言葉・貨幣・法律は量子論的世界像の外にある?

このQ&Aのポイント
  • 言葉・貨幣・法律は経済生活において役立ち、経済的な価値を表現する手段として使用されている。
  • 言葉や貨幣は人間の存在そのものに量子性が潜在していると考えられるが、言語自体には量子性との関係はないようだ。
  • 経済生活において貨幣は共生性を持つ社会的な仕組みであり、言語は共生性全体のための社会装置である。法律は言語交通を円滑に進めるための基礎となる仕組みである。量子性は社会における共生性の内容として顕在する可能性がある。
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言葉・貨幣・法律は 量子論的世界像の外にある?

 【Q:量子相互作用は 言葉・貨幣・法律にまで及ぶか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8913071.html  という質問を承けた問いです。    言葉・貨幣・法律は 量子論的世界像の中にはない。はみ出している。のか? という問いです。  1. おカネは ひとが社会的に縁起共生して生活しているときそこで意志疎通をおこなうにあたって 経済生活において役に立ちます。次に述べるように その価値測定の手段としてです。  2. その大きく広く捉えたコミュニケーションにおけるその手段の一つとして つぎに問いたいと思う《ことば》が 基本的に重要なものとしてあるところにおいて 特に経済的な価値を表わすために考案されたその測定の基準と言いますか単位と言いますかであると考えられます。  3. つまりは おカネにおいて 人びとは言葉によるマジハリの中で 生活上の交易のためのモノなどについては すなわち経済的な価値を取り決め この貨幣の示す価値によって 互いに民主的で自由な等価交換を実現しようとしている。  4. この測定単位であることは――大きな視点に立てば ひとつの仮象でありましょうが それでも――有益な社会装置であるのではないか?  5. そこまでは マクロの通常の世界におけるひとつの現実だと見るのですが そのとき《量子性は 潜在している》とまづ最初には 受け取っていたわけです。どうも そうではないようにも思われて来ました。つまりは 言葉や貨幣の世界には 量子性はそもそも潜在も顕在も関係ないというように考えられて来ます。  6. 重ねて考えるに 《ことば》は どうでしょう?  7. というのは おそらく人間がコトバを話し意志疎通をおこなうというその行為は そこにも――人間存在そのものがそうであるのと同じように―― そこに量子性が潜在していると見ても それほど違和感がないと思ったわけでした。ですが それでもこのコトバ自体には 量子性との関係はないようだ。・・・   8. おそらく貨幣とともにコトバも 人間がおのづからのようにしてでも持つに到ったものであり 一方で単純に人間が作ったものだと見るのなら やはり人間という存在(身体)に潜在する量子性にまでさかのぼれるかと思われました。そして 他方で あたかも社会的な共生性という自然本性の中から たとえば曲がりなりにでも近親婚を禁忌とするような交通の取り決めをじんるいは普遍的に持ったわけですが それと同じように 自然に表出して来たものを 音声の仕組みなるかたちにおいて言語として持つに到った。――こう見るとき どう扱うか? という見方を問うていたのでしたが。  9. 経済生活の上でという前提がありますが 貨幣は 民主的で自由な等価交換のための――つまりは その意味で《共生性》なる自然本性が機能していると見られるような――社会的な仕組みである。また 言語は その貨幣のハタラキをも大きくつつむような・やはり共生性全体のための社会装置である。法律は これら言語交通を滞りなくすすめるための基礎としての仕組みであり またその基礎を維持するための補助装置のような取り決めだと考えられます。  11. 量子性は そういう社会における人びとのマジハリとしての共生性を内容として持つか? 持つなら マクロの世界において それは潜在性としてではなく すでにほとんど顕在するかたちで つながっている。もし持たないなら 量子性は 潜在もしていないと見られるのかも知れない。  言葉・貨幣・法律は 量子論的世界像の中にはない。はみ出している。のか?

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回答No.20

 こんばんは  すみません。舌足らずでした。別段難しくしたつもりはございませんでした。  シュレディンガーの猫も、思考実験に限らず、現実の世界にも適応が可能のようです。 ”発表された論文の抄録 (abstract)は、次のような文章で結ばれている。 「この思考実験は元来、量子力学をマクロな物体に応用することの馬鹿馬鹿しさを伝えるよう意図されたものだが、今回の実験や関連した研究などからは、(シュレーディンガーの猫状態は)あらゆるスケールで当てはまるものであるという可能性が示唆される」” 引用: マクロな「シュレーディンガーの猫状態」生成に向けた重大な一歩 - カナダ研究 http://blog.livedoor.jp/dogon23/archives/29824751.html > 量子の世界がマクロの世界にかかわる場合が あるかも知れないが それは 限られた場合である。  あとは 一たん切れている。つまりミクロの世界が マクロの世界に直接にはたらきを及ぼす場合は 限られている。  ただこのように言う場合にも この《一たん切れている》というのは 量子の世界が マクロの世界の基礎になっているということに変わりはない。――と見るのがよい。  はい。その通りかと考えております。 > 人間が 身と心とから成り 身が モノで出来ているからには 量子の世界がその基礎となっていると見ざるを得ないのだと。  マクロの場合ですと、ミクロでの量子論的事象(量子の”ゆるぎ”などの現象です)が無視できるようになる、と思っています(ミクロの世界では量子的ゆらぎは大。一方、マクロでは限りなく小のような関係です)。  なお、相対論と量子論を統一を試みる量子重力理論なるものがあるそうですが、まだまだのようです。  すみません。お役に立てず・・・  どうもお粗末さまでした。

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ シュレディンガーの猫も、思考実験に限らず、現実の世界にも適応が可能のようです。  ☆ ええ。電気製品 いや 電子製品に応用されているとか。    ★  マクロの場合ですと、ミクロでの量子論的事象(量子の”ゆるぎ”などの現象です)が無視できるようになる、と思っています(ミクロの世界では量子的ゆらぎは大。一方、マクロでは限りなく小のような関係です)。  ☆ ああ ええ。《限りなく小》ということは げんみつに言えば《切れていない》となりましょうか。  ★ なお、相対論と量子論を統一を試みる量子重力理論なるものがあるそうですが、まだまだのようです。  ☆ 研究がすすむとよいと思います。  ▲ 戸本誠:「ヒッグス粒子の見つけ方」  https://aichi-science.jp/1790    去年の秋 この講演に行きました。この人は 名古屋大学准教授で じっさいにフランスの CERN で実験に参加した人です。  図示した実証も見せてもらいましたが いかんせん 理解力がまだまだです。少しづつでも前へ進みたいと思います。  ありがとうございました。

bragelonne
質問者

補足

 ▽ マクロな「シュレーディンガーの猫状態」生成に向けた重大な一歩 - カナダ研究  http://blog.livedoor.jp/dogon23/archives/29824751.html  ☆ なる情報をおそわりました。  これは じっさいにミクロがマクロに現われているかを探る実験の報告しているようですね。

その他の回答 (19)

回答No.9

> キリスト・イエスの神を人びとがもしたたえたとしたら そのことが わが誉れなり。 ああそうかい。 しんみりしてしまうな。 やつは確かに殺されることに意義がある死に方をした。

bragelonne
質問者

お礼

 いや 人間イエスは もうどうでもよい。  神も どうでもよいと言えば そうだ。  自分の誉れはどこにあると訊かれたので キリストを出したまで。  それに 神は すべて同じひとつです。  ご回答をありがとう。

回答No.8

ブログ読んだよ。 既に去って行った死んだ猫の亡霊とあんたとの対話を見る限り、理解しようとつとめることが、愛することになっていない。 理解しようとする事が疑念で愛を殺すことになっている。 あの博愛主義的対話のどこが理解しやすい問題提起なのか? なにやらジジイと猫は、暗闇で暗号のやり取りの様な対話をしているけどね。

bragelonne
質問者

お礼

 まあ 量子の世界は ややこしいらしい。  どうも しかしながら 一方ですでに決まった見方を打ち出しており 他方では ややこしくて定まらないということを《無に還元する》と言っている。やはりこれも 決めつけている。ということらしい。  そのように言っていることが ただし 検証しがたいことであるので 必ずしもそのように決めつけたとしても マチガイだと言われることにもならない。そこを隠れ蓑としてのように 言いっ放しつづけているのだと思われる。  かな。

回答No.7

はた玩具店必勝の法則に、敵を知ることは、敵を愛することだと言う私の格言がある。 金にならないのに一生懸命なあんたは、なにに自らの誉れを見いだすのか。

bragelonne
質問者

お礼

 いちばん物議をかもす答え方をすれば:   キリスト・イエスの神を人びとがもしたたえたとしたら そのことが わが誉れなり。  と。  ご回答をありがとう。

回答No.6

一つ言っておく。 読み飛ばした質問主文の中で、これだけは俺様にブチまかしておきたいと言う挑戦があれば、受取ろう。 あんた苦労人だね。 いじめを楽しむ様子が無いよ。

bragelonne
質問者

お礼

 次のところで 議論がなされています。  わたしのブログですが:  http://d.hatena.ne.jp/bragelone/20150212  参考にどうぞ。

回答No.5

くだらないから、質問主文読み飛ばしたよ。 タイトルしか見てない。 あのアホとのバトルゆえなんだろ。 世界には秩序があり規則ただしくても、生きる者には意思があり、その秩序に働きかけることができる。 これに不平不満があるのがやつらだろうさ。 秩序の尊重。 意思の否定。 生きる自覚の喪失。 気の毒な病気だ。 私なりに思い起こせば、アマテラスの善しだからこそ、私はそれに誓える。 生きる意思は他者をも生かすことだ。 そんな意思行為を否定するとああいう標本が出来るのだろうな。 面白い実験材料だよ。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ありがとう。  バトルというより と言いますか バトルとして敵がいるときには その敵について詳しく知ることがまづ先に来ます。だいたい知って来たときに さしかかっていたところです。  そして批判は 徹底的にやるものと思っています。  だいたい勝負がついたように思う。相手は オウンゴールで勝負に負けたように思う。  このあとは 局面が変わって そのマチガイをしっかりヤツにおしえてやるかどうかに移ると思う。  情けをかけるかどうか。という問題に移ったという意味になると思う。

  • kohichiro
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回答No.4

わたくしこと今度はブラジュロンヌ様のご質問の趣旨が難解すぎて分からないままのエントリーなのですが、私の量子論の解釈としては、微粒子以下の原子の世界がニュートン世界とは条件が異なりすぎて、其処の住民はわれわれの常識とは違った振る舞いをしている(せざるを得ない、あるいは人間が確認できないからええ加減になったという一面もありそうですが)、それを理論化してつじつまをあわせようとしたということなんだろうと思うのですが、違っていますでしょうか。 ですから視認が可能なニュウトン世界とその量子論の世界との境界は当然あるでしょう。いや、私見に寄れば、ニュートン世界よりも量子論の世界の方が普遍的なのだろうとも思えます。いはば相対性理論がニュートン理論を包括したようなものでしょう。少なくとも原子核や電子はあまねく世界全体すみづみにまで満ちているわけですし。 それで、貨幣と言葉、法律の量子的見解ですが、量子論がおそらく130億年の宇宙の歴史開闢の真理解明にに何らかのヒントを与えるだろうとほーキンスさんも仰っておられたのに比べ、前者3件は単なる人類史100万年以遠には存在もしていませんでしたし、貨幣法律に到ってはたかだかここ1万年のことでしょう。少なくともこれらは私見に寄れば裸の猿同士のローカルな、間に合わせ的な約束事の集積に過ぎません。もちろん、たまたま量子性がそれに潜在していたとしてそれがどうなのでしょう、それは単なる偶然でしかないのではありますまいか。それによって何らかの驚くべき事実が明らかになるだろうとでも仰りたいのでしょうか。補足ねがいます。 ブラジュロン教授のご趣旨を推定し間違ったのなら申し訳ありません。スルーしてください。

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。  むつかしいも何もわたしはよくは分かっていません。  ★ 私の量子論の解釈としては、微粒子以下の原子の世界がニュートン世界とは条件が異なりすぎて、其処の住民はわれわれの常識とは違った振る舞いをしている(せざるを得ない、あるいは人間が確認できないからええ加減になったという一面もありそうですが)、それを理論化してつじつまをあわせようとしたということなんだろうと思うのですが、違っていますでしょうか。  ☆ わたしの理解するところでは 量子の世界とニュートン世界とは 一たん切れている。つまりそのつながりがよくは分からないほどである。けれども 基礎としては つながりがないということはあり得ない。  ということであろうと思うのですが おっしゃるところは これも質問者としての理解の範囲に過ぎませんが そのつながりがどうなっているかについて人びとは それぞれ理論づけようとしている。そしてそのいとなみは 妥当であるかどうか?  見解1: 基礎としてつながりがあると見られる。ただし そのことの実証がそれほどたやすいものではない。  見解2: つながりがある部分とない部分とに分かれると見る場合。つながりのあるニュートン世界のものごとはすべて 無に還元する〔ことができる〕。  見解3: つながりのない部分については 単なる虚妄であると見る場合。  いえ。分かりませんが このように書いてみました。  たぶん 見解1が 一般的なのではないかと推し測られます。それは取りも直さず:  ★ いや、私見に寄れば、ニュートン世界よりも量子論の世界の方が普遍的なのだろうとも思えます。  ☆ という内容であると考えられます。  そのあとには さらに突っ込んだご意見が述べられていますね。:  ★ 少なくともこれら(* 言葉・貨幣・法律)は私見に寄れば裸の猿同士のローカルな、間に合わせ的な約束事の集積に過ぎません。もちろん、たまたま量子性がそれに潜在していたとしてそれがどうなのでしょう、それは単なる偶然でしかないのではありますまいか。  ☆ いや ちょっとまた分からなくなって来ました。  見解4: 量子世界とニュートン世界とがけっきょくのところでは つながっていると言うとき それは《量子性が マクロの世界に対して潜在している》というふうに表現してよいのか?  見解5: あるいはつまり 量子性とそして言葉や貨幣や法律とは 直接にはつながっていない。  見解5-1: 言葉は いちばんモノとのつながりがあるように見られる。ヒトの脳細胞とかかわるから。それでもその神経細胞のいとなむ機能とそして概念ないし観念としての言葉とは やはりあたかも別物である。同じような細胞を使っても 別の考えを人それぞれにみちびき出すから。  見解5-2: だとすると 観念としての言葉は もはや量子性とは何のつながりもないように 現象している。貨幣や法律は 言葉以上に 量子性とは切れていると見える。  見解6: だから 言葉・貨幣・法律は 量子世界とは別の世界だと見るのか? そうではないと見るのか?  いやぁ。分からなくなってまいりました。  この質問では わたしが司会以上の役目を果たすことはむつかしいです。

noname#215107
noname#215107
回答No.3

恐らくこういうことだろうと思います。 例えて言うなら「大規模なアプリケーションソフトを高級言語を使わずにアセンブラで開発できるか。」という問いに近いようなことではないでしょうか。 違う例を挙げると、「今使っているパソコンや携帯端末を、一からディスクリート部品のみで組み立てられるか」など。 答えはYesですが、ほとんどのエンジニアはNoと言うでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ううーむと言いましょうか ふむふむ なるほどと言いましょうか。  まづは ご回答をありがとうございます。  つまりわたしに分かりやすい解釈としては とにもかくにもマクロの世界は ミクロの世界から一たんはっきりきちんと切れている。つながりが分からないほど 切れたかたちを取る。  ただし いかなるマクロのものごとであっても ミクロの世界がその基礎となっていることに変わりない。  つまりは 《切れたかたちで けっきょくにおいては つながっている》。でしょうか。  たぶん そういうことですよね。    その連結する場としては 身と心とから成るヒトだということでしょうか。  ありがとうございました。

  • ok9608
  • ベストアンサー率38% (50/129)
回答No.2

No1です  私は記憶細胞研究などの専門家ではありません。たんに科学とか哲学に興味をもつ ただのおっさんです。 少し追加説明をさせて下さい。 『ちょっと ふと思ったことは 《言葉がいかに――神経細胞等において――機能しているか》についての科学的認識と 《言葉をどう使ってひとは互いに意志疎通をおこなっているか》の問題とは 微妙に違うと思うのですが どうですか? 後者は 哲学の問題ですね。』とご指摘がありました。それに対しては 神経細胞と言葉の関係は いろんな切り口があるとおもいますが 一つは言葉の記憶メカ二ズムの解明でしょう。特定領域の記憶細胞が分子構造レベルの変化(まだ明確には分かってはいない)をしたとき  記憶とされると思われます。単語は 複数細胞が絡まっていると思われますが そのルールはまだ分かっていないと思います。分子構造の変化は構成要素の原子であり電子の配列の変化であり 厳密には 電子レベルの説明は量子力学を用いないとできないでしょう。他方 コミニュケーションにおける言葉の問題は 言葉がお互いに記憶されているということが 一つの基礎にっており それ以上の記憶問題を 普通は掘り下げる必要はないと思います。 コミニュケーションをもとに哲学を論ずる場合は 電子配列を決める量子力学は必要ないと思います。  『 ということは ミクロとマクロとは 一たん切れたような状態になっているが 基本的に《地続き》だと見るのですか』とご指摘がありました。それに対しては 科学では厳密にいうと地続きとみるべきでしょう。しかし 限定された科学とか 哲学では ミクロが解明されていなくても十分にマクロだけで理解されることはあると思います。 解明者がどのレベルで納得しうるかによると思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ok9608 さん ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  他方 コミニュケーションにおける言葉の問題は 言葉がお互いに記憶されているということが 一つの基礎にっており それ以上の記憶問題を 普通は掘り下げる必要はないと思います。 コミニュケーションをもとに哲学を論ずる場合は 電子配列を決める量子力学は必要ないと思います。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なるほど。そしてつまり 何かひとつの同じ問いに対してその答えは ひとによりいろいろですよね。これは 電子配列の基礎作業があるその上で 別の世界としてのように 思考や意志表示やそれらの互いのあいだの伝達が成り立つのだということですね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   『 ・・・ミクロとマクロとは 一たん切れたような状態になっているが 基本的に《地続き》だと見るのですか』とご指摘がありました。それに対しては  科学では厳密にいうと地続きとみるべきでしょう。しかし 限定された科学とか 哲学では ミクロが解明されていなくても十分にマクロだけで理解されることはあると思います。  解明者がどのレベルで納得しうるかによると思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうでしたか。だとすると 言葉・貨幣・法律も ヒトの身体をつうじて《地続き》であることに変わりはない。のですね。  つまり お嫌でしょうけれど 前身の質問では次のような見解がしめされたわけです。:  ◆ (前身の質問への回答No.1) ~~~~~~~~~~~~~~   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8913071.html  階層現象性を表面的に=いい加減に捉える事で、有限な  存在性(お金や言葉)は生じているという事だから、  「量子相互作用は 言葉・貨幣・法律にまで及ぶか?」と  いう問いへの答えは、否であろう。  根のない果実(虚実?)に、大地の栄養は届かない。  量子性を環境に適応する物理とは、そうした虚妄を無に  還元するもの以上ではあり得ない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち  ★ 解明者がどのレベルで納得しうるかによると思います。  ☆ というかたちの違いはあっても 基本的にミクロの世界は 基礎となっているのだと。  《マクロだけで理解される》としても それはミクロの世界からすっかり離れてしまって 宙に浮いているといったことではあり得ないのだと。  なんだかクダラナイことを問うてしまいましたね。  ありがとうございます。さらに修正やら補足やらがありましたら よろしくお願いします。

  • ok9608
  • ベストアンサー率38% (50/129)
回答No.1

Bragelonneさん今日は。 量子論的世界像がよく分かりませんが P氏の不確定性原理から言葉だけを引用した 理解不能の出鱈目な文章の羅列のことなら はじめから 真面目に議論することは無意味と 思います。 真面目に議論するとして 量子力学と言葉との交わりをとりあげたらどうでしょうか。 量子力学は科学の一分野です。 ミクロの分野の粒子と波動の両面が現れる領域では基礎理論と思います。言葉は 脳内の 関連機能をとりあげても量子力学の手を借りないと説明できないことはないと思います。おそらくは 分子レベルの運動までで十分と思います。さらに厳密性が要求される場面では量子力学は必要 かもしれませんが。 それでは 言葉と量子力学を含む統一学問は なぜ出来ないのでしょうか。現在では必要とされて ない ということと思います。あるいは 統一学問にむかって発展途上にあるのかもしれません。 論理により説明する場合 ゲーデルの不完全性定理は有効な道具と思います。

bragelonne
質問者

お礼

 お久しぶりです。こんばんは。ご回答をありがとうございます。  何とかすっきりさせられないか。この一心です。  ★ 量子力学と言葉との交わりをとりあげたらどうでしょうか。  ☆ へええ。出来るんですか? 残念ながら その素養はないので問いが出て来難いところです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・言葉は 脳内の  関連機能をとりあげても量子力学の手を借りないと説明できないことはないと思います。おそらくは  分子レベルの運動までで十分と思います。さらに厳密性が要求される場面では量子力学は必要  かもしれませんが。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ううーん。微妙ですね。  ★ さらに厳密性が要求される場面では量子力学は必要かもしれませんが。  ☆ ということは ミクロとマクロとは 一たん切れたような状態になっているが 基本的に《地続き》だと見るのですか?  ちょっと ふと思ったことは 《言葉がいかに――神経細胞等において――機能しているか》についての科学的認識と 《言葉をどう使ってひとは互いに意志疎通をおこなっているか》の問題とは 微妙に違うと思うのですが どうですか? 後者は 哲学の問題ですね。  ★ それでは 言葉と量子力学を含む統一学問は なぜ出来ないのでしょうか。  ☆ ということです まさに。  ★ 現在では必要とされてない ということと思います。  ☆ ということになるのですか。  ★ あるいは 統一学問にむかって発展途上にあるのかもしれません。論理により説明する場合 ゲーデルの不完全性定理は有効な道具と思います。  ☆ ううーん。わたしの自然科学知識を買い被り過ぎです。  ちょっと 収拾がつかなくなってきました。ゆだねてもよろしいでしょうか。

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    どうしてお金には価値があるんですか。 物価とか、安価な労働力とか、お金の価値が下がったとか、お金の信用がなくなったとか、物々交換は単純で意味は解りますけど、貨幣経済になってから全くちんぷんかんぷんです。そもそも、現行の貨幣経済なんて人間が勝手に価値を決めてるだけの、「ゲーム」に過ぎませんか?

  • 量子論に《本質・絶対・無》といった概念はなじむか?

     または 量子論は ふつうの存在論を形成しうるか?  つぎにかかげる質疑応答をそのまま問いとします。  質問として成立すると思うのですが 対話の行方をめぐって第三者の視点をほどこし結論へとみちびいていただきたい。というのが 趣旨です。  主題は デカルトのコギトをめぐってですが 《思考(ないし認識)と存在》といったかたちになるかと思います。  ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~  量子論的に有限的存在性は、観察される事で派生する。  不確定性原理からして、本質的に確定しない事で、  絶対化による無限不確定への発散を回避し、現象表面  (仮想)的に有限的存在性を生じる。  観察者を排除した外的に独立した存在性は在り得ない。  本質的に無であるとは分からない(あやまつ)事が  有なのだ。  無(不確定性無限)の潜在としての認識可能性を含む、  現象表面的な仮説(=自我仮説(記憶(過去)=時間の流れ)  と空間仮説(予測(未来)=空間の広がり)の相補分化)  『何かあるかも知れない』という疑問(われ思う)として  の時空的広がりに対する、『本当は無いんだけどね』とい  う無の射影(四次元ミンコフスキー空間における相殺面)  としての量子(感受表面~超弦)。  ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~  ご回答をありがとうございます。  ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  量子論的に有限的存在性は、観察される事で派生する。  不確定性原理からして、本質的に確定しない事で、  絶対化による無限不確定への発散を回避し、現象表面  (仮想)的に有限的存在性を生じる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆(1) 《量子論的に》と《本質的に》というふたつの概念は 両立しますか?  (2) また同じく 《絶対化》とは何か? おそらくこの概念も 上記の《量子論》と両立しがたいのでは?  (3) 《有限的存在性》は すでにヒトとしてわたしがわたしであるとさとったわたしが その或る種の生物であることの存在をそのまま言い当てた言葉です。何が言いたいかと言えば そのような《わたし――人間――存在》といった自己到来の地点が 出発点に成る。ということです。そのあと 量子論といった世界認識にもおよぶ。こういう順序ではないのですか?  (4) ですからたとえば:  ◆ 現象表面(仮想)的に有限的存在性を生じる。  ☆ と認識するのは 何ですか? 誰がですか?   (5) その認識の主体(つまりその科学行為)は どこから発生(または派生?)したのですか? 量子の世界より先ですか 後ですか? または 同時ですか?  (6) 《不確定性原理》は 言わばこの・いま見て来ている《わたしなる存在》の中におさまっているもの(こと)ではないのですか?  (7) さらに畳み掛けるようにですが:  ◆ 量子論的に有限的存在性は、観察される事で派生する。  ☆ と認識するのは 誰ですか? あるいは そう言うよりは そもそもその《観察》という行為をおこなうのは 誰ですか? この観察の主体が 《本質や不確定性原理や》よりも先行しているのではないですか? つまり《わたし》です。  ◆ 観察者を排除した外的に独立した存在性は在り得ない。  ☆ (8) なるほど。《わたし》を観察者として立てていることは 分かりました。けれども だからと言って その《観察行為をおこなうわたし》の内と外ってどう規定するのですか?   (9) 先ほどは わたしの内に原理がおさまるというようなことを言いました(6)が それはその原理が外には及ばないとは言っていないのですし また内におさまるというのは わたしより先にそして別のものとして原理が運動しているとは見ないほうがよいと言うためでした。  ◆ 本質的に無であるとは分からない(あやまつ)事が有なのだ。  ☆ (10) これは 分かるようで分からない命題ですね。  それは まづ《本質的に》と言うのが 何を言っているのか定まりません。  (11) 《本質的に無である》 これも定まりません。  (12) おそらく もし先ほどからの《わたしなる存在》について言えば それは――生身のからだで生きるのは 限りある時間であり 心(精神)までも移ろいゆくものだと分かっているのですが そのものの源泉であるかのような《生命》を取り出すなら(類は或る意味で永続していますから) この生命は―― 《有であるか無であるかが分からない。分かるか分からないかが 人間には分からない》といった内容を言っているかに思えます。――これとの対比では どういうことが言えるか? ぜひお聞きしたい。  ◆ 『本当は無いんだけどね』という無の射影(四次元ミンコフスキー空間における相殺面)としての量子(感受表面~超弦)。  ☆(13) これは推測ですよね? 《射影》がです。  (14) もしそうではなく経験事象として確定しているのなら それはその《無》が どういう内容のものかをさらに説明しなければならないでしょう。《無》と言っているけれど それは経験事象であるとも言ったことになっています。そのことを説明しなければ話は始まりません。  (15) もしこの《無》も 《無であるかどうか分からない。分かるか分からないかが 人間には分からない》というのであれば それは 経験事象ではありません。《非知》です。――というように議論をはこぶのが ふつうの経験合理性だと考えられます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • どうしてお金を稼ぐより、 使う方が簡単なのか?

    どうしてお金を稼ぐより、 使う方が簡単なのか? 世の中、お金ですよね。 (それとも、貨幣至上主義社会?貨幣特権経済主義?っていうんですか?) お金を媒介として、商品やそれに準じたものや行為などが交換すれる社会です。 お金を使っていろんなものを交換する以上、経済行為を行ったあとに 必ず格差が生じます。お金持ちな人、貧乏な人、といったように分かれます。 だけど、今のような時代にそんなことをするのは人間味がないというか、 なんか面白くないものがあります。  貧乏人がお金持ちのお金の価値を保証しているんですね。

  • 経済学と、政府の怠慢行為について?

    『 真に価値ある政体はただひとつ、人道的人類主義にのっとった天才政治のみである。資本主義は間違っている。それは人間を金の奴隷と化し、他人を犠牲にしてまで優位に立とうとさせる。共産主義も同様に間違っている。自由よりも平等が重要視されているからである。人間は生まれたときは平等に扱われなければならないが、その後はそうではない。だれしもが人間らしい生活を送る権利をもっているのならば、社会のために何もしない者よりも、同胞のために他人よりもずっと多く働く者のほうが、多くの恩恵を受けることになるのは当然のことである。これは、人類が、通貨を完全に廃止し、自己の開花のみに専心できるよう、すべての仕事をロボットにまかせられるようになるまでの暫定的な規則である。だが、一方で飢えに苦しむ人たちがいるにもかかわらず、他方では値崩れを防ぐために食糧を投棄するなどは恥ずべきことである。食糧を投棄するくらいなら、何も食べる物のない人たちに分けてやればよいのである。  労働も神聖なものと考えてはならない。人は皆、たとえまったく働かなくても十分な食物を得る権利がある。だれもが自分が気に入った分野で自己の開花に努力すればよいのだ。人間が団結すれば、必要な仕事のすべてを機械化し自動化するのに、そう長くはかからないだろう。そうなれば人々は、自由に自己の開花に専心することができる。全人類が本気になって事を成せば、数年のうちに人類は労働の義務から解放されるだろう。必要なのは技術的・科学的能力であり、すべての労働者が、物質的制約から人類を解放しようという団結心に燃えて、個人の利益よりも社会全体の幸福のために、一心に働くことを決意することである。核兵器の開発や宇宙船の建造などの馬鹿げた事業や、軍事予算などに浪費されているすべての手段を有効に使用することである。第一、これらのことは、人類が一度物質的制約から解放されてしまえば、より有効に、そしてより簡単に研究されるであろう。  人間の代わりに仕事をしてくれる、コンピュータや電子装置がすでに存在している。これら科学技術が真に人類のために奉仕するように、あらゆる知識を利用しよう。数年で全く違った世界が建設されるだろう。それは、黄金時代の入り口なのだ。  (ラエル著)  』  過去において、は、資本主義の無能その対外戦争赤字(非人道的暴力体制の末の)それによる社会の腐敗混乱と、共産主義の台頭、その間隙を付いたのが、 ナチス・ドイツ(国家社会主義ドイツ労働者党(略称NSDAP) )の台頭とみえますが、 世界の新たな指針は、資本主義の腐敗の矯正と見える? 所見など?  貨幣経済の概要として、  = = = = = 貨幣経済 貨幣経済(かへいけいざい)とは、貨幣によって商品の交換を媒介している経済の一形態。 現在、世界経済のほとんどが大なり小なりこの貨幣経済により成り立っており、経済学による主要な分析対象である。 _ 貨幣経済は、貨幣によって交換を媒介するために、まず貨幣となるような普遍的な商品が必要である。 貨幣経済は、交換や蓄積が効率的なため、経済的繁栄の必要条件となる。特に紙幣が効率性が高い。 不換紙幣を貨幣とする場合は、貨幣の信用が重要となるため、安定した政府などが必要である。 一般に、政府が信用されない場合、紙幣の流通がうまくいかなくなり貨幣経済は衰退する。また、自国の通貨よりも外貨がもてはやされる事態も発生する。 そのため、内戦が頻発する国や、著しく財政規律が乱れた国は、貨幣経済の維持・運用が困難となり、インフレーションの誘発や経済活動の縮小をもたらし、貧困が多発する。 (Wikipedia)  = = = = =  とありますが、 貨幣が商品の交換を媒介しているのは、(わかる^^)。 経済学による主要な分析対象である、 経済学の経済的繁栄の必要条件となる(?)_ 貨幣の信用が重要となるため、安定した政府などが必要である。(? ?) 経済学イコール政府でありそれが信用されない場合、貨幣経済は衰退する。(? ? ?)  経済学が言われ、その経済的繁栄が言われ、付随する政府の繁栄が言われていますが、政府および経済学の私利私欲がやたら見え隠れしてはいないでしょうか? それらは、貨幣がある限り 貨幣王 である。 王ではあるが、所詮、 貨幣王 である。 経済的繁栄、すでに経済学の私利私欲と読めないでしょうか? 安定かつ信用ある政府が、いわれますが、 すべての人々の生命・生活に責任を有する国家政府が、貨幣経済_経済学の私利私欲このようなものを、利用してよいのでしょうか? それに人々の良識ある未来は無いのでは?  ~お金は権力と政府の果実だからです。 ~というのもお金は政府によってあなたに与えられた、単なる毒にすぎないからです~       http://blog.goo.ne.jp/pospipo/e/64625039dd67eae458a4ce3b07a5e2d3  貨幣経済、そのインチキぶりにより、リコール(他の製品欠陥と同様に)リコール回収とかんがえられますが、所見など? 経済学の今までの悪行など ?  = = = = = 所得格差の是正から貨幣の廃止へ  ~ 配給経済  http://okwave.jp/qa/q7061333.html  http://www.paradism.org/index_ja.html  = = = = =  経済学と政府の私利私欲および怠慢が見え隠れしますが、 “ 現在のあらゆる経済および財政体制が世界中で崩壊したとき、今よりひどい壊滅的な経済恐慌によってさらに人々が苦しむことになる ”  世界人類の救済、所見、対応、対策など?

  • 金本位制度の拡大復活について

    バカな意見かもしれませんが、金本位制を金だけでなく、世界中で汎用性があり、ある程度保存の効く、例えば100種類くらいの物質に価値を与えてみたらどうでしょう?金・銀・銅・プラチナ・リン酸・窒素・カリウム・小麦・大豆・トウモロコシ・米・ジャガイモ・水・綿・麻・絹、など『人間の生活に必要不可欠なものトップ100』を決めて、それらが貨幣価値を支える・・・。金だけより、貨幣が多く刷れるので大きな経済規模にも耐えられるのではないだろうか、と思います。でも、これではただの物々交換でしょうか・・・。

  • 経済学では「価値」をどう定義しているのですか?

    経済学でか「価値」をどのように定義していますか? 古典派経済学ではある財やサービスを生産するために投入された労働が価値を決める(労働価値)だとか、マルクス経済学では財やサービスを使用したときに得られる満足感が価値を決める(使用価値)、ある商品の使用価値がその他の商品の使用価値と交換される場合の比率が価値を決める(使用価値)と言っていた気がします。しかしどれも需要サイドや供給サイドからしか議論していない不十分な説明であり、19世紀の終わりに物理学者たちが財やサービスを追加的に1単位消費したときに得られる紅葉、すなわち限界効用という概念を導入して経済学を構築し直したと聞きました。つまり、新古典派経済学では人間が主観的に感じる限界的な効用のことを「価値」と呼んでいるのですか?また需要曲線はこの限界効用理論から導出されており、需要曲線と供給曲線の交点で財やサービスの量と価格が均衡することになっていると思いますが、敷衍するとこの価格のことを「価値」と呼んでいるのですか?(実際、貨幣は価値の尺度であるという言葉があると思います。貨幣は価格を表しているので、価格が価値なのでしょうか?)しかし、現実には貨幣の供給量などによって物価は大きく変わるため、財やサービスの価格もその時の経済状況によって変動します。モノは同じなのに他の条件によって価値が変わってしまうことに違和感があります。加えて、マクロ経済学のでは初期にGDPを付加価値の合計だと定義していますが、ここでいう価値の定義もあやふやだと思っています。 経済学では「価値」をどこでどう定義しているのか教えていただきたいです。

  • 新札に代わった後の影響。

    新札になるみたいですが、具体的に円、ドル、ユーロ、株価、不動産価格、物価、雇用、保険、日本経済、世界経済にどのような影響が考えられるでしょうか。 貨幣価値の切り下げが起こる可能性はあるのでしょうか。 新札にするメリットは誰に、あるのでしょうか。 よろしくお願いいたします。