昔の人は集会を開催していたのか

このQ&Aのポイント
  • 昔の人は集会を開催していたことは、日本人が知るべき重要な事実です。
  • 自由民権運動の時代には、議論や集会が盛んに行われていましたが、現代ではそれが少なくなっています。
  • 最近の政治や宗教に関する議論も少なくなっており、その原因についても考える必要があります。
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昔の人は集会を開いたのか

こんにちは 日本人が知るべきことの一つに昔の人は集会を開いたことです。今の人は思いつきすらしないで、其れが普通であると勘違いして生きていることです。民族意識がなくなっている、消滅しつつあるのは間違いないでしょう。 自由民権運動の時に最盛期を迎えたと思える、議論し集会を開く文化。なぜ当時のひとは集会を開けて今の人は集会を開けないのか。どこで集会を開きどのような議論をしたのか知りたいです。 議論は喧嘩。トラブルはつきもの。どんなトラブルがあったのか、戦後学生運動の時期があったが、あれは自由民権運動と似たようなものだったのか、何をしたかったのか。 最近の流行りである政治宗教はお断りはどこから由来するのか教えて下さい。 憲法議論、ttp議論など、全く議論しない死の国となってしまった理由はなにか。 よろしくお願いします

noname#203340
noname#203340

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.5

昔は、生活の状況に関わる判断は、ファミリーや 地域コミュニティといった小規模の集団において 行われていたので、町会の決定に重大な意味が あったので、適切なタイミングで行われる必要が あった。 しかし、社会集団が大きくなり、分業化が発達して ローカルな小集団での決定が大きな意味を持た なくなるにつれ、コミュニティでの集会は行われな くなった(他方、分業上の「小集団」である企業の 集会は頻繁である)。 政治的な集団は、こうした歴史的なコミュニティと は異なり、民主主義的なプロセスとして派生した ものだ。 真の「集会(社会的な意志決定のための)」は、 国会で行われているが、そこに意志を反映させる 事ができるという幻想が、「政治集会→政党→ 国会」という段階的“集会(意見を集約する)”が 有効であると思わせたのだ。 しかし現実は、政治献金やをしてくれる大企業や 金持ち(あるいは黒幕の米国)のための政治に しかならないので、民権運動の政治集会は下火 になる一方、市民の意志を強く持つ人による政治 活動は、民主主義的なプロセスを経ない暴力デモ やテロ活動へと収斂し、それが権力に潰された結 果(過激派の終息)、市民は政治に対する無力感 に襲われ、学生は三無主義、社会人は政治離れ したのであって、意味のない(金にならない)議論 はしないのが常なのだ。

その他の回答 (4)

回答No.4

 質問者さんのいうような行動をしていた結果が、まさに今このときに繋がっているというのを知っているからですよ。

  • 0fool0
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回答No.3

共同体が崩壊してしまっているのが大きい理由でしょう。 昔は年中火事などの災害に晒されていましたので、隣近所の助け合いは必然であり、また協力し合わなければ乗り切れない事を肌身で知っていたので、つながりがとても強かったのです。 しかし現代人は自然を災害を克服したという思いを、戦後長く信じていました。 其の中で他人の協力よりも、自身の経済力の方を重視する個人主義が台頭して来ました。 「一人でも生きていける」と言う台詞が其れですね。 共同体は助け合いでもありますが、縛り合いでも在ります。 どちらが優れているかは知りませんが、群れる事を忘れた鰯は、何処の海を泳ぐのかな?とは思います。

  • Key_A
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回答No.2

老害の昔話か。学生運動なんかテロとデモのサルマネにすぎない。 質問者の言う議論して集会を開く文化があったとしても、戦略が皆無で それを戦術のノリで補填しようとして失敗したのが先の大戦だろう。 また現代が議論のできない世代というならば、その親の世代に 教育・躾を行う能力や識見が欠如していたと言う事です。 歴史から学びましょう。0点です。

  • nacci2014
  • ベストアンサー率35% (200/569)
回答No.1

学生運動の頃は学生と機動隊が喧嘩をしてそれは凄まじいものでした。 学生の主張は、各派により様々ですが日米安全保障条約を撤廃して社会主義国への変身を唱えるものから、ベトナム戦争を批判しての反戦を掲げるもの、学生に自治権を与えて立法府を学生にも与えることなどがありました。 私の前の世代の人たちの騒動ですから、私は直接は関係ないのですが それらの各派が共通して唱えていたことは日米安全保障条約の撤廃で、新しい日本国の建国ということです。 ちょうど政治も 社会党が強い時期で、左翼系団体が理想を唱えて団結し、国に対抗したのです。 それらは、徐々に過激的になり、企業爆破やハイジャック事件、成田空港闘争に発展して、赤軍派による浅間山荘事件や東大安田講堂での立てこもりなど、世間一般に、過激な悪いやつらと映るようになっていきます。 その影響もあってその後は、各派の解散や活動停止を国が積極的に出来るようになり、 国に抵抗することは悪いことだと言うような考えが 一般国民に浸透します。 また、大きな勢力だった社会党が その寄せ集めである不安定さを露呈させて徐々に政権奪取が難しくなっていきます。 それらを含め、国に抵抗する組織自体が、よくないものと考えられるようになり 社会党の基盤である労働組合がデモをしても、それは当然の権利であるにも関わらず あまりよい顔をされなくなりました。 それは、国鉄をはじめ労働組合によるストライキが一般国民の迷惑を省みないものであったり他の業種の労働争議で労働組合が過激だったことも影響しています。 そういった流れから、国に抵抗するのは迷惑分子みたいな図式が出来上がってきてしまい 集会や主張をするのは、国民の権利ではあるのに 利己主義的な主張と受け取られたり、危険思想と受け取られたりしました。 また、オウム真理教のようなテロリストが生まれて しまうと、反政府活動は認められないと言うような 指向性はますます強くなっていきます。 しかしながら、国民は今のままの政治がよいとは考えていなかったから 自民党を潰すと 発言した小泉さんがブームになったり 国民のための政治を提唱した民主党が天下をとったりはしましたが 武力衝突のない 平和的な変更に とどまります。 今、安倍首相が 多少、安定して いるのも 日本を取り戻すと言う台詞にあるように よき頃の日本への変身を国民が少なからず望んでいるためだと思います。

noname#203340
質問者

お礼

ありがとうございます。当時に比べると日本人は虫のように去勢されてしまいましたね。実に哀れです。なぜここまで去勢されてしまったのでしょうか

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