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江戸時代。関所の通行税。

Kittynoteの回答

  • Kittynote
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回答No.5

No.4の Kittynote です、再度失礼致しますm(_"_)m いわゆる旅芸人に関しましては、 「芸人だけは特権階級で、厳重な関所などでも、関所手形がなかったとしても、 自分の芸を見せて芸人であることが証明できれば、無事通過することができた。 (『三田村鳶魚江戸生活事典/稲垣史生編/青蛙社/1959』)。」 のように解説されている事例が多数散見されますね。 ただ、下記論集の図表(筆満可勢所載経費の現円価換算表)を見る限りでは、 (…既に御存知の論集かもしれませんが…) 〇「旅芸人の収支計算/宮内輝武」 『白鴎女子短大論集 13(1)/1988-09』(1-18頁) http://ci.nii.ac.jp/naid/110001164045 上記抜粋 <14/18> ・[1829年9月3日/(番号)77/ (摘要)関所経費/(銅貨幣)100文/(円価換算)2063] <15/18> ・[1829年?5?(9)月29日/(番号)94/ (摘要)新川渡船場役所へ出切手/(銅貨幣)100文/(円価換算)2063] ・[1829年10月1日/(番号)104/ (摘要)舟場跡番所酒代/(銅貨幣)100文/(円価換算)2063] <16/18> ・[1830年4月17日/(番号)140/ (摘要)当国境鼠ヵ関出切手料/(銅貨幣)120文/(円価換算)2475.6] ・[1830年4月29日/(番号)145/ (摘要)当所舟役所へ出切手/(銅貨幣)400文/(円価換算)8252] 例え芸人でも、各藩境のいわゆる口留番所等では、 出切手経費(※酒代名目、実質は出切手代金?も一箇所ありますが)を要しています。 上記事例は一例に過ぎないことと、芸人の種別・格等による差異も考えられますから、 断定は出来ませんが、 幕府の関所手形などの要否と藩毎の出(入)切手経費の要否とは、 やはり分けて考える必要があるようですね。 以上 断片情報に過ぎませんが 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^

kouki-koureisya
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 「筆満可勢」は、読んでいました。 “女郎花代”が何回も出てきますね。 結構高いです。貴重な証言です。 >上記事例は一例に過ぎないことと、芸人の種別・格等による差異も考えられますから、断定は出来ませんが、幕府の関所手形などの要否と藩毎の出(入)切手経費の要否とは、やはり分けて考える必要があるようですね。 同感です。 私の想定は、士農工商に入らない(工商以下) “芸人のような存在”があったのでは、と思っています。 思い出せばよいのですが…。

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