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各大名家で教育係りは何を教えていたんですか?
各大名家で教育係りが世嗣ぎに教えることって同じだったんですか?たとえば今なら国語数学科社会英語とか教えますよね。どんなカリキュラムが組まれていたんですか?
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- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 しばらく取材旅行をしていましたので、今朝、初めてあなたの質問を目にしました。 >>各大名家で教育係りは何を教えていたんですか? ★大名家、及び、武士の家庭でも「長男」「次男」「三男」・・・などによって、多少は教育の仕方(方針)が変わりますが、それを全部述べると、とてもとても、になりますので、ここでは、「長男」に限って話してみたいと思います。 ★まず、若様が生まれると、「乳母」(めのと)が選任されます。 ★重役家臣の中で、同じ頃子どもを出産した女性が候補となります。 ★乳母は、自分の子どもと共に城中に部屋を与えられ、そこに住みます。 ★乳母は24時間体制で領主の「若様」の世話にあたります。 ★もちろん、乳母には侍女が付きますので、「若様」に乳を与えたり、身の周りの世話をする時は、自分の子どもの世話は侍女が行います。 ★また、乳母とはいっても、必ずしも「乳」を与えるとは限らず、「乳」は長男の実母が与える場合もありました。 ★しかし、大大名あたりでは、「不問律の掟」として実母が乳を与えないのが、言ってみれば「仕来り」のようでもありました。 ★どちらにしても、後々、若様の「教育掛り」にもなりますので、ある程度の「教養」「美貌」も吟味されました。 ★さて、一方、男性も重臣の中からある程度年齢のいった、まあ、極端に言えば「老臣」に近い者の中から「守役」が決められました。 ★この「守役」は、成長するにつれての「礼儀作法」、「文武」などの若様としての「教育掛り」となります。 ★若様が5歳位になると、守役により「手習い」を教えられます。 ★7歳位になると、菩提寺の住職の元に通ったり、場合によっては、住職が城へ出向いての本格的な教育が始まります。 ★7歳からはいきなり「中庸」(=四書のうちの「礼節」の部分)の素読から始まります。中味の意味までは教えてもらえない。10歳位までに「四書五経」の素読を覚える。まあ、その間には、聞きかじりで意味を理解するようになります。 ★城中での武術は、剣道と水泳を守役、あるいは、剣術などに長けた者から教わりました。また、この頃になると、同年齢の子ども数人が選ばれ若様と共に剣術や水泳の稽古などに励みました。 ★この同年齢の子どもたちは、重臣、または、中級家臣の子息が選ばれます。 ★この者たちは、大概の場合、若様が成長するにつれて「小姓」などに出世します。そして、若様がゆくゆくは城主ともなれば、城主の「親衛隊」として重臣にとりたてられました。 ★やがて、若様は、同年齢の子どもたちと共に、菩提寺の住職から「兵法」(主に、「孫子の兵法」)を教え込まれます。 ★ここで、「菩提寺の住職」と単に書きましたが、「菩提寺の住職」は、いわゆる、城主の庇護を受けていますので、「荒れ寺」のような寺ではなく、弟子を何人も抱えた立派な大きな寺の住職で、当時は最も「優れた教育者」でもありました。 ★また、この住職は、ただ単に「教育者」と言うだけではなく、「兵法」にも精通をしており、時には「城主」でさえ「戦術顧問」として意見を聞きました。 ★有名なところでは、毛利氏に仕えた「安国寺恵瓊」などは、城主に替わって秀吉と交渉を担当した、いわば、「外交僧」がいましたよね。 ★こうして、若様は、「文」の方は住職から教え込まれ、「武」は同年齢の子どもたちと共に城内の剣術に長ける者から教わりました。 ★この剣術の指南には、「剣道」だけではなく、「槍術」「薙刀」などの稽古も含まれていました。 ★礼儀作法などは先に述べた「守役」などから若様、つまり、後々、城主となる心構えなどを教わりました。 ★一方、乳児の頃選ばれた「乳母」からは、女性に対する「礼儀作法」などを教え込まれました。 ★しかし、乳母は長男がある程度の年齢、およそ2歳位になると、役目を辞して城を去る場合もありました。 ★この場合は、城中の侍女の中から、それ相応の「知識」と「美貌」を兼ね備えた女性が中心となって、若様の身の周りの世話に当たりました。 ★「まとめ」として言えば、昼は「文」にいそしみ、城に帰ってからは「武」の鍛錬をしての、まあ、遊び時間などはあまり無い日々でした。結構、厳しい日々だったのです。
- fujic-1990
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大名家ならだいたい同じことを教えたでしょうね。 手元に資料はありませんが、小説などで出てくるものでは、「守役」などと呼ばれる「心構え」「人使い」などを実践面を教える者と、論語や和歌などを中心とした読み書きを教える者、心身を鍛える程度の武術(剣術や弓術など)を教える者、特に文字(今で言う習字)を教える者、などなど専門職に分かれていたようです。 こういう基礎ができていないと、不作法になったり、会話が成り立たなかったり、文書が読めなかったりして、江戸城内の詰めの間で恥をかくことになりますから。 もっとも、加賀前田の殿様は、幕府から疑われないように鼻を垂らしたりして、わざと恥をかいていたそうですが。