フッサールは《純粋意識》に もののあはれを知ったか
《あは!》という思いを感じるときに到るキッカケを フッサールというドイツ人は 《エポケー》と称しました。わたしは 判断中断と訳すとよいと思います。
▲ (ヰキぺ:エポケー) ~~~~~~~~~~~~~
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9D%E3%82%B1%E3%83%BC
エポケー(古代ギリシア語: ἐποχή epokhế)は、原義において「停止、中止、中断」を意味し、哲学においてこの語はいくつもの意味をもっている。
▲ フッサールおよび現象学においては、
エポケーは 世界の自然命題を「カッコに入れる」ことを意味する。
すなわち世界の外的現実についての信念をカッコに入れるのである。
ただしこれは世界の実在を疑うという意味ではまったくない。世界の現象を起こるに任せ、純粋な現れとし、そこで現れているものの実在についてはもはや断言しないということである。
世界の中で生きられたものが意味している一切を捨象し、生きられたものをそのものとして研究するという点において、エポケーは意識の普遍的構造を考えるための第一歩なのである(フッサールによれば、エポケーの次の段階が「現象学的還元」である)。
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☆ 分かったような分からないような感じですが ひとつにギリシャ語を引っ張り出して来ているので 古代人に関係あるかも分かりません。
もうひとつに 基本的なこととして このエポケーのあとに得られる結果が 《もののあはれ》だということだと解釈します。
これをフッサールとしては 《純粋意識( reines Bewußtsein )》が得られると言っているようです。
▲ (ヰキぺ:現象) ~~~~~~
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E8%B1%A1
フッサールは、
哲学や諸々の学問に確実な基礎を与えることをもくろみ、
意識に直接的に現れている現象を直観し、その本質を記述する方法を追及した。
そのために彼は、外界の実在性について判断を中止し(=エポケー)、それでもそのあとに残る純粋意識を分析し記述する、という方法を採用した。
この場合、フッサールは現象について、本体などの背後にあるものとの相関については想定しない。
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☆ あるいは 《本質直観 / 本質観取 / 本質看取 ( Wesensschau )》と言うのだそうです。
《もののあはれを知る》のほうが 理屈づけではなく全人的であると思われ その点 推奨されます。
《 Wesensschau 》は英語では Being's show と言っているのですから さしづめ《もののあらはれ》でしょうか。日本語とは 一字違いですね。
フッサールのほうは――わたし自身もおそるおそる言っているところがありますが―― 純粋意識を得て ようやく《生活世界( Lebenswelt )》に戻って来るという恰好にもなっているようです。くわしくは たとえば次のサイトをご覧ください。
▼ (フッサールの方法とその諸問題)
http://mrmts.com/jp/docs/husserl.html
この現実に帰って来たときにも・そしてエポケーの状態であはれを感じたそのときにも 《おそれ》をひとは覚えるのでしょうね。《きよらかなおそれ》。
しかもこれは ものごころが着く前の幼児のときの《聖なるあまえ》と同じ筋の状態だと確認できるのではないでしょうか。
おそらくこのことを 《ハカラヒ》を《義》と言いかえて 親鸞は 《義無きをもって義とす》と言った。
一般にヨーロッパ人は ものごとを分析しすぎます。要素に還元しようとします。もっと全体論として捉える視点をも推し進めるのがよいと思われます。それには 日本人は――《ふつうの人》が――生活としてすでに実践している現実があるはずなのであり その生活の歴史の中からさらに哲学のあたらしい展開のために 見直すのがよい。歴史を洗い直すのがよいと考えます。
俳句や短歌は それだけでは 文学としてもまだ練れていないと考えますが その生活感覚の中に 哲学の鍵語が得られるかも分かりません。
当否を問います。