品質である筈の写真の方が、「最新のデジカメ(またはスマホなど)」で撮った高品質である筈の写真よりも「良く」見える(感じる)のはなぜか? といった事で合っていますか? その前提でお答えします。 「今のカメラみたいに、勝手にきれいにしてくれた分、その当時の空気はカットされてしまうのでしょうか?」との問いにはひと言では答えられません。とりあえずお答えするなら、そうとも言えるし、そうとは言えない。曖昧ですがそれが答えです。 これは良し悪しではなく、その写真を見た受け手の感性と、受け手がその写真に求める品質の「種類」によるもの、とでもいうのが丁度よいかと思います。 「情報量」について、質問者さんは誤解されています。古いガラケーの写真は「情報量」という面では圧倒的に少なく、最新のカメラには到底かないません。ではそもそも「情報量」とは何か? それは「どれだけ細かく正確に(リアルに)現実のビジョンを再現しているか」という事です。 例えば、海の写真を撮ります。極端な話、昔のガラケーだとそこに写った物体や情景はきちんと分かりますが、「波が実際どんな形をしているか」といった細かい部分までは判別できません。「ざっくりしている」、とでもいいますか。 同じものを最新のカメラで撮った場合、その波のひとつひとつまで正確に見える。昔のガラケーで撮った写真では判別できず見えなかったものまで見える。「高精細」なのです。 これが「情報量」というものです。 ここからやや美術的な話になりますが、「情報量」=「その作品の良さ」ではありません。物凄くリアルで「情報量」が多い絵は決してそれこそが優れているという事ではなく、あくまでそれは「Aという種類の絵」に過ぎない。「Aという種類の絵」が必要とされる状況のなかであれば、「Aという種類の絵」同士で優劣が決まる場合はあるでしょう。 同様に、様々な省略(デフォルメ)を施された「情報量」の少ない絵というのも、それが情報量の多い絵に対して劣っているという事ではなく、これはこれで「Bという種類の絵」に過ぎないのです。「Aという種類の絵」と「Bという種類の絵」で優劣はつけられず、そもそも表現の種別が異なるという事です。 例えば、「超高級な幻の食塩」と「スーパーで売っている普通の砂糖」。どちらも同じような白くて細かい粒状の物体ですが、これを比べ優劣をつける事はできません。味や用途が全く異なる為です。絵(写真など含)にもそれと同じことが言えます。 さて、ここまでを踏まえて今回の質問者さんの感じた事を整理すると、「情報量の少ない昔のガラケーで撮った写真の方が、自分にとって好きな写真が撮れている場合が多い」という事になると思います。細かい言い回しはおいておいて、ざっくり言うと「あ、この写真いいな」「おー、いい感じだね」そういう風にお感じになっているのでは? 恐らく、人によってはその同じ写真を見ても「え、最新のカメラで撮った写真の方が断然良いと思うけど」と感じられる場合もあると思われます。これが、「受け手の感性」と「受け手がその写真に求めているもの」です。人それぞれって事ですね(笑) 質問者さんの感性は、細かい事はおいといて雰囲気重視なんだと思います。美術系の人間に多いタイプです。右脳派とでもいいますか。そんな質問者さんには、ご存知なければ是非「トイカメラ」というものが超オススメです。これはオモチャという枠組みにおさめる事はできない、素敵なカメラです。最新のデジカメや普通のカメラに比べて撮影の仕方やフィルム管理などにコツやクセがありますが、きっと気に入って頂けると思います。「LOMO」や「HOLGA」をはじめ色々とありますので、どんな写真が撮れるどんなものなのか、色々とググってみてください。 ここまで読んで頂くと、「今のカメラみたいに、勝手にきれいにしてくれた分、その当時の空気はカットされてしまうのでしょうか?」という問いについてはもうどういう事なのかお分かり頂ける事と思います。

nopne
質問者

補足

ありがとうございます。 色々考えることができました。 私の方で自分の中の疑問自体モヤモヤしてまま質問しました。 情報量とはカメラという機械における言葉として使用したのではなく、 写らない、気温や湿度含め、細かく写らない分、写らない部分を自分の記憶から探して補うようなものも全てと言うか。 今のカメラは失敗した写真から何も感じません。 でも、それ以上にRAW形式で撮ったりソフトで加工したり、良い部分の方が大きいですが。 このサイトでもカメラカテゴリーの回答者さんは、スペックオタクな所があり?絵画鑑賞的視点でカメラを語る人があまり居なくて残念です。 女性もカメラという機械に興味ある人少ないですね。仕上がり重視というか。 昔、紅茶の空き缶でピンホールカメラを作ったことがありますが、 今見る古いガラケーの画像は、その感動と似てます。 (陽射し、濡れたアスファルト、若い頃のペット、、、) なんか、全て写ってれば良いというものではない。気が。 でも、そうですね。求めるもの次第ということなのでしょう。

回答No.1

古い写真はそれだけあなたの感情に訴えかける情報をたくさん持っているということでしょう。 陽射しの強弱が解る、温度、湿度が解る →これは、あなたの記憶が強くその写真と結びつき、その場の情景を思い起こさせたということではないでしょうか。 マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」という作品は、紅茶に浸したマドレーヌ一切れから物語が始まり、幼い時代に過ごした町の記憶が鮮やかに蘇ってくるという構造になっていますが、この「無意志的記憶」を質問者様も体験したということではないでしょうか。 絵画でも、緻密に書いたスーパーリアリズムよりも、あふれる光や水面の印象を描いた印象派の絵画の方が、万人にそのような作用を引き起こすことがあるのと同じかもしれませんね。

nopne
質問者

補足

ありがとうございます。 記憶が思い出されるというのは、どうかなと思います。 私がこの質問を思い浮かんだのは、ガラケーで撮った写真を見てる時で、 ガラケーの写真だけに、ほとんど写り(仕上がり)に期待してなかったものです。 なので、その場面に写真に残したいほどの強い気持ちがあるとは思えません。 それとも、期待してなかった映画が面白かった効果でしょうか? モノクロ写真は質感が強く感じるのはありますが、玩具みたいなカメラだからこそ判る部分もあるのかなと。

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