情報の島の仮説と普遍的な部分、相対的な部分

このQ&Aのポイント
  • 情報の島にひたると井の中の蛙になります。けれど実際はニューケインジアンのとおり、情報の島に住んでいるように思えます。
  • 思考でなくても、自然犯は戦争やある事情以外は殺人や窃盗は人間社会でよくないですし、あるいは思想や人間関係などの世界は現時点でのものであったり、絶対的なものってわからないので相対的であったりもするかと思います。
  • 価値観のゆらぐ現代ですけど、相対的普遍的なものは何かあるいは情報の島の島民とすればどのような生き方が最適なのでしょう?知っている情報の中で正しいにぎないのでしょうし。
回答を見る
  • ベストアンサー

情報の島の仮説と普遍的な部分、相対的な部分

最近は混乱気味に思えますけど。 完全情報をもっていたとしても、思考には普遍的な部分と相対的な部分ってあると思います。 思考でなくても、自然犯は戦争やある事情以外は殺人や窃盗は人間社会でよくないですし、あるいは思想や人間関係などの世界は現時点でのものであったり、絶対的なものってわからないので相対的であったりもするかと思います。 たとえば、 彼氏彼女の関係→婚約→結婚となれば、普遍的な成分は増えてきますが、完全に普遍化するわけでもないというのでしょうか。あるいは一夫一妻制など慣習を含む法的なものまで。 もし、全世界を知って、完全情報を得たら普遍になるのであれば、基準を設定すればいいのでしょうけど。実際は知った気分以外にそれ以上はないかと思います。ここ5年でアメリカのニューヨークなど行ったことすらない人も実際多くての話かと思います。 かつてT字型人間といいましたけど。それも横の部分って無限的にも思えます。 かといって、情報の島にひたると井の中の蛙になります。 けれど実際はニューケインジアンのとおり、情報の島に住んでいるように思えます。 島の空間的な部分と世界のスタンダード、あるいは相対的なものと普遍的なもの 価値観のゆらぐ現代ですけど、相対的普遍的なものは何かあるいは情報の島の島民とすればどのような生き方が最適なのでしょう?知っている情報の中で正しいにぎないのでしょうし。

noname#209756
noname#209756

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#208724
noname#208724
回答No.1

不変的な部分は、下の図で示すように、形而上学的な作用が大きいのです。 人間の感覚は、匂いや皮膚からの刺激、そしてそこに生活する人の行動から受ける印象や風習などに敏感であるのに対し コンピューターを通して伝えられる、他の島からの情報から得る感覚は、それらが伝わらないうえに、たとえ情報の操作があっても、それが暴かれるまでの間だけ通用してしまう。 形而上学的に見れば、島が離れているからこそ、安らぎと平和がもたらされるのであって、 他の島を気にしないという選択もあるのです。自分の環境を守ることが結果的に被害の拡大を防ぐこともあります。実社会では判断が重要で、それは普遍的な相互作用を受けつつ相対的に比較処理されます。 決してT字人間が優れているわけではないのです。というのは、あなたがおっしゃる通り、横に時間軸を設定した場合には固定された観測点が果てしなく必要で、横に空間軸を設定した場合には情報が時間的に劣化し、それをカバーしようとして情報のナマ噛みが発生します。それがいかに危険かを考えればわかりますね。情報は一旦蓄積して他の情報と比較し是非を問わなければなりません。それが一過性の情報を回避するのに有効だからです。でも危険と発展は切り離せないものがあるので、アマ噛みも一役買っているとはいえないこともないです。 私は情報収集の仕事には向いていないので、あなたどうぞ経済活動に応用して発展させて儲けてください。あなたに期待してますよ。

その他の回答 (1)

回答No.2

たとえば脳の保持し得る情報量は、ニューロンとその先端 のシナプス結合のON-OFF(=1ビット)の数に依存する。 しかし、その脳自身の情報量は、脳の質量をエネルギーの 最小単位であるプランク質量で割った数であり、当然、 シナプス結合の数よりはるかに大きい数なので、脳は脳 自身の情報量も「完全」に把握する事はできない。 まして脳を含む環境の情報量=全宇宙の質量をプランク 質量で割った数など、論外である。

関連するQ&A

  • アマテラス普遍人格語のつまづき

     1. まづは S 語 と A 語 (?)  わたしたちは どの言語にあっても ふたつのコトバを使い分けているようです。   《スサノヲ( S )人間語》:   ・ 身と心から成る自然本性そのものの自己表出〔としての言葉〕   ・ 感性の原野を開き ほどほどの理性を持ってしゃべる言葉   ・ 人間のつねとして あやまち得る思考を容れた広い度量の言葉   《アマテラス( A )人格語》:   ・ 身と心なる自然本性を 心ないし精神において捉え相手に向けて    心に或る種の構えを成して自己表現しようとする言葉     (自己表出を ととのえ練り上げ磨き上げさらには飾り上げる)   ・ 感性の原野をどちらかと言うと抑えて 理性によって思考の緑野    を開発する。その成果をもってしゃべる言葉   ・ その思考は あたかもあやまち得ないと見なされた《格》を持つ   ・ かつてはオシヘとして神格化され 神聖にして侵すべからざるも    のと見なされた  2. アマテラス人格語は 普遍科学語を開発している。  すなわち思考の緑野として 言わずと知れたアマテラス科学語の世界を打ち建てた。    誰が認識しても 同じ内容となるというその《個々の主観真実の共通性》 これである。この共同主観が 普遍なる神のごとくであると 時には 見なされた。  3. アマテラス普遍語は 人格語を倫理規範とし これを科学語で根拠づけた。  普遍科学語で彩(いろど)った衣裳としての人格語を着たならば そこに《あやまつべからざる人間像》が出来上がると踏んだ。いわゆる理念の信仰も始まる。    4. かくして アマテラス普遍語文化の君臨となった。  のではないだろうか。  5. このアマテラス語の隆盛が つまづきの石である。  6. なぜなら 自然本性にして普遍たるスサノヲ人間語を貶(おとし)めたつけが回って来ている。  7. スサノヲ人間語は 殊にその感性の原野たる領域において もののあはれを知ったかのごとく こう語る。    ・ 《ひとは 他人(ひと)の自由意志をないがしろにしない。      こころをとうとぶ。      《他人のおよび自分のいのちをないがしろにしない。      《わが自由意志がその自由度において横道に逸れ そこに      おける思考が人間をにくみこれを傷つけようと・あるいは殺      そうと思ったりすることはあるが なぜか そうはしないもの      だ》。  8. ところが アマテラス人格語は うったえます。  スサノヲ自然感性語の宣言を   ・《なんぢ ころすなかれ / むさぼるなかれ》  というふうに規範化しようと。おそらく このこと自体にすでに問題があります。問題が――社会にあって生きることが―― 理性の領域に移行したからです。あたまで逆立ちして町を歩こうと言い出した。  9. あるいは 同じように比べてみようと思えば:  スサノヲ人間語は 心の奥にあってこのように言葉を言い出そうとします。   ・ 《われは 心の奥底なるヒトにとっての思いとして      時に身に勝手に起こるやましさ(恥づかしさ)反応を受け留め      恥ぢを知るわが心にすなおにしたがい      よくおのれの自由意志を用いよう》  と。これを アマテラス語理性は―― 一般にガミガミ規範ないしアマテラス語理論として――言い換えます。    ・ 《すなおになりなさい。     わがままはいけません。     恥づかしさは 隠しなさい。     ウソをつくのは わるいことです。・・・》  10. すでにアマテラス普遍志向にもとづく《アマアガリ》主義は 行き詰まったのではないだろうか?     思考の緑野と言えども 理性のみによってその普遍語の世界に閉じこもらざるを得ないような規範性を帯びているかぎり このあたまデッカチは つまづきの基となる。  《オシヘや規範あるいは理念》をあたまに抱きながらしか おのれの思考や互いの対話を成し得なくなっている。感性の原野が なおざりにされてしまっている。  11. それだけではなく アマテラス人格語は 感性スサノヲ語を捻じ曲げてしまうくせがついてしまった。次のように語るようになってしまった。    ・ 《すなおだと人に見られれば 何かとよいことがあります。     どれだけわがままを通したいと思っていても わがままだと受け取     られてはいけません。     あたまを使いなさい。     ウソは ウソとバレては いけません。     上手につくのですよ。     また バレたなら うまく振る舞って あなたの秘書や部下の所為に     しなさい。     ・・・》  12. アマテラス語は 普遍語が ただの方言にしか過ぎなくなってしまった。  ただのアマアガリのための・それを飾るための・そしてそれを保守するためのアマテラス方言にしか過ぎないほどである。   何ともひどい訛りを身に着けてしまった。ダブル・スタンダードはお手の物というほどに へそが すでにひん曲がってしまったではないか?  どちらかと言うとスサノヲ語の側である野党党首が アマテラス語の舌を二枚三枚すでにあつらえて用意していた。それがとおった。  ☆ これを問います。  いまは 転機か? もしそうなら あなたはどうすればよいと考えるか?

  • アマテラス普遍人格語のつまづき

     (1) まづは S 語 と A 語 (?)  わたしたちは どの言語にあっても ふたつのコトバを使い分けているようです。  《スサノヲ( S )人間語》:   ・ 身と心から成る存在そのものの自己表出〔としての言葉〕   ・ 感性の原野を開き ほどほどの理性を持ってしゃべる言葉   ・ あやまち得る内容  《アマテラス( A )人格語》:   ・ 身と心なる存在を 心ないし精神において捉え自己表現しようとする言葉   ・ 感性の原野をどちらかと言うと抑えて 理性によって思考の緑野を開発する。その成果をもってしゃべる言葉   ・ あたかもあやまち得ないと見なされる内容   ・ かつてはオシエとして神格化され 神聖にして侵すべからざるものと見なされた  (2) アマテラス人格語は 普遍科学語をも開発した。   すなわち 思考の緑野に言わずと知れた科学語の世界を打ち建てた。     誰が認識しても 同じ内容となるというその《個々の主観真実の共通性》 これである。  (3) アマテラス普遍語は 人格語を倫理規範とし これを科学語で根拠づけた。  すなわち 普遍科学語で彩(いろど)った衣裳としての人格語を着たならば そこに《あやまつべからざる人間像》が出来上がると踏んだ。    (4) かくして アマテラス普遍語文化の君臨となった。  のではないだろうか。  (5) このアマテラス語の隆盛が つまづきのもとである。  (6) なぜなら スサノヲ人間語を貶(おとし)めたつけが回って来ている。  (7) スサノヲ人間語は 殊にその原野たる感性の領域において もののあはれを知ったかのごとく こう語る。    ・ 《ひとは 他人(ひと)の自由意志をないがしろにしない。     《他人のおよび自分のいのちをないがしろにしない。     《自由意志が人間を傷つけようと思ったりあるいは殺そうと     思ったりすることはあるが そうはしないものだ》。  (8) ところが アマテラス人格語は うったえます。   スサノヲ感性語宣言を   ・《なんぢ ころすなかれ》   というふうに規範化します。このこと自体にすでに問題があります。問題が――社会にあって生きることが―― 理性の領域に移行したからです。  (9) あるいは 同じように比べてみようと思えば:  スサノヲ人間語は 心の奥にあってこのように言葉を言い出そうとします。   ・ 《われは 心の奥底なるヒトにとっての思いとして      身のやましさ(恥づかしさ)反応と共なる心にすなおにしたがい      よくおのれの自由意志を用いよう》  と。これを アマテラス語理性は―― 一般に規範ないしアマテラス語理論として――言い換えます。   ・ 《すなおになりなさい。     わがままはいけません。     ウソをつくのは わるいことです。・・・》  (10) すでにアマテラス主義は 行き詰まったのではないだろうか?      人間が ただただ――思考の緑野と言えども――理性の領域で・その普遍語の世界の中に閉じこもってのように 《オシエや規範》とそれをめぐる思考との対話をしか成し得なくなっている。のではないか? 感性の原野が なおざりにされてしまっている。  (11) それだけではなく アマテラス人格語は 感性スサノヲ語を捻じ曲げてしまうくせがついてしまった。次のように語るようになってしまった。   ・ 《すなおだと人に見られれば 何かとよいことがあります。     どれだけわがままを通したいと思っていても わがままだと    受け取られてはいけません。     あたまを使いなさい。     ウソは ウソとバレては いけません。     上手につくのですよ。     また バレたなら うまく振る舞って あなたの部下の所為にしなさい。     ・・・》  (12) アマテラス語は 普遍語が ただの方言にしか過ぎなくなってしまった。  のではないか? しかも 何ともひどい訛りを身に着けてしまった。ダブル・スタンダードはお手の物というほどに へそが すでにひん曲がっているのではないか?  これを問います。もしそうなら どうすればよいでしょう?

  • 現代日本で許される1夫多妻的行動はどこまで

    ヒトの性質は一夫一妻制に近いとも言われてます。 でも近いであって、完全にそうではないですね。 戦争が起きて、男性が減少した社会では不倫に寛容だったり、一夫多妻制もあったりします。 一夫多妻制も戦争にかかわらず、人類の結婚制度でよく見られます。 現代の日本で、それでは複数好きになって、結婚している人以外にもよく似た感じの人がいるというのは、難しい面があると思います。法律は一夫一妻制をとっているからです。相続など難しい面がありますね。 厳格に1人の女性しか好きでないといけないというのも少し不自然かとも思えます。 どこまで、一夫多妻的行動が許されると思いますか? (誤解ないようにですが、私は一夫一妻制をよくないと否定しているわけではありません。またリスクもあるかと) またなぜイスラム教では基本的に条件有りで4人と制限しているのでしょうか? 4人の制限にも意味がありそうですけど。 また1人目の女性がどう思うかを条件というのも意味ありそうに思えます。 ・(お金持ちの世界ですが)妻以外にも、複数法律に抵触しない女性と住居をもっている ・複数の人と体の関係がある ・複数の人と体の関係の手前まである ・制限された数の女性と1対1で食事だけはする ・心では範囲を持って複数の女性が好きである ・結婚していて、別に1対1で食事もするわけでないが、一定の交流範囲はもっている ・厳しく、1夫1妻制をまもるべきだ。

  • アマアガリ・シンドロームとは どういうエートスか

     1. 人びとは 世界の何についても寄り憑く原始心性(アニミズム)の状態から脱して おのれの心と意志とで世界の中に入り行くところの:    《イリ(入り)》なる歴史知性(もしくは 世界‐内‐存在であること)  を獲得した。(すでに潜在的な能力としてそなわっていたのを開花させた)。  2. 世界の思想や行動なるいとなみを相対性の物指しで見るようになった。  3. だから 神は この経験世界をとおして望み見るかたちの信仰のもとにある。望み見るとき その神は――有る無しの経験事象を超えているからには―― 人間の言葉としては《神は有る》と言っても《神は無い》と言っても 同じひとつの信仰内容となると心得た。  4. そこへ アマアガリ現象が起きた。イリ歴史知性なる相対性には飽き足らないという心的現象に始まる。  5. 早い話が 子どもが空の月を取って欲しいと言うかのように・そしてそれを自分で実行するのだと言ってのように われは神を見た・神と話をしたのだ だからその神をわれはこの世に寄せたと説き始めた。  6. 《ヨセ(寄せ)なる超歴史知性》の誕生である。果ては みづからが神となるというまでになった。  7. ヨセなるスーパー・イリ歴史知性は すでに《世界‐内‐存在 In-der-Weld-sein 》と成っている。成っていた。《ヨリ(憑り)なる原始心性》を抜け出ていた。  8. そこへ 歴史知性――知性の相対性・経験現象性――を想像力を駆使して超えようとしたのである。天翔り 天上がりする。  9. これが アマアガリ・シンドローム。  10. その特徴は何か? ふたつある。  11. ひとつは 歴史知性の想像力ないし思考能力によって 世界の認識にあたって その普遍性を問い求めた。経験科学として・および良し悪しの価値観を伴なわせた倫理観として。これを アマテラス(A)普遍語と言う。  経験世界の相対性に立つ――あやまち得る人間性としての――言葉は スサノヲ(S)人間語である。  12. A 語の普遍性も しかしながら 経験科学としてである限りで 相対的なものであることを免れない。あやまち得ないわけではない。  13. だから ところどころにヒビ(罅)が入り傷がつく。  アマアガリ・シンドロームに罹った場合には この損傷や欠陥を隠そうとする。自分たちの権威ないし体面を科学的および倫理的な普遍性よりも 大事にする。無謬性の神話がつくられる。  14. もうひとつは 《お山の大将》型だということである。つねに脚光を浴びていないと 死ぬ。アマアガリしたのであるから 人びとの上に立って人びとを引っ張っているのでないと 死ぬ。だから アマテラス普遍語の磨き上げをおこたらない。  15. これが 超人幻想なるヨセ超歴史知性の落ち入るアマアガリ症候群だ。  16. われわれ人間の話す言葉は 時と場合に応じて    《アマテラス普遍語 - スサノヲ人間語》なる構造的なことば  がのぞましいとは考えられる。  17. アマアガリ・シンドロームは 国家人間を襲っているものと思われる。いかにすればよいか?

  • カント:《意志の格率が普遍的な立法の原理として》

     ▲ あなたの意志の格率が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ  ・ Handle nur nach derjenigen Maxime, durch die du zugleich wollen kannst, dass sie ein allgemeines Gesetz werde. ( Kritik der praktischen Vernunft )  ・ Act only according to that maxim whereby you can, at the same time, will that it should become a universal law.  (あ) この命題は 《わたしの意志の格率》と《普遍的な立法の原理》とが ふたつあるという前提に立っています。  (い) もし《原理》が いわゆる永久法(神の法・真理)のことを言うのなら 確かにふたつのことがあります。ただし――ふたつあるのだけれども―― 《わたしの意志の格率》は むろん相対的な思惟の内容でしかなく 絶対なる《原理》とは 絶対的に隔たっています。  (う)  すなわち 《原理》が神の真理だと取る場合には言ってみれば 《物自体》のことである。もしくは物自体にかかわらせたかたちで捉えられたことである。  (え)  その場合には わたしはその存在としても意志としても その原理に及ぶものではないからには けっきょくかつとうぜん《信仰》の問題になる。経験合理性にもとづく思考を超えたところの問題となる。  (お) そうでなく《普遍的な立法の原理》とは 経験合理性にかかわるところの倫理規範などであるのだろうか? けれどもその時にはそれは 《わたしや わたしたち》が考えるものであるとなる。  (か) それは 理にかなわない。なぜなら 《わたしの意志の格率》もまったく同じくわたし〔たち〕が考えた思惟であって 倫理規範のことであるにほかならないのだから。ふたつのものは 実際には同じものである。  (き) つまり その時には せいぜい《あなたの倫理的な思惟および行動を より一層普遍的な内容のあるものにせよ》と言っているに過ぎない。  (く) 《普遍的な立法の原理》を 永久法(真理)としてではなく いわゆる《自然法》として捉えるのは どうか? 自然法は どういうかたちでにしろ 永久法からイメージを直感してその概念内容を得て言葉に表現した倫理規範だということになる。わたしたち人間の考えた人定法や倫理思想とは 少し違う。神秘の色を帯びている。  (け) けれどもけっきょく 自然法を相手にするとしても 最後には 経験思考によって判断することになるか それともそれを超えて物自体との――非思考における―― 一体性(つまり 信仰)によるか ふたつに一つとして分かれる。  (こ) 結論:《神を信じなさい――物自体とわれの一如なる境地――》という内容であるにほかならない。  どうなのでしょう。ほかに解釈の余地はありますか? ご教授ください。

  • 相対音感の訓練

    私の音感は、ピアノの単音がわかるくらいです。 ピアノ以外の音は全然駄目で、歌を耳コピなどするときはものすごい時間がかかります。 順次進行かそれに近い部分なら1つの音がわかればすぐに他のところもわかるんですが、超越進行となると多くの場合1つ1つピアノの鍵盤で確かめながら音を探していくことになります。 絶対音感どころか相対音感さえありませんが、この状態の人間でも訓練すればどうにかなるものでしょうか。 絶対音感は諦めているのですが、相対音感は訓練次第でつくと聞きます。 すらすらと耳コピができるようになりたいのです。

  • 宗教批判:一般および個別絶対性理論&特殊絶対性仮説

    0. 神は 人間がいかなる座標を設定して捉えようとしても 必ずその座標や場を超えている。ゆえに 神は 想定するというかたちを哲学は採らざるを得ない。 1. 特殊絶対性とは 《われ 神を見たり》と言い張る主観を 傍から否定も肯定も成し得ないというとき その神観としての主観を言っている。 1-1. 独り善がりであっても 特殊に絶対性だと見なすことになる。これは・そしてこれが むしろ 信教・良心の自由に見合っている。 2. 言いかえると 《われ 神の声を聞けり》と言う主観は 主観の外へ出かけるなら意味を成さない。意味を成すとすれば 神を人間の認識しうる概念としてのみ扱った場合に限る。つまり 人間がこしらえたということだ。 2-1. 概念のみの言葉をもって主観の外に出かけたならば――すでに その言葉≒《経験事象に対応する概念》にもとづくことになるからには―― 経験的な思考や想像の産物としての《観念の神》でしかない。 2-2. それは 或る種の信念を形成するかも知れないが 《神》としては 実質的な意味を成さない。成すかどうかが どこまで行っても 人間には決められないのである。⇒[#0] 3. ゆえに 宗教は それがもし神を他人に向けておのが心に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くのならば ただの譫言である。主観の外に出かけているから。 3-1. 特殊絶対性は 外出無用である。つまり 神なる概念の弄びにならざるを得ない。 3-2. 組織宗教に 存在理由は無い。主観のおままごとは せいぜい一個人の内面にとどめなさい。 4. 《絶対》とは 経験事象としてのものごとが有るか無いかの問いを超えており 因果関係からまったく自由である場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。 5. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。   経験事象(相対世界でありこれは経験合理性にて認識する)     可知(認識しうるものごと)       既知(間違いだったと分かることもあるが 知ったとする)       未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)     不可知(未知のうち知り得ないと証明し得たものごと。証明も間       違い得る)   非経験の場(絶対性)     非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ        incomprehensible incomprehensibility ) 6. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――無条件でわが心に受け容れたとき・つまり 信じたとき わが心には《非思考の庭》が成る。 6-1. ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。生きている間のその自覚の動態が 《庭》だ。 【 +α : 霊我】:信じる:非思考の庭:クレド (ヒラメキ/良心) ----------------------------------- 【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト (直観/呵責・恥ぢ)  【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス(直感/ヤマシサ反応) 7. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(マクロコスモス)との一体性として示される。類型として《梵我一如》とよぶとよい。または 《霊霊一如》である。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター);ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵);ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》:霊霊一如    霊:かみ(超自然およびその依り代としての自然)    霊:われ(自然本性 +α )   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   I. タオイズム:道人一如    道:かみ    人:われ 8. したがって これら前項の霊性なる神はそれぞれ人間が 非経験の場・ないし非知なる神を それぞれの言語で名づけたものである。 8-1. 非知なる神は 不可変性において《普遍神》である。 8-2. また それら有神論に対して《無い神》としての無神論も 普遍神についての・互いにまったく差の見出せない同等の説明である。(神は人知を超え 経験世界の有る無しを超えている)。 9. これが 《一般絶対性》である。 10. 《個別絶対性》とは 人間一般ではなく 特定のひとりの人の信仰すなわち 《普遍神とわれとの関係》をめぐって 一般絶対性をさらに説明する視点である。 11. というのは 普遍神を具体的によぶ名前が人によって異なっているだけではなく それぞれの信仰が――対象である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか・どう同じであるかが 人間には分からないからである。 11-1. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。 12. 目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。つまり 一般絶対性のもとに そのように具体性を帯びた姿を採っている。 12-1. 個人ごとの個別絶対性として 一般絶対性ないし普遍神は とうとばれるのだ。つまり――循環論法ながら―― 神とわれとのカカハリとしては 信教・良心の自由のもとにある。ここから あらゆる自己表現の自由が出る。 13. 個別絶対性は 神が普遍神であること および その神とわれとのカカハリとしての信仰が霊霊一如なる普遍的な類型において成ること――つまりは 一般絶対性理論――からみちびかれる。 14. 個別絶対性は さらに具体的な個人にあって《普遍神とわれとの関係》が――生身の人間においてであるゆえ――多様性を持つと見られる。このとき 神の名の違いだけではなく その《関係のさらに具体的なあり方》が おのおの主観の内にあっては 《特殊絶対性》という側面を持つと捉えられる。 14-1. [12-1]に見たごとく 信教・良心の自由にもとづき その信仰なる動態についてさらになお自己表現するときの《表現の自由》ということになる。 14-2. 誰かが おれは現人神だと言ってもその表現までは だれも 否定も肯定も出来ない。 14-3. 特殊絶対性はそれぞれ神観なる主観として――内面にて〔のみ〕――持たれ得る。〔ダ・カーポ〕。          15. 信仰から得られたヒラメキないし観想を――その己れの神観としての自己表現からさらに外に出て――倫理規範として整序し・また宇宙観や世界観にまで展開したのが 宗教のオシヘである。 16. けれども ひとりの主観が内面においていだいた特殊絶対性としての神観から飛び出して来たオシヘというのは すでに人間の言葉で考え表現した《経験思想》である。 16-1. 神という言葉をまじえながらも 基本として人知なる思想なのだ。信じるではなく 考えるものと成ったことを意味する。 16-2. 一般にオシヘは 普遍神という正解をみちびくためにと人間が人間の言語を用いて引いた補助線である。どこまでも 指の先に指し示された正解にみちびかれるための補助線であり その《ゆび》である。 16-3. この《ゆび》を信じなさいと説くのが 宗教である。(オシへだけなら 中立)。 16-4. 人びとも 仏《教》を信じるとか・キリスト《教》を信じないとかという表現で捉えてしまって 平然としている。これは 哲学から見れば 無意味である。世界各地で起きている長い歴史を持つ集団痴呆現象なり。 17. オシヘは 相対的な経験思想であり 思考の緑野の中に完全におさまる。飽くまで《考える》ものである。《信じる》とは げんみつに言って何の関係もない。痴呆――思考停止――とよぶ所以である。 18. 重ねて言おう。神とわれとのタテの関係である神観としての主観(つまり 特殊絶対性)を われわれなるヨコの人間関係の世界に持って来てその倫理(つまり 善し悪しを意識した人間関係)や宇宙観として 自己増殖させたものが シュウキョウである。 18-1. 主観の外に出るとは 神とのタテの関係を 人間どうしのヨコの関係に移して 寝かすことである。 18-2. この寝技は 神論(一般および個別絶対性理論)としてアウトである。 18-3. このようなシュウキョウは 絶対性を知らない者の道楽かまたはただの商売である。  ☆ 添削をどうぞ。

  • 一般および個別絶対性理論 ならびに特殊絶対性仮説

     一般および個別絶対性理論 ならびに特殊絶対性仮説または宗教の絶対的批判  1. 特殊絶対性とは 《われ 神を見たり》なる主観を外から否定も肯定も成し得ないというときその神観としての主観を言う。〔(5)に見るごとく 神は 非知ゆえである〕。  2. 言いかえると 《われ 神の声を聞けり》なる主観は 外へ出かけるなら意味を成さない。意味を成すとすれば 神を人間の認識しうる概念としてのみ扱った場合に限る。  3. ゆえに 宗教は それがもし神を他人に向けて心に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くのならば ただの譫言である。または 神なる概念の弄びである。宗教は 存在理由が無い。  4. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超え因果関係から自由な場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。  5. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。   経験事象     可知       既知(間違いだったと分かることもあるが知ったとする)       未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)     不可知(未知でしかも知り得ないと証明し得たものごと)   非経験の場     非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  6. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。   【 α : 霊我】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ・良心   -------------------------   【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト    【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス  7. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)との一体性として示される。類型として梵我一如とよぶとよい。または 霊霊一如である。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(超自然およびその依り代としての自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  8. したがって 非経験の場 ないし 非知なる神は そのまま普遍神である。名が違うのみである。また それら有神論に対して 《無い神》と名づける無神論も いづれも普遍神についての互いに同等の説明である。  ――これが 一般絶対性である。  9. 個別絶対性とは ひとりの人の信仰 すなわち 《普遍神とわれとの関係》をめぐっての説明となる。  10. というのは 普遍神をよぶ名前が異なっているだけではなく 個人ごとの信仰が――〔非〕対象である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか どう同じであるかが 人間には分からないからである。  11. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。また それとして とうとばれる。  12. 個別絶対性は 神が普遍神であること および その神とわれとのカカハリとしての信仰が霊霊一如なる普遍的な類型において成ること――つまりは 一般絶対性理論――からみちびかれる。  13. 個別絶対性は さらに具体的な個人にあって《普遍神とわれとの関係》が――生身の人間にとってゆえ――多様性を持つと見られるとき 特殊絶対性として捉えられる。  14. ちなみに 信仰から得られた観想を 倫理規範としまた世界観としたのは 宗教のオシヘである。オシヘは すでに思想である。  15. ところが もし宗教がこのオシヘをかかげ 無条件に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くなら いまの絶対性理論の外にある。オシヘは 思考の緑野の中におさまり 《考える》ものである。《信じる》とは 何の関係もない。神論としてアウトである。  ☆ ご見解をどうぞ。  

  • 人間関係の平等と遠近(親疎)

    人間関係で平等と遠近(親疎)ってあると思います。 例えば、上司であれば部課を平等に扱うほうが理想ですし、ある人は優遇されてある人は逆でというのは政治の世界含めて理想とはいえないわけですね。 でもそれだけでは、遠近(親疎)が生まれず、家族、親友や恋人などとさっき知り合った人と同じであればおかしいことになるかと思います。 どちらかいえば、ハートの世界で、心を開いているとかかもしれないですね。 「5-15-50-150-500の法則」もありますね。親友がたくさんとかも変な話かと思います。 一夫一妻の鳥のほうが頭も大きいとも言われます。 この平等と遠近(親疎)ってどの場面で用いるべきなのでしょう? 成果の配分と悩みなどの共有、利害への意識は違うなどぐらいは思いつくのですけど。

  • 【Photoshop】余白の透明部分も含めてコピペしたい

    PhotoshopCS2(Win-XP)使用者です。 背景が透明な場合、カンバスを全範囲指定してコピーしても、実際にコピーされるのは透明でない部分を必要最小限で囲った長方形部分のみです。カンバスに対する相対的位置情報も持って行きたい場合、自動的にコピー範囲が変わってしまうのは困りものです。 何かいい方法はないものでしょうか…? よろしくお願いいたします。