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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:歴史の if を考える)

歴史のifを考える

noname#204018の回答

noname#204018
noname#204018
回答No.6

1962年のキューバ危機。当時小学生だった私に記憶はありません。後日文献で読んだ知識がすべてなのですが、核戦争というものが現実に起きていたかもしれないという恐ろしさを感じたのは記憶に残っています。 いろいろ調べてみると米ソの核兵器の戦力の差は15倍以上のひらきがあり、いきなり世界滅亡てきな状況にはならなかったにせよ、ヨーロッパを戦場とした第三次世界大戦が起きて1000万人を超える命が失われたであろうと言われています。 フルシチョフがキューバの核ミサイルを撤去し、ケネディはトルコに配備したジュピターミサイルを撤去し戦争の危機は回避されたのですが、若く血気盛んなカストロは米国を核攻撃しろと主張したとされています。 もし、キューバ危機が回避されていなければ、中規模な核戦争がおこっていたということはまちがいないだろうといわれています。キューバ上空を偵察飛行していたアメリカ空軍の偵察機が、ソ連軍の地対空ミサイルで撃墜された。同日、アメリカ海軍は海上封鎖線上で、ソ連の潜水艦に対し、爆雷を海中に投下した。攻撃を受けた潜水艦では核魚雷の発射が決定されそうだったのが、一人の参謀の英断で核魚雷発射は止められ核戦争は回避されたといいます。 60年代、70年代と幼少期、少年・青春時代を生きてきたわが身としては、いつも火薬の上で昼寝させられているような時代を生きてきたきがします。 1989年の冷戦終結をもってやっと寝床の下の爆弾がとりのぞかれた安心感がありました。核戦争の恐怖にくらべたらノストラダムスの大予言だろうがハルマゲドンだろうが 東海・東南海・南海大地震だろうが、さほど怖くはないですよ。 さて、遅ればせながら新年おめでとうございます。 初優勝おめでとうございます。

isoken
質問者

お礼

ex さん、明けましておめでとうございます。 今年も宜しく御願い致します。 >1962年のキューバ危機。当時小学生だった私に記憶はありません。 私としてもまだオシメが取れるか取れないかの時期でした。 依って全ては後付の知識に過ぎませんが、キューバ危機に至った切っ掛けの一つはアメリカ自身が作り出したもの、つまり当時極限にまで右傾化していた国情を背景に、一方的にカストロ政権を敵視した思い上がりが、必要以上にソ連とキューバを接近せしめた、実はそう認識しております。 ところでキューバ危機当時のソ連はスターリン以来の計画経済に於ける躓き ( 特に農業生産面での )に依り、実のところ通常兵力に依る全面戦争に突入出来る環境にはなかった、加えて ex さんが御指摘の通り既にソ連本土に向け ICBM の配備を完了していたアメリカに対し、明らかに軍事的劣勢に立たされたソ連が持つ選択肢は戦術核に依る対抗、つまり合衆国の喉首に刃を突き付ける以外に無かったのも恐らく事実でしょう。 つまり全面戦争及び核行使の方法論が極めて限定的であったソ連という現実がありましたから、彼我の戦力格差は充分に抑止力と成り得・ソ連側の譲歩に依るキューバ危機の回避は歴史の必然であった、私個人としてはそう解釈しておりますが、その種の情報が開示に至ったのは遥か後年でありましたから、ex さんが御持ちになられた危機感は恐らく全世界共有のものであったと思います。 ところで所謂教科書的な意味合いに於ける米ソ・デタントとは、ニクソンとブレジネフ間で合意した軍備管理協定を指すそうですねぇ。 但しそれ以前に米ソが歩み寄った歴史がただ一度だけある、それこそがキューバ危機に於いて丁々発止やり合った当事者である、ケネディとフルシチョフの個人的な信頼関係であったのかな、個人的にはそう考えております。 これは全くの推測ですが、キューバ危機回避に至る過程に於いて、ケネディとフルシチョフとの間には、或る種の友情にも似た連帯感が生まれたのではないでしょうか。 ケネディはソ連全面支援の態勢を整えつつあったやに聞いておりますし、一方のフルシチョフとしても、ブレジネフ・コスイギンといったクレムリンの政敵よりは少なくとも腹を割って話し合える、そういう事であったろうと思います。 ところが当のケネディが暗殺され、その後 1年を出ずしてフルシチョフも失脚するに至った、つまりケネディ暗殺の余波は一アメリカ国内に止まらず、その後のソビエト連邦ひいては共産主義国家群にも多大な影響を与えた訳で、ここにも大きな歴史の if があったのかも知れません。 以上、失礼を恐れず且つ釈迦に説法を百も承知で一気呵成に並べ立てましたが、何卒御容赦を・・。 >初優勝おめでとうございます。 正直我が事のように嬉しいものですねぇ、御回答共々その御言葉ありがたく頂戴致します、ありがとうございました。

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