• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:どんな《神は死んだ》のか?)

神は死んだとは?ニーチェの思想についての要約

playmate1の回答

回答No.9

定義の始まり!? 定義とは何かを知らずに言ってるとしか思えない・・ 人の足は2つ・・動物の足も2つなら定義だが 動物の足は2つの動物も居れば 4つの動物6つの動物 8つの動物・・・等 様々です・・これは定義では無い・・ まっ あなたの元の質問から かけ離れたので これ以上は言うまい じゃ サヨウナラ

bragelonne
質問者

お礼

 神は愛である ではなかったのかい?  ご回答をありがとうございます。

関連するQ&A

  • どんな《神は死んだ》のか?

     どんな《神は死んだ》のか?  主題は ふたつです。  神とは何か?――あるいはつまり 神とは何でないか?  ニーチェのたましいをやすらかな眠りにみちびくことばをかけるとしたら それは何か?  まづ 三島憲一のニーチェ論の一端を引きます。あとで 具体的に問います。  ▲(三島憲一:ニーチェが戦ったもの) ~~~~~  ニーチェが『喜ばしき知識』の中で《神の死》を宣告した話はよく知られている。    寒くなってきてはいないか?    これからはますます夜に 夜が深くなっていくのではないか?    昼前から行燈を灯す必要はないのか?    神を埋葬する墓掘人たちの音がまだなにも聞こえないというのか?    神が腐る臭いがまだしてこないのか?    ――神々といえども腐るのだ。    神は死んだ!    死んでしまい 蘇ることはない!    しかも 我々が殺したのだ!    殺しの中の殺しをしたの我々は いかにして自分たちを慰めたらいいのだろうか?    これまで世界が持っていた最も聖なるもの 最も強いもの その神が我々のナイフによって血を流して死んだのだ。     (『喜ばしき知識』125番)  大方の思想史では このいささかパセティックで安っぽいレトリックに溢れた文章によって ニーチェはプラトニズムとキリスト教がその根拠となっていたヨーロッパの道徳の自己崩壊を確認したということになっている。形而上学の完成と解体が告げられている とされている。  しかし 考えてみれば 変な話である。すでに一八世紀の啓蒙主義以降 知識人は 家庭のつきあいを別にすれば キリスト教の神は信じていなかったはずである。プラトンのイデアとなればなおさらで 大学の哲学科の訓古注釈の営みの外で そんなものを信じている銀行家や工場主や労働者や農民や そしてなによりも将校たちが多数いたとは到底考えられない。なぜ キリスト教の神の死を ニーチェはいまさらのごとく触れ回ったのだろうか。  実際には・・・ニーチェはいわば 自己の議論の正当化のために 当時において標準化されていたヨーロッパの思想の歴史を逆転して 新たに構築しただけであって 実際に闘っていたのは一九世紀の自分の周囲の生活形式(あるいは文化)であり それへの抵抗の中で このようなキャッチフレーズを生み出したのである。  《我々が殺したのだ》ということは 神を生かしておくも 殺しておくもこちら側 つまり我々の思うまま 我々のさじ加減一つということである。すでに神は我々によって構築されていたことが含みとしてある。つまり 神を構築してきた当の我々が葬られるべき存在なのである。ニーチェが闘った相手は 神の語をむやみに重視する一九世紀の生活形式であり 文化なのであった。  ひとことで言えば この生活形式の中核は ナポレオン戦争の終結とともに だがさらには一八四八年革命以降 特に顕著になったヨーロッパの再キリスト教化 そしてそれとタイアップした市民階級の再封建化といわれる現象である。ニーチェはその知的生涯においてそれと闘う中で 彼の《破綻の美学》を生み出したのだ。  ・・・  再キリスト教化自身が ニーチェには神の死を意味していたのである。  (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて』 2011 第五章 破壊的理性の美学――素描の試み   pp.149-151 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~  一九世紀の《再キリスト教化》について三島は きちんと例証していると思います。  そこでそのことに深入りはせずに 全体としてこの三島の議論に 必要な注釈をつけたり あるいはちょっと違うのではないかという批判を加えたり 言うべきことがありましたら まづそれらをおしえてください。  と言っておいて あとは 神とは何か? を問います。  三島も触れていますが 《われわれが構築した神をナイフで殺した》のなら それは《観念の神》であって・あたまの中の想念の中に描かれた思いや考えであって 劣ったものであったり時代遅れになったりしたら ナイフで切り殺されても当たり前です。ただの想像の産物を相手に闘った。またそういうたぐいの文章である。  つまり そんな《ただの観念の構築と抹殺といったお遊び》のことを どうしてその熱情を燃やして闘ったりしたのか? それは どこから見ても《神》ではなかったというのに。  いったいニーチェとは何だったのか?  レクイエムを書いてやってください。

  • 何と言う《神は死んだ》のか?

     主題は ふたつです。  神とは何か?――あるいはつまり 神とは何でないか?  ニーチェのたましいをやすらかな眠りにみちびくことばをかけるとしたら それは何か?  まづ 三島憲一のニーチェ論の一端を引きます。あとで 具体的に問います。  ▲(三島憲一:ニーチェが戦ったもの) ~~~~~  ニーチェが『喜ばしき知識』の中で《神の死》を宣告した話はよく知られている。    寒くなってきてはいないか?    これからはますます夜に 夜が深くなっていくのではないか?    昼前から行燈を灯す必要はないのか?    神を埋葬する墓掘人たちの音がまだなにも聞こえないというのか?    神が腐る臭いがまだしてこないのか?    ――神々といえども腐るのだ。    神は死んだ!    死んでしまい 蘇ることはない!    しかも 我々が殺したのだ!    殺しの中の殺しをした我々は いかにして自分たちを慰めたらいいのだろうか?    これまで世界が持っていた最も聖なるもの 最も強いもの その神が我々のナイフによって血を流して死んだのだ。     (『喜ばしき知識』125番)  大方の思想史では このいささかパセティックで安っぽいレトリックに溢れた文章によって ニーチェはプラトニズムとキリスト教がその根拠となっていたヨーロッパの道徳の自己崩壊を確認したということになっている。形而上学の完成と解体が告げられている とされている。  しかし 考えてみれば 変な話である。すでに一八世紀の啓蒙主義以降 知識人は 家庭のつきあいを別にすれば キリスト教の神は信じていなかったはずである。プラトンのイデアとなればなおさらで 大学の哲学科の訓古注釈の営みの外で そんなものを信じている銀行家や工場主や労働者や農民や そしてなによりも将校たちが多数いたとは到底考えられない。なぜ キリスト教の神の死を ニーチェはいまさらのごとく触れ回ったのだろうか。  実際には・・・ニーチェはいわば 自己の議論の正当化のために 当時において標準化されていたヨーロッパの思想の歴史を逆転して 新たに構築しただけであって 実際に闘っていたのは一九世紀の自分の周囲の生活形式(あるいは文化)であり それへの抵抗の中で このようなキャッチフレーズを生み出したのである。  《我々が殺したのだ》ということは 神を生かしておくも 殺しておくもこちら側 つまり我々の思うまま 我々のさじ加減一つということである。すでに神は我々によって構築されていたことが含みとしてある。つまり 神を構築してきた当の我々が葬られるべき存在なのである。ニーチェが闘った相手は 神の語をむやみに重視する一九世紀の生活形式であり 文化なのであった。  ひとことで言えば この生活形式の中核は ナポレオン戦争の終結とともに だがさらには一八四八年革命以降 特に顕著になったヨーロッパの再キリスト教化 そしてそれとタイアップした市民階級の再封建化といわれる現象である。ニーチェはその知的生涯においてそれと闘う中で 彼の《破綻の美学》を生み出したのだ。  ・・・  再キリスト教化自身が ニーチェには神の死を意味していたのである。  (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて』 2011 第五章 破壊的理性の美学――素描の試み   pp.149-151 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~  一九世紀の《再キリスト教化》について三島は きちんと例証していると思いますが 割愛します。  そこでそのことに深入りはせずに 全体としてこの三島の議論に 必要な注釈をつけたり あるいはちょっと違うのではないかという批判を加えたり 言うべきことがありましたら まづそれらをおしえてください。  と言っておいて あとは 神とは何か? を問います。  三島も触れていますが 《われわれが構築した神をナイフで殺した》のなら それは《観念の神》であって・あたまの中の想念の中に描かれた思いや考えであって 劣ったものであったり時代遅れになったりしたら ナイフで切り殺されても当たり前です。ただの想像の産物を相手に闘った。またそういうたぐいの文章である。  つまり そんな《ただの観念の構築と抹殺といったお遊び》のことを どうしてその熱情を燃やして闘ったりしたのか? それは どこから見ても《神》ではなかったというのに。  いったいニーチェとは何だったのか?  レクイエムを書いてやってください。

  • ニーチェとカントの出会い って?

     ニーチェとカントの出会い?  ▼ (三島憲一:ハーバーマスとデリダのヨーロッパ) ~~~~~~~~   デリダの〔ハーバーマス七十五歳の誕生日に際しての〕お祝いの手紙が 《我々の誠実さ》というニーチェの引用で始まっていることを忘れてはならない。デリダとハーバーマスにおいて(ひょっとしてハーバーマスは多少ともいやいやながら) ニーチェとカントが出会っているのである。  理性の欺瞞を告発し 個性と差異を情熱と芸術の名によって擁護したニーチェと 人間を目的として扱うことを哲学的社会論・政治論へと翻訳し 世界市民権を説いたカント 理性と力の癒着の告発がともすると力の理不尽な肯定という迷誤に陥ったニーチェと 理性の哲学がときとして謹厳実直な特定のライフスタイルへの固定化を誘引しがちな道徳主義的カント 政治的にはこれまでまったく違った陣営に位置づけられていた両者が デリダとハーバーマスの《翻訳》を通じて二一世紀にもっと激しく出会うならば――そして すでに二〇世紀の最後の一〇年で確実に出会っているのだが―― それぞれの迷誤と誘引をもう知らない世代の希望が出てくるというものである。  そうすれば ヨーロッパ憲法の挫折はエピソードに終わり 国際秩序の立憲化という《ユートピアなき理想主義》への道がひょっとすると見えてくるかもしれない。  これがデリダとハーバーマスのヨーロッパ つまりエアバスと武器輸出のヨーロッパではない ヨーロッパの自己像である。  そして ひょっとすると 日本の思想の世界でも 《なんとか大学なんとか学会》の習慣も 〔* 日本の学者たちがそれぞれ自分たちの奉じる外国の学者や思想家をそれにたてまつったところの〕神様や偶像を引くだけの《神々の戦い》の時代も終わるかもしれない。ヱーバーがこの表現を使った経験は もう過去のものに属するのだから。  (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて』 2011 終章 ハーバーマスとデリダのヨーロッパ p.227 )  ~~~~~~~~~~~~~~~  ハーバーマスおよびデリダについて知りません。どなたか解説してくださいませんか。  そのほか ご感想やご見解をも述べてください。  質問者の物言いは わづかに《世界市民権》が 市井の一市民にあるというだけではなくそのことが 社会制度としても――つまり 国家やあるいは国際連合などに必ずしも頼ることなく 地域のムラ(市町村)じたいの体制としても――成っているということ このことを必須の条件とすると考えられることである。    自由なご批判をどうぞ。  

  • ニーチェとカントの出会いって?

     ニーチェとカントの出会い?  ▼ (三島憲一:ハーバーマスとデリダのヨーロッパ) ~~~~~   デリダの〔ハーバーマス七十五歳の誕生日に際しての〕お祝いの手紙が 《我々の誠実さ》というニーチェの引用で始まっていることを忘れてはならない。デリダとハーバーマスにおいて(ひょっとしてハーバーマスは多少ともいやいやながら) ニーチェとカントが出会っているのである。  理性の欺瞞を告発し 個性と差異を情熱と芸術の名によって擁護したニーチェと 人間を目的として扱うことを哲学的社会論・政治論へと翻訳し 世界市民権を説いたカント 理性と力の癒着の告発がともすると力の理不尽な肯定という迷誤に陥ったニーチェと 理性の哲学がときとして謹厳実直な特定のライフスタイルへの固定化を誘引しがちな道徳主義的カント 政治的にはこれまでまったく違った陣営に位置づけられていた両者が デリダとハーバーマスの《翻訳》を通じて二一世紀にもっと激しく出会うならば――そして すでに二〇世紀の最後の一〇年で確実に出会っているのだが―― それぞれの迷誤と誘引をもう知らない世代の希望が出てくるというものである。  そうすれば ヨーロッパ憲法の挫折はエピソードに終わり 国際秩序の立憲化という《ユートピアなき理想主義》への道がひょっとすると見えてくるかもしれない。  これがデリダとハーバーマスのヨーロッパ つまりエアバスと武器輸出のヨーロッパではない ヨーロッパの自己像である。  そして ひょっとすると 日本の思想の世界でも 《なんとか大学なんとか学会》の習慣も 〔* 日本の学者たちがそれぞれ自分たちの奉じる外国の学者や思想家をそれにたてまつったところの〕神様や偶像を引くだけの《神々の戦い》の時代も終わるかもしれない。ヱーバーがこの表現を使った経験は もう過去のものに属するのだから。  (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて』 2011 終章 ハーバーマスとデリダのヨーロッパ p.227 )  ~~~~~~~~~~~~~~~  ハーバーマスおよびデリダについて知りません。どなたか解説してくださいませんか。  いい線を行っている内容であると思います。  わたしの言葉では 《あやまちうるスサノヲ人間語 と あやまち得ざる〔とみなされた〕アマテラス普遍語(科学語および人格語)とのえも言えない融合》ではないかと。  質問者に物言いがあるとしたらそれは わづかに《世界市民権》が 市井の一市民にあるというだけではなく そうではなくそのことが 社会制度としても――つまり 必ずしも国家に頼ることなくあるいは国際連合などといったメタ・アマテラス普遍語次元の機関に頼ることなく 地域のムラ(市町村)じたいの共同自治の体制としても――成っているということ このことを必須の条件とすると考えられることにあります。(インタムライズム)。    自由なご見解・ご批判をどうぞ。  

  • 再考: 《神は死んだ》か?

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第十章 《神は死んだ》のか  ▲ (ヰキぺ:神は死んだ) ~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AF%E6%AD%BB%E3%82%93%E3%81%A0  (あ) 神は死んだ(かみはしんだ、独:Gott ist tot, 英:God is dead)は、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの言葉として、ニヒリズムを表す言葉として広く引用される言葉である。  (い) ニーチェは、キリスト教的な神や価値観が、プラトン的な形而上学的真実在、超越的な彼岸世界への信仰が消滅して、現実の生・世界が無価値・無意味になり、ヨーロッパが歴史的に危機状況にあることを、神は死んだ(も同然だ)ということばで表した。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~    問い‐1. 《ニヒリズム》とは どういう思想ですか?   (う) こう問うわけは 虚無志向というのは あくまで往復の道があって 当初はその虚無の国行きだけの片道だと思っていたとしても けっきょくには 復路もあるとなるはずではないか。だから いったいそれとして言わば独立した思想があり得ますか? という問いです。   問い‐2. 《神》は 果たして《死ぬ》ものか? つまりいつか・どこかで《生まれた》ものか? きわめておかしな表現であると考えられるのだが どうか?  (え) 《価値観が消滅する》という意味で《死ぬ》と使っても むろんおかしくはありませんが。    問い‐3. この場合に《現実の生・世界が無価値・無意味になり》というのも おかしな表現(思惟)ではないか?  (お) なぜなら もしそれがほんとうだとしたら 《キリスト教的な神や価値観が〔無いところでは あるいは〕、プラトン的な形而上学的真実在、超越的な彼岸世界への信仰》が無かった土地とそこに暮らす人びとにとっては もともと昔から《現実の生・世界が無価値・無意味》であったとまわり回って言っていることになる。のではないか? そんなバカな話があるのでしょうか?  問い‐4. ▲ (い) ・・・ヨーロッパが歴史的に危機状況にあることを、神は死んだ(も同然だ)ということばで表した。  ☆ だからと言って 《超人・大地・大自然》を あらたな神のごとくに持ち出せばよいというものではない。はずだ。どうか?

  • ニーチェは死んだと 神は言った?

    神は死んだとニーチェは言いましたが 今でも神はキリスト教徒の中に息づいています 人間は神じゃないですが、人間は宇宙の一部です。人間の意識は宇宙の意識でもあるのです 人と人の間 人間の繋がりの中に宗教があり神が性質として在る以上 無神論者の考えが尊重されるように有神論者の考えも尊重すべきではないでしょうか? 宗教と一緒に道徳も荒れています 今こそ哲学は神とは何か、そして神を信じる人達を弁護しなければ 思想信条の自由がおびやかされているのではないでしょうか? 私は無宗教の家に育ち、無神論者でしたが、今 神に興味があります。 人間の意識に神がいるのなら この宇宙に神はいるではないですか? 世界では1万という宗教が有り、それに近い神がいますが(多神教もあります) 仏というのも神と似ています。この宇宙の真理を会得したら 神の子 では?ないですか? この宇宙を変えることが出来るのですから。何かを創造することができるのですから。 どうでしょうか? 神をどう思いますか? 神ってどの様な存在でしょうか?

  • キリスト教古代史について!

    ・古代キリスト教のユダヤ教化と脱ユダヤ教化について ヘレニストとの戦いの中でどう脱したのかなどの点から教えてください!! ・また、ヘレニズム的世界宗教としてのキリスト教を構成する三要素 1首都?使徒?的伝統 2パウロ的要素 3ヘレニズム的宗教思想 についても詳しく教えていただきたいのですが、 どちらへの解答でも構いませんので、教えていただけますか??? お願いします!!

  • ニーチェの「永遠回帰」とは?

    ニーチェはスイスの保養地、シルスマーリアの近郊の山々を散策している時、突然、人類と地上を遥か超える3000フィート!と叫んで「永遠回帰の思想」を懐胎した、と、「悦ばしき知識」の中で言っています。 「永遠回帰の思想」はニーチェにとって、キリスト教の「福音」に代わる、新しい「福音」でした。 どういう意味で、それが「福音」なのかといえば、古代ギリシャ以来の哲学と形而上学に代わって、自分の「力への意志」が、これからの哲学でなければならない、と言ったものでした。 ニーチェは言っています、存在に対して生成の優位を唱えること、それが「力への意志」であると。 存在に対して生成の優位を唱えることは、アリストテレスの目的論と、キリスト教の終末論に対して、古代ギリシャの円環的な時間の考えを対抗させること。 直線的な時間の考えに対して、円環的な時間の考えを対抗させること。 時間が直線的と言ったのは、キリスト教とその終末論です。 最後の審判に向かって、時間は直線的に進行する、という。 アリストテレスの目的論も、有機体をモデルに、歴史には、その目的がある、という。 ニーチェは、このアリストテレスとキリスト教の「目的論」を否定するために「永遠回帰」の思想を唱えました。 すでに、ニーチェの前のショーペンハウワーは、世界の根源は「生きんとする意志」で、「生きんとする意志」は目的を持たない、盲目である、と言っていました。 だから人間が救われるためには、この「生きんとする意志」を否定しなければならない、と言っていました。 ニーチェはショーペンハウワーの思想を受け継ぎましたが、ショーペンハウワーとは違い、逆に意志を肯定すべきだと言いました。 それはこれまでの、最高価値であったキリスト教の価値観、人類は終末に向かって、最後の審判で人々が天国に迎えられるために、人生は意味のあるものでなければならないと言ったことへの否定でもありました。 ニーチェはそのようなキリスト教の価値観を「ニヒリズム」と言って、断罪します。 それは存在を優位に考える思想であり、それは「ニヒリズム」である、と。 (この場合「ニヒリズム」とは日本で「虚無主義」と訳しているのとは逆の「存在主義」という意味で) ニーチェはキリスト教のみならず、古代ギリシャ以来の哲学と形而上学は「ニヒリズム」であり、西洋の哲学の歴史は「ニヒリズムの歴史」であり、キリスト教は「ニヒリズムの宗教」と言って断罪します。 彼らは、存在だけを論じ、無を無視してきた、それが西洋の哲学の歴史であり、キリスト教なのだ、と。 この「存在を無視する」というのが「ニヒリズム」です。 事実、西欧世界に仏教の「無の思想」が知られたのは、19世紀の半ばでした。 それを知って西欧の人々はびっくりし、そして畏怖しました。 「なんと、東洋には無を唱える宗教がある!」というわけです。 ニーチェは「神は死んだ」と宣言しましたが、それは文字通り、神、すなわち超越的な存在がいなくなったということと同時に、西欧の哲学と形而上学の歴史が終わったことを宣言するものでした。 天に超越的な存在としての神があり、地上に私たちの世界がある、そして天の世界こそ、ホンモノの世界であり、地上の世界はニセモノの世界とキリスト教は言ってきましたが、その「二元論」、有と無の対立を否定し、生成の世界を対抗させなければならない、とニーチェは言います。 ニーチェの「同一物の永遠回帰」を、無が回帰する、無意味が繰り返す、と解釈する人がいますが、それは誤解です。 「存在に対して生成へ!」を唱えるものです。 直線的な時間に、円環的な時間を対置することです。 直線的な時間はキリスト教の終末論と、アリストテレスの目的論につながり、歴史の「進歩発展」につながりますが、ニーチェの円環的な時間は生成ですから、目的を持ちません。 そして「力への意志」は目的を持たず、その強化と増大を目的とします。 目的よりも「力へ!」です。 それこそが、ニーチェにとって、「永遠回帰」の思想が、新しい「福音」であるゆえんです。 どうですか?

  • 神は存在するのか?

    日本人は無神論者が多いと思いますが、イザヤ ペンダサン(実は日本人らしい)の「ユダヤ人と日本人」の著書の中で日本人は「日本教の信者」だと述べてます。つまり神道が根付いているのだと思います。 世界にはイスラム教、キリスト教、仏教などありますが、実際にその神は存在してるのでしょうか? 各宗教を信じている者は神の存在を信じているから信仰でしょうが、私には人間が創った想像上の存在にしか思われません。この世に神を見た者がいないからです。 そうすれば、神を信じると言うことは、死の恐怖から救われると言うことではないでしょうか? 神は実際に存在するのでしょうか? (注)お礼の言葉は付記しませんのでご了承下さい。

  • アメリカなどでは今も神様は信じられていますか

    アメリカ、ヨーロッパの国では、「キリスト教」 (といっても、色々宗派があるのでしょうが、 ここではまとめてこう表現させていただきます) はどの様に人々の中に根付いているのでしょうか。 例えば、若い人達も、普通に神様の存在を心から信じ、 食事前や自分が何か祈りたい時に祈っているのでしょうか。 それとも、お祈りはするけれど、神様の存在自体は 信じていない(実際には神様はいない)といった 感じなのでしょうか。 私自身は無宗教で、信仰がないのですが、最近、 昔のアメリカを舞台にした小説を読み、主人公の 少年の信心深さに心を打たれました。 そして、現在でもそうなのか知りたくなりました。 ご存知の方、是非ご教授ください。