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太平洋戦争のフィリピン・マニラでの戦について

 ビデオ「名将たちの戦場13マッカーサー対山下大将」の中で次のことがいわれていました。 1.米軍がマニラに迫ったとき、山下奉文は部下を守り、かつマニラの大規模な破壊を防ぐため、機を見てすぐに撤退をするように命じた。しかし守備隊司令官は命にそむいて、2万名を率いてマニラに踏みとどまった。 2.その結果マニラは戦場となり、10万人を超す市民が犠牲となった。そのほとんどは日本兵の虐待によるものだった。 3.米軍は当初重要な建物の砲弾攻撃を避けていたが、立てこもる日本兵のためそれもかなわなくなり、最終的にはほとんどの建物が破壊された。  上官の命令にそむくことは重大な軍規違反となるのに、何故あえてそむいたのでしょうか?  日本兵がマニラ市民を虐待したの理由はなにでしょうか?市民がゲリラとなって立ち向かってきたのでしょうか。  そもそもマニラ市民はどうして疎開しなかったのでしょう?戦いは1ケ月続いたので時間はあったはず。  映像では建物を破壊しているのは米軍のように見えます。米軍によって殺害された市民も多かったのではないでしょうか?  太平洋戦争、日中戦争でマニラに匹敵するような激しい市街戦が行われた場所はありますか?  

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回答No.2

それぞれの質問についてお答えします。 1.守備隊司令官は命にそむいたのは何故か    人間だからです、質問者さんは、納得できなくても上司の命令ならば、絶対に従いますか?それに、この時期は戦争末期で軍隊の規律は、随分と乱れていました。守備隊司令官は撤退する事を潔しとしなかったのでしょう。 2.10万人を超す市民が犠牲となった。そのほとんどは日本兵の虐待によるものだった。 これは、正直、言ってアメリカ側の視点ですよね。何か問題が起きたときは、責任者(悪者)を決めなければなりません。当時の日本軍は補給も途絶え米軍とまともな戦闘ができる状態では、ありませんでした。日本軍は自分の命を守るのに精一杯で、とても市民の防衛にまで手が回らないというのが実情でした。実際は戦闘中に巻き添えを受けて被害を受けたというのが本当の事です。 3.最終的にはほとんどの建物が破壊された。 市街戦では当たり前の事です。現代のイラク戦争でも多くの建物が破壊されて、1年以上経った今でも、電気、水道が使えず信号も点かないという地域が多数あります。イラク人のせいですか?微妙ですよね 当時のマニラ(フィリピン)は日本が占領する前まではアメリカが統治していました。当時のアメリカは裕福で、厳しいのですが、自由でした。(お金持ちはお金持ちの事しか考えず、普通の人がお金持ちになるのは、今よりずっと奇跡でした。)物がある事が幸せとは限りませんが、物とお金を使い、フィリピンをそれまでとは、まったく違う国に変えてしまっていました。それをフィリピンの人は素直に受け入れて喜んでいました。 ところがいきなり戦争が始まり日本軍が乗り込んできました。貧乏国の日本はフィリピンに対して行ったのは、学校教育を日本式にして八紘一宇の精神を教え、日本風の神社を作り、戦争に必要な資源を得るため、本来フィリピンの風土に合わない作物を栽培させました。そうです、貧乏な日本は、物資は何も与えられませんでした。そのくせ徴用といって食料等を現地の人から、むりやり取り上げました。 この事が、アメリカ=豊かな生活、日本=カツアゲというイメージを与える事になりました。どうして疎開をしなかったのか当時の日本の占領軍はフィリピンに対する知識を殆ど持っていませんでした。(アメリカと戦争する事すらまともに考えては居ませんでした。日本の敵は中国とソ連だったのです。)ですのでまともな統治はできずに、恐らく疎開の支持も出来なかったのだと思います。 太平洋戦争、日中戦争でマニラに匹敵するような激しい市街戦が行われた場所はスターリングラードヤレニングラードにくらべれば遥かに規模は小さいのですが、中国の南京、上海、沖縄などでしょうか

epkakpe
質問者

お礼

詳細なご回答ありがとうございます。 1の件。  軍隊では「上司の命令=朕の命令」で絶対服従が常識と思っていました。すでに敗戦を意識して死に場所を探していたのでしょうか。 2、3の件。  虐殺にせよ、巻き添えにせよ、犠牲者10万人は多すぎますね。いずれにせよ「戦争中のこと」で片付けられてしまうのは悲しいことです。  日本本土の都市であれば、このような市街戦は避けたと思われます。  下記URLでは、日本兵が虐殺したとありました。 http://www11.ocn.ne.jp/~mino0722/phillipin9.html  フィリピンはキリスト教だったのでアメリカの統治は比較的うまくいっていたようです。キリスト教から神道へ変わるのは難しそうです。ちなみに戦乱ですべての教会が破壊されたそうです。

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  • lovein
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回答No.5

再びです。質問者さんはかなり詳しい知識をお持ちのようですので補足をさせて頂きます。1941年12月22日に日本軍がフィリピンに上陸した時点でマッカーサーは、コレヒドール島の要塞にたてこもります。米軍は、市街戦を避けたのではなく要塞があった島に逃げたというのが正しい認識でしょう。事実1942年2月23日にルーズベルト大統領からミンダナオ島を経由してオーストラリアのメルボルンに向かうようにとの指示がきた時点でも要塞は持ちこたえていました。3月17日メルボルンに向かう途中のアデレードであの有名な「私は必ず帰る」演説をおこなったのはご存知のとおりです。 時は過ぎて1944年9月中旬フィリピンに米軍が上陸してくる事が確実になった時点で第14軍を第14方面軍に格上げして満州にいたマレーの英雄、山下大将を指揮官にします。ですがマニラに着任したのは、10月6日、米軍がレイテ島に上陸する迄、わずか12日の時間しかありませんでした。満足に考慮する時間もない上に、本来、フィリピン防衛の拠点はルソン島だったのが台湾沖航空戦の幻の戦果のせいでレイテ島に主力の第一師団、第二十六師団、独立混成師団を回す事になってしまいました。しかしレイテ沖海戦の結果、制空権、制海権を失ったしまいました。武器も食料も無く別の島に渡り戦闘をするという事の、結果は悲惨の一語でした。残された戦力でのまともに立ち向かっても勝機は無いと判断した。山下大将はマニラを”無防備都市”にするためバギオに司令部を移します。ですが、海軍部隊は居残ってマニラ防衛戦を行い、マニラは廃墟。約2万名の日本軍は玉砕。米軍の無差別砲爆撃で多くのマニラ市民が死亡しました。マッカーサーはこのマニラが廃墟になりマニラ市民が多数死亡したことを取り上げ、日本海軍部隊の責任を山下大将にかぶせました。更には末端の日本兵の残虐行為の責任もかぶせたのですが、長期持久戦を狙って山の中にいる山下大将の指示でなかった事は、明白です。その事よりこの様な絶望的な状態になっても戦い続け、終戦までフィリピン全土占領を許さなかった。事実に尊敬の念すら、おぼえます。 マッカーサーの山下大将に対する憎悪の念は激烈で米国の官選弁護人も米・英・豪の特派員も反対の意思を表明するほどの因縁のつけ方でした。結局マッカーサーの”復讐裁判”で昭和26年2月23日、午前3時2分、軍人としてではなく単なる”犯罪者”として捕虜の作業服のまま絞首刑に処されました。

epkakpe
質問者

お礼

ありがとうございます。 日本軍は準備不足だったのですね。 「台湾沖航空戦の幻の戦果」はつい先日NHKビデオでみて、開いた口がふさがりませんでした。 それがマニラ戦にまで影響していたのですね。 マニラに居残った海軍部隊は最初から玉砕覚悟だったのかもしれません。 それとも勝機はあると信じて最後まで戦ったのでしょうか。 日本軍人はせっかちなので長期戦は苦手だったと聞きます。(すぐ突撃する傾向にある) 唯一硫黄島の戦いのときだけ最初から長期戦という作戦で戦ったそうです。 武士道から受け継いだ美学なのでしょうね。 いずれにせよ、悲惨なことです。

  • ryutora
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回答No.4

1.大きな都市では市民の犠牲が多くなるため撤兵する暗黙の了解があり、アメリカはマニラを放棄しました。山下はそれを踏襲しようとしたことと、山中でのゲリラ戦で戦争の長期化を図ったのです。でも日本の陸軍が許可するはずはありませんので結果として守備隊は日本からの指令に従い、山下は山へ退避しました。 退避時機が遅くなり、食料兵器等も少ないため兵隊は大変な苦労をし餓死、病死しました。 (大陸から1個師団(と記憶していますが旅団かも?)の兵隊だけマニラへ上陸した直後輸送船が爆撃され、荷物が全て失われた軍もあり、兵器も不足状態でした) 沖縄戦でもアメリカ軍上陸前は徹底抗戦のため反撃しないことに本土と守備隊とで合意していましたが、そのうち本土から反撃しろと指令され、多くのムダな死者、弾薬の浪費で抗戦力が減少しました。 レイテ島の戦いで反撃は難しいことを山下は知っていたのに日本の司令部では戦場を見ず、失敗を反省しないため徹底抗戦の指示を出したのです。 どちらかというと山下が軍規違反です。 しかし後から俺も続くと言って多くの特攻隊を出撃させた富永恭次は危なくなると台湾へ脱出し(明確な敵前逃亡)、軍法裁判にはかけられましたが東郷にかわいがられていたため数ヶ月の謹慎処分で軍務に復帰しています。 軍規違反も下には厳しく、上には甘いです。 (特に海軍の乙号事件は典型的です) 2,3.市民の犠牲は日本の守備隊が抗戦したために市民が巻き添えとなったこともあるでしょう。建物も破壊されました。日本軍の虐殺で10万人も犠牲が出たかどうかわかりませんが、原因は市街戦に持ち込んだ日本軍です。 日本軍は日本国民も避難できない状態で、マニラ市民を避難させることはしません。アメリカの統治時代のほうがよかったことも原因でゲリラ活動も多かったです。アメリカ軍も無差別に爆撃、砲撃したので市民の犠牲も多かったのではないでしょうか?

epkakpe
質問者

お礼

ありがとうございます。 山下大将の方が軍規違反とは意外でした。 日本軍にしろアメリカ軍にしろ、他国の土地なので無茶な作戦をしたのでしょう。

回答No.3

正確に調べたことはないので「自信なし」ですが、 日本側の守備隊は、岩淵三次「海軍」少将の指揮下にありました。 帝国陸海軍の間の指揮命令系統の複雑さが影響した可能性もあるかと思います。 また、岩淵少将は、これ以前に戦艦「霧島」艦長としてガダルカナルで米海軍と戦い、乗艦を撃沈されるも救助され、生還した経歴があります。 軍艦の艦長としては、艦と運命をともにしなかったことはむしろ不名誉なこととされていた時代ですから、 「今度は最後まで戦って死んでやる」と思ったとしても不思議ではありません。

epkakpe
質問者

お礼

ありがとうございます。 陸軍と海軍の間で指揮命令が乱れていたのですね。 死に際はきれいにゆきたいものです。 「岩淵三次」で検索してみると次のサイトがありました。 http://www.jiyuu-shikan.org/goiken/00/12/gmain.html  ここによれば、次の3要素が市民の犠牲を大きくしたそうです。 1.日本軍は軍需資材の搬出を容易にするため、マニラ市民が脱出しないよう指導していた。 2.フィリピン人ゲリラとの間に、日本軍の残留資材の争奪戦があった。 2.後半戦から始まったアメリカ軍の無差別砲撃。

  • YUZURU
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回答No.1

比島戦は、日本陸軍と米軍の本格的な部隊同士の戦闘が行われました。(それまでの各島での戦闘は比較的小規模の部隊による戦闘でした)近衛師団まで投入している事からも、陸軍が本気だった事が伺えます。が!、大規模な部隊を投入したにもかかわらず、十分な食料を用意しなかったので現地で強制的に食料を調達しました、その為、比島全土で極端な食料不足になり、全島民の2/3が餓死する凄惨で悲惨な状況を引き起こしてしまいました。この様な状況下は、時間が経つにつれ悪くなり、各地で食料を調達する為に虐殺略奪行為が横行してしまい、兵を残して台湾に逃げ帰ってしまった将官が出て後で処罰されたりと、むちゃくちゃな状態になってしまいました。大規模な部隊は、撤退しようにも、撤退できず山間部に入って戦おうにも食料は無く、ばらばらに行動すれば、恨みに燃える現地ゲリラになぶり殺しにされる、結局、都市部に固まって戦うしか無かったのです、しかしながら、都市部で戦って死ねたのはましかもしれません、山間部に投入された部隊の末路はそれはそれは悲惨な最期でしたから・・・。

epkakpe
質問者

お礼

ありがとうございます。 >全島民の2/3が餓死する凄惨で悲惨な状況  豊かな南の島で餓死とは思い至りませんでした。虐殺略奪行為も行われていたのですね。最終的に日本軍ほぼ全滅という悲劇に終わったわけですが、もう少し市民に迷惑をかけない戦闘方法がなかったのかと思います。

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