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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:誰か「存在」を定義して頂けませんか?)

存在の定義とは?センセーショナルなタイトルを考える

このQ&Aのポイント
  • 存在についての定義とは一体何なのでしょうか?哲学や実存主義、唯物論など、さまざまな視点から存在の解釈は異なっています。
  • 私は存在を個性あるエネルギー・性質と定義しましたが、この定義は正しいのでしょうか?酸素分子や道具、生物や精神、宇宙など、どれが存在するのか悩ましい問いです。
  • 存在の定義は個々の基準や視点によって変わってきます。私の定義はエネルギー・物質の個性を単位にしたものですが、それが正しいかどうかは別の問いです。

質問者が選んだベストアンサー

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  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.18

イデアというのは、例えばそうですね、この間、こんなTV番組がありました。ドイツと日本の技術者が、真球を作って、どちらが長い距離をまっすぐに転がせれるか、というものです。 現実には真球というものは作り出すことが出来無いと言われています。超細密に観察すれば、凹みや歪み、傷があるというのです。お題は、如何に玉を加工して真球に近づけるかというものでした。 例えばこの真球というのが、イデアです。現実には存在しませんが、概念として存在しているのです。 存在も似たようなものです。現実界において、石ころは石ころと呼び、「存在」とは呼称しません。いちごケーキはいちごケーキと呼び「存在」とは呼称しません。存在と固有に呼称するのは、ただひとつ、概念としての存在のみなのです。故に、諸存在の原型でありイデアであると言ってみました。ここがユニコさんには引っかかるでしょう。 ユニコさんの説明では、性質というのはおそらくイデア的なものであると私は解釈しました。また、エネルギーという言葉が出たので、物質論的に説明しているのだと解釈したのです。 アリストテレス的に言えば、性質はエイドス、エネルギーはヒューレーとなると思います。性質とエネルギーが合して存在となっているという考えは、以前ユニコさんの友人が指摘したと言うように、アリストテレスの論ととても似ています。 私が存在は諸存在の原型であると言ったのは、あらゆるものを存在たらしめているのは、諸存在に符号する存在というキーワードであるということで、存在はイデア的なものと言ったのです。 この存在を、性質としてみた場合に、ユニコさんの言う存在性という言葉が出て来るのではないかと推測します。物事を存在たら占めている性質が存在性である、となるのではないでしょうか。上述のように考えると、ユニコさんの言いたいことは伝わる気がします。ユニコさんの言う存在性は、私の言う存在よりも能動的では有りますが、だいたいこんなかんじで理解しました。ちがうかな?

yuniko99
質問者

お礼

う~~ん そうですね おそらく存在性の理解はそれでかなりいいと思うのですが 私が勝手に作った言葉ですから ニュアンスが有るので 文章で読んで頂けばもっと伝わるかもしれません 性質に関しては私は現実に 存在する 性質を言っています。イデアや理想ではありません 存在性もそうです。存在性も性質です。存在に必要、または有効な性質を存在性と呼びます。 ここまで書いた文章に「存在する」という言葉が出てきますが 存在するのなら それが存在なのだろうと 普通の人は思います。 私も存在、存在者という言葉を知らない訳ではないのです。 しかしこの「存在」「存在者」という言葉は巷の人にはわかりません 伝わらない言葉です 専門用語と言う事になります。 哲学がこんなに難しいと嫌われてるのになんでこんな分からない様な言葉に固執するのか? ヘーゲルはそう言ったかもしれませんが 他の哲学者はどう言ったのか? 「水が存在する」と言えば 「水は存在なのだろう」と普通は思うのでしょう なんで誤解を極力避けるべき哲学が こんな分りづらい言葉を今だに使っているのか? と思ってしまいます。帝国主義とかライ病とか最早死語ですよ。 イデアの説明としての真球の話(僕もTV見ました)は納得しました。感謝です。 イデアと言うのは理想とは違うのでしょうね。どこが違うのか考えてみます。 エイドスとヒュレーに似ているという話を取り上げてくださってどうもです もう一つ 僕の思想は朱子の理気二元論にも似ていると言われました。 私は神を殺そうとは言いません。ただ存在という言葉を我らの手に取り返したいですね。 存在性思想は自信満々でしたが 15年の理解されない歳月で くたびれますね。 どうも大変ありがとうございます。^^

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その他の回答 (19)

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.9

たとえば、幻の様なものは存在すると言えるでしょうか。実体としては存在しないが、虚としては存在すると言えます。 つまり、言葉の用法、場面によって存在という言葉の使われ方が色々だと言う事です。 ユニコさんは、物質論的に存在という言葉を定義しました。 私は、言語の機能としての存在という言葉の用法について軽く触れました。言葉は形而上の産物でありますから、存在とは何かと改めて問われたならば、諸存在の原型という事になると思います。つまりはイデアの一つとも言えるでしょうか。 自信無しです。難しいことを言ったかもしれません。

yuniko99
質問者

お礼

幻というものは人の心に在る想像みたいなものです。心の中に性質として存在します。 人間に外界には存在しません。蜃気楼は屈折して見えるので存在しない訳ではないですが。 私は物質論的に存在を定義したわけではないのです 存在とは(個性ある)性質を持ったエネルギー(物質)。の性質の部分が精神なり言葉や思考のような存在を表しています。 形而上って何でしょうか?抽象的、普遍的、理念的なもの とあります。 イデアと言うものがあるのかどうか?精神界にあるかどうか?疑問が残ります。 我々は自信をなくさず哲学しましょう。どうもありがとうございます。

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回答No.8

感じる時、その対象(自我仮説と空間仮説の相補分化)。 認識(時間の流れ)と、存在(空間の広がり)の相補分化。 「時間=記憶=過去=超光速」と、「空間=予測=未来=光速下」 の「感受表面=量子相互作用=現在=光速」からの対発生。 そうした階層現象表面的な非光速性の、原理たる超弦(量子 定常波=光速)への還元において、全ては(感受も存在も) 量子に還元され、量子は相対性理論の4次元ミンコフスキー 空間における時間軸と空間軸の虚数関係(現象的相補分化 の反映)における、等距離点=ライトコーン(光量子の軌跡) として得られる。 仮想的時間経過に由来する現象表面的(仮想的)存在性 としての時空への無の射影(無への還元)。 無いとは分からない事が有。

yuniko99
質問者

お礼

言っては悪いですが よく分からないですよ 何を書いてるのか? 難しい~~~ 先生は学者ですか?日本人ですか?新人類ですか?? どうもありがとうございます。

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noname#210533
noname#210533
回答No.7

追補。 先ほどの投稿は余りに短すぎました。 「ある」ことを定義しようとすると、無い、ということを 定義することの裏返し。 存在={ある}と置き換えて、無 ≠ {ある}と、とりあえず 倒置してみる。 無がないなら、在るだろう、と。 それで、答えとは言えないが、一つの手がかりとして書いたのです。 無いものは無い、と。

yuniko99
質問者

お礼

無いものは無い、在るものは在る ですね これは言えてると思います。いい視点だと思います。 どうも大変ありがとうございます。

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noname#210533
noname#210533
回答No.6

無いものは無い。

yuniko99
質問者

お礼

無いものは無いでしょうね。これは確かでしょうね ただ無いという証拠があるかが問題ですね どうもありがとうございます。

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回答No.5

 こんにちは。  1. 《存在》とは何かについては おそらく人間という存在にかんして人間の側からどう捉えるかを語るしかないように思われます。  2. ヘーゲルの次の命題は いい定義ではないかと考えます。  ◆ (ヘーゲル:法の哲学の講義録より) ~~~~~~~~  無限なものと 有限なものとの一体性・・・この矛盾・・・は   どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない   ないしはこれを 我慢できないであろうが   この矛盾を持ちこたえることができるのが   人格(* ――もしくはふつうに《人間存在》――)の高さである。   (『法の哲学』 §35追加 藤野渉・赤澤正敏訳 1967)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3. つまりその《あたかも時間の高さ》を容れた時間的なるものが 人間です。  4. 存在をいわゆる実存としてみれば もうそれでおしまいです。  5. もし存在を広義の用語とすれば それは狭義の存在とそして存在する者とに分けられます。それらふたつは ヘーゲルの《無限なものと有限なもの》にそれぞれ対応します。  6. ただし ヘーゲルに従えば 人間は《無限なもの(狭義の存在)と有限なもの(存在者)との――矛盾を容れつつも―― 一体なる〈わたし〉》であるようですから 言わばまぼろしの《存在》なる概念を切り離して必要以上に追い求めることもないはずです。  7. 世界が観測と認識によってあたかも存在すると見るばあい それでもその観測し認識する行為の主体は 誰か? という問題がのこります。  8. 認識する能力とその主体 あるいは 認識するわれと対象との関係 これは すでに世界の一部を成しているのであるが どのように存在するように成ったか? という問題です。  9. つまりそのように問題がのこりナゾをみちびき出すとしたら 自然科学の知力にとっても けっきょく《有限なもの‐無限なもの》という矛盾をはらむ一体性が当てはまります。ナゾが 無限なもの――狭義の存在――になるはずです。  10. 無限なものなどは 無い。無である。という見解があったとすれば そのような存在論も まったく同じくヘーゲルの存在観の内に含まれます。   《有限なもの ‐ 無限なもの(有る無限 または 無い無限)》としての矛盾かつ一体性  という大きな存在観です。無限が有るか無いか これは 人間には決められません。(しかも・あるいはそれゆえ 主観としては 自由にどちらかを――そうしようと思えば――選べることになっています)。  11. ★ 例えば酸素分子は存在するのか? 鎌やスコップは存在するか? 動物は、人間は存在するか? / 宇宙は存在するのか?  ☆ 人間以外のそれとしての存在については 人間がみんなでともに世界にまなびつつ修正しつつ規定する内容として捉えて行くよりほかに仕方がないように思います。  12. ★ 精神は存在するのか?  ☆ 人間は 身と心(身体と精神)とをそなえて生まれてくる実存です。精神が精神するかたちで いまこのように議論しているような存在論をいろいろに模索しています。  13. この人間観にもとづくかぎりでは 《性質》とは この精神が勤勉であったり怠惰であったりするクセのことを言うのが ふつうだと思います。精神のクセや特徴というのではなく 《性質》をほとんど存在と肩を並べる概念として推し出すあたらしい理論ということであれば しっかりとした定義とその理論説明が必要であると思います。

yuniko99
質問者

お礼

哲学用語が歴史的な言葉になって なんか宗教のような感じになっているのが 科学との違いで 哲学が発展しにくいのではと思います。 性質は普通の字義通りの性質でもあります。存在が無限か有限か? 宇宙が無限かどうか分からないとしたらその無限なるものを「存在」と呼ぶのはおかしいですねえ むしろ有限な動植物や車とかの存在を「存在」と呼ばないと 無限なものなんて特別なものだから 無限存在とでも呼べばいいのであって、酸素分子まで「存在者」なんて おかしいですよ。それじゃ哲学は裸の王様です。 我々は無限なものを見たことはありません 無限だとしても認知できないのです。 概念としては無限というものはありますが 現実にはありません。 無限だという可能性はあります。 ですから我々は有限なものを「存在」と捉えなければなりません。在るかどうか分からないものを「存在」と呼べば それは内容がなく空虚という気にもなるでしょう。 マルティン・ルター等が宗教改革を起こした様に 我々も哲学改革を起こさなければなりません。 私がある大学に電話して 哲学の教授と話したら 「あなたの専門はなんですか?私はトインビー専門なので 他の事は分かりません」と言われました。 まあ 話したくなかったのでしょうけど しかしそれじゃあ話になりません 21世紀の人間が20世紀や19世紀以前の哲学者専門なんて 考古学じゃないんだから 現代に通用する哲学思想を配信しなければなりません じゃないと人々は何を信じて生きるのですか?それこそ昔々の宗教ですか? いま思想がないのです。それで人々はバラバラで 世界も一つになりません 宗教も一つにならないのです。 今や哲学で宗教を変えなければならない時代になりました 古い宗教・哲学にしがみつく時代であってはいけないのです。 どうも大変ありがとうございます。

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回答No.4

ハイデガーは「存在と時間」の冒頭で、存在は定義できないと言っています。 (1)存在はもっとも普遍的な概念である。 あるものを、あるものとして規定する、あるいは定義するためには、それよりも大きな概念、普遍的な概念に包摂する必要があるけど、存在にはそれ以上大きな概念、普遍的な概念がないから、存在を定義することはできない。 そしてハイデガーによれば古代のアリストテレスにしても、中世のトマスにしても、存在とは何か?ということの解明には至らなかった、そして近世のヘーゲルは「論理学」において存在を「無規定な直接者」として規定し、それに続くカテゴリーの基礎に据えたけれど、かれも存在とは何か? を解明するには至らなかった、と言います。 (2)存在という概念は定義不能である。 ハイデガーは存在と存在者(存在するもの)を区別しました。 私たちの知っているもの、存在するもの、見たり触れたりできるものはすべて存在者であって、存在ではない。 存在とは抽象的な概念であって、何ら性質を持たず、内容がなく、空虚である。 もし、存在が物の性質のようなものであれば、その物に何ものかを付け加えることも可能だけど、存在は何ものもその物に付け加えない。 「ある」というのは、その物の属性でも、性質でもない。 「山がある」と言っても、その「ある」は山に何ものも付け加えない。 (3)存在は自明の概念である。 私たちは「ある」とか「いる」という言葉を日常的に使っている。 むしろ使わない方が不可能であるくらいである。 そして日常的に使っているという意味では、自明であり、誰もが「ある」とか「いる」と言ったら、それが何を意味するかよく知っている。 よく知らないで「ある」とか「いる」という言葉を使うはずがない。 しかし、アウグスティヌスが時間に関して言っているように「私たちは時間が何であるかよく知っている。そんなものは問われるまでもない。しかし、ひとたび時間とは何か? と問われたら私たちはそれに答えることはできない」と。 存在もそれと同じ。 存在、「ある」とか「いる」と言ったら、誰でもよく知っています。 知らないのに「ある」とか「いる」というはずがない、だから存在は自明である。 しかし、自明なもの、当たり前のものは、それが何であるか? と問われたら答えることはできない。 これが哲学でいう存在の考えです。 あなたは人それぞれによって、その定義、意味解釈は違うようです、と言っていますが、哲学ではそれぞれによって意味解釈が違うことはありません。 そしてあなたの言う存在の定義は、あなたの定義であって哲学の定義ではありません。 あなたの存在の定義は間違っているという以上に、ほとんど恣意的なデタラメです。 まず、存在と存在者(存在するもの)を区別しましょう。 あなたの言っている存在とは存在者であって存在ではありません。 存在と存在者を混同していませんか? 存在は前述しましたように抽象的な概念だから、規定できないんです、定義できないんです。 それをあなたは定義できるように考えていますが、それは間違い。 存在はいかなる性質も、属性もないし、中身もないし、空虚で、見たり触れたり感覚できるものでもないし、エネルギーでもありません。 古代ギリシャで「存在とは何か?」が問われてきましたが、アリストテレスも、中世のトマスも、誰ひとりとして存在を定義した人も、解明できた人もいません。 中身のない、空虚なもの、見たり触れたり感覚できないものをどう定義したらよいのでしょうか? たぶん、これでもない、あれでもない、と否定的にしか定義できないでしょう。 もちろん、あなたのように恣意的に、自分勝手に、デタラメに定義することだったら、誰だって定義できます。 しかし、哲学では定義できないのです。

yuniko99
質問者

お礼

時間とは何か それはエネルギー・物質の変化のことです。 全てが変化しなければ 時間も止まります。二倍のスピードで変化すれば 時間も二倍進みます。それを人間が認識できるかどうかは分かりませんが。 存在者 なんで物質がそんな擬人的な名前で呼ばれるのですか? 存在とは全てのものです。全てのものが存在します。 エネルギー・物質も性質も存在するのです。 ダカラ僕は存在とは(個性ある)性質を持ったエネルギー(物質)と定義してみたのです。 誰かが定義しないと 世界中で存在が失われ 多くの人が殺されているのです。 それを「存在とは定義できないものだ」で終わらせるのですか? 第一昔の哲学者の文献を後生大事に研究し それが哲学だと言っておさまっている。 哲学は漁師にもあります、高校生にもあります、オバマさんにもあれば 僕にもあります それを大学の権威をバックに「それは哲学じゃない」と言うのは ソクラテスが何と言うだろう? 存在者と言う事は知っています。妙な名前をつけたなあ と思います。 おかしいですよ どう見たって。 エネルギーは何を単位にするかを考えると エネルギーは性質に即して個性を持つ その個性を存在と呼ぶ。酸素分子 水素分子 H2Oという個性 それを存在と呼べば 全てが存在する。ありとあらゆるものが存在する。幽霊も心に存在する とも言える。 神も心と外界の関わりによって精神の中に存在する。 存在とは内容がなく空虚で定義できない 何ですかそれは?定義ぐらいして下さい! どうもありがとうござます。

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noname#212313
noname#212313
回答No.3

>私は 存在とは(個性ある)性質を持ったエネルギー・性質 と定義しました。  これだと、物理学的な定義ということになるでしょうか。そうであるとして、物理学的にお答えしてみます。物理学と無縁なのでしたら、以下は無視してください。  定義が甘いです。観測者を抜きにして語っても仕方ありません。観測者といっても、理想化したものになります。幻覚などは一切ないものになります。  観測者は、その名の通り観測するわけです。相対論以降では特に重要です。なぜなら、観測者ごとに観測される物体の性質が異なるからですね(時計の遅れ、ローレンツ短縮、同時刻の相対性等々がよく知られている)。  しかし、観測される物体がまず在るといえるのか。そうではないです。量子力学の観測問題などでは、そのことが議論の対象となっています。シュレディンガーの猫、といったものでご存知かと思います。  物体が在るといえるのは、観測の結果です。当然、その観測を行った観測者限定でもあります。シュレディンガーの猫では、箱の中の猫を観測する人をさらに内部が観測不能な箱に入れた状態を考えたりします。猫の箱を開けた観測者1にとって、猫の状態は確定しますが、猫と観測者が入った箱の外の観測者2にとっては、猫も観測者1も未確定のままになります。  では観測とは何だということになります。それは相互作用と呼ばれるものの一つです。目で見る場合だと、対象の物体の反射光や物体の発光によって、光が目に入り、観測が成立します。  観測している物体が直接に観測者に影響するのではなく、 1.物体と光の相互作用 2.1による光と観測者との相互作用 という二段階で観測が成立しています。その結果、観測者は「物体が在る」と強く推定するわけです。手で触る場合でも似たようなことになります。  このことを極端に表現した名言(迷言?)の一つに「月を見ていないときには、月は存在していない」というものがあります。  月を見ていて、目を逸らしたら月が消失するということではありません。月が消失したと断言するためには、月が無い状態を観測しなければならないからです。「月が存在していない」とはもっと消極的に、「月が存在していると推定する必要はない」ということです。  まとめますと、「物体が存在する」とは「観測者が相互作用により、実在を強く推定する」ということになります。  なお、ある観測者が他の観測者と観測結果を共有したい場合は、物理法則に基づく観測者間の差異を吸収する変換処理をします。 P.S.  観測者自身が存在することは、観測者が外界と相互作用が在ることを以て、保証することになります。外界との相互作用を絶って、観測者内部だけでは保証できません。

yuniko99
質問者

お礼

それはそうでしょうね。 物理学と縁があるかどうかは分かりませんが 科学は観測し測定する事で物事を理解する学問です。 測定出来なければ 理解もできません。 アルコールランプで炙っている三角フラスコ内の水が何℃なのか 観測者が相互作用で?観測しないと分かりませんし、温度計がないとわかりません。 観測者が外界と相互作用がある事は観測出来る事で分かると思いますが 光も何もない真っ暗な洞窟に居ては コウモリでもない限り観測はできないでしょう 聞こえたり香ったり触ったりもできないとすればですが。 私はシュレーディンガーの猫については甚だ疑問です。 電子雲というのがありますが 電子が素粒子である事は分かっているのです それならば電子は原子核の周りをまわっている筈です。 しかしあまりに速く回るので 何処にあるか分からない。だから確率的に存在する つまり電子雲として扱う。 それはただ人間に分からないだけです。観測者も不完全だから だから世界も不確定性だと。それは人間に分からないだけです 分からないけど猫は生きてるか死んでるかどっちかです 電子もどこかを飛び回っているのです 科学ではそういう解釈でも 私の哲学ではその様な現実に妥協した解釈はしません。 私は今生きており 存在しています。私の手も キーボードも 私の目も 存在しているようですよ 個性ある性質を持ったエネルギー(物質?)として。 どうも大変ありがとうございます。

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noname#210555
noname#210555
回答No.2

哲学カテゴリーでこの命題をふるなら、 「答えはデカルト!!(のコギトエルゴスム)」 になるとおもうけど。 存在をいくら考えようともそれを認識する何か(自分)がいなければ存在を確立できないでしょうに。 いい例が神でしょう。 あなたのいうように個性あるエネルギーだけど 信者がいなければ存在を無くす。 あるいは哲学らしく、存在の否定から考えては?

yuniko99
質問者

お礼

神が人々の心から消えてしまったら 神は存在しなくなるのです。 存在を否定すると 何も無くなりますが それでどうしたらいいのでしょうか? 自分がいなくても 私がいなくても 存在は 在るでしょう? デカルトの我在りはあまりに有名ですねえ どうもありがとうございます。

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  • type096
  • ベストアンサー率22% (8/36)
回答No.1

哲学的な答えにはならない気もしますが、私は「誰かが存在を認知すればソレは確かに存在する」と考えています。 というのは、私は大学生の時に「穢」について勉強していたのですが、汚物や穢れた物は人間に「汚い」と思われないことには汚物でも何でもなく、ただの物体でしかないのです。 私はこの考え方が、世の中のあらゆる物にも当てはまると感じています。 地面を這う蟻にしろ、宇宙の果てにしろ、実際にそれがあるのだとしても誰かがそれを観察し、観測し、探しだし、発見しなければ私達にとっては無いに等しい物でしかないと思います。 よって、自身が誰かの存在を認知すれば、その誰かは確かに存在しますし、その誰かによって認知された存在もまた自身にとって存在を確信し得る物になると考えます。 自分自身については「我思う故に我在り」でしょうか。

yuniko99
質問者

お礼

自身が誰かの存在を認知すれば その誰かは存在する。 人間が「存在する」と認識するとそれは存在する 一つの哲学ですねえ。その誰かが認知すればそれも存在する その誰かが・・・と続くのでしょうか? だんだん不確かになっていきますねえ 催淫はコンピュータグラフィックスとか合成映像、合成写真などもありますから 不確かさは問題でしょうね でも一つの見方としてはありだと思います。 どうもありがとうございます

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  • 存在しようと(する性質が)しなけれ存在出来ない?

    人間は存在するのが当たり前のように思ったりしますが 実際には車に気を付け 食事をして 夜とかに眠り 寒さなどを凌がなければ 存続して存在することはできません 人間に限らず個性ある物質やエネルギーは存在させようという性質を持たないと 存在出来ないのです。 進化論を考えるとわかりやすいです。生き残ろうとする性質を持った者が生き残る確率が非常に高い。 物質もそうです 硬いとか柔らかいとか軽いとか重いとか、その他様々な性質がありますが それがそのものに個性を持たせ存在させるのです。 僕は存在性と呼んでいますが 異論 感想などある人は聞かせてください。

  • 存在原理と人生観・世界観・価値観が分かれば・・・?

    私の考えでは存在原理と人生観・世界観・価値観が分かれば、人間は心置きなく生きて 思い残す事なく死ねるのではないでしょうか? 存在原理は存在性の働き方、人生観は人間は精神、世界観は唯心論と唯物論の融合  価値観は存在することが価値です。 何の問題もない ノープロブレンです。 やった~バンザ~イ 夏休みの宿題は出来た^^ 後は遊んで暮らすだけだ みなさんもこの奥義を知りたいでしょう(^^ゞ 存在とは(個性ある)性質を持ったエネルギーです。この性質の多くが存在性として働きます。 この性質が精神を構成しているのです。精神も存在性です。存在するように働きます。 どうでしょうか? ご感想をどうぞ?