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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:認識論のみでは 《しゃべる蛸壺》に終わる。)

認識論の限界と哲学の役割

asisai888の回答

  • asisai888
  • ベストアンサー率15% (11/73)
回答No.12

処方箋と認識論の関係について整理させてください この哲学カテで、一般的にみられる回答には我々が日常に用いる認識論が用いられてる 日常的問題ならば、日常の認識論を用いればいいが、日常の認識論に存在する前提が 成立するかどうか不明な問題に対しても日常の認識論で回答してしまっている このことを診断と呼び、処方箋を書いてないと呼び、認識論に留まると呼び、蛸壺と呼ぶ そして、不明な問題に対して、日常の認識論に存在する前提とは異なる前提を持つ認識論 による回答を処方箋と呼ぶ という解釈でいいですか? その上でbragelonneさんの主張は 不明な問題に対しては非日常の認識論の解答こそが解決法であり、日常の認識論での回答はダメだ ということなんでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  不明な問題に対しては非日常の認識論の解答こそが解決法であり、日常の認識論での回答はダメだ  ということなんでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうですね。  ★ 日常の認識論での回答はダメだ  ☆ それだけではダメだ。と言おうとしています。そう問うています。  この OKwave における質問の設定にしろ回答の投稿にしろ なぜこれこれこうなのか? とか どうしてあれそれが無いのか? といった問題が取り上げられたなら 当然のごとくあたらしい規約や方式が考え出される場合もあり得ます。  あり得ないといった前提で考えるだけでは おかしい。こういった問題点です。煮詰めて言えば。

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