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第二次世界大戦の独ソ戦でドイツ軍がスターリン
第二次世界大戦の独ソ戦でドイツ軍がスターリングラードの戦いに敗れてから 勝機は一度でもなかったのでしょうか?逆転の可能性は皆無だったのですか?
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- DieMeute
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>勝機は一度でもなかったのでしょうか? ●回答・・・無い事も無いと思います。 >逆転の可能性は皆無だったのですか? ●回答・・・皆無では無いと思います。 ■英国の戦史家リデルハートが戦後にドイツ軍の将官達に会い色々と聞き取りをしています。 その中でリデルハートはドイツの将軍達に 「スターリングラード以後でも、もしうまくやれば敗北は避けられたか?」 と聞いたそうです。 その返答は「避けられたと思う」と複数の将軍が答えたそうです。 その理由を簡単に言えば、ドイツ軍が柔軟な防衛戦を行う事ができれば、ソ連軍の戦力は消耗しきっただろうという事でした。 戦略的後退及び戦術的後退と戦術的攻勢を注意深く行えば、ドイツ軍の兵士と資材の損害を抑えつつ、損害を無視して攻撃を繰り返すソ連軍に痛撃を与え続け、その戦力を消耗しきらせたかもしれません。 実際、ソ連も大量に兵士を動員し大部隊を次々と送り込んでいますが、人的資源的に言えば、もう限界が見えていました。1943年冬の時点では捕虜になったソ連兵の半数は少年兵で、13歳の少年までいました。他にも、かなりの割合で老人も混じっていました。 またドイツ軍は戦術的に優れており1対5の劣勢でも戦場では有利に戦闘を運んでいます。 しかし、ヒトラーにより至るところでいつまでも無理な抵抗をやらされたそうです。 クライスト将軍は1943年の攻勢でハリコフ奪回をした事について、それでソ連軍の攻勢を跳ね返せるだけの物を作り上げたにも関わらず、ヒトラーのクルスク攻勢により、ドイツ軍が戦力を消耗しきってしまい、それが無理になったと嘆いています。 フォン・メレンティン参謀は「スターリングラードの悲劇の後ですら、もしヒトラーがクルスクに対する致命的とも言える攻撃を承認しなかったならば、希望は残されていた」と回想録に記しています。 ◆つまり、スターリングラードの後でも、ドイツ軍が戦略的防御に徹し柔軟な機動防御を行い、クルスク攻勢は行わず、ソ連軍の戦力を消耗させる事に徹していれば、少なくとも敗北は避けられたかもしれません。 さらには、その状況が続けばソ連が内部から崩壊したかもしれないという見方をする元ドイツ軍人もいるようです。
- whaihansei
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スターリングラードの戦いはドイツ軍が包囲され投降し終わりました(43年2月)。 同年8月、クルクスで最大の戦車戦が行われソ連軍が勝利しました。夏の戦いでも勝利 したのです。これで大勢が明確になりました。 ドイツ軍が勝つとしたら緒戦、夏服しか用意していなかった41年秋、モスクワ占領 だったでしょう。 軍部の進言にも関わらずヒットラーはモスクワ攻撃を優先させず、命じたのは雪が降り 出した10月でした。12月、モスクワ直前でドイツ軍は押し返されます。シベリアからの 軍団が本格的に反撃を始めたからです。 (シベリア軍団:スターリンに粛清されたソ連電撃戦の祖、トハチェフスキーの軍。 粛清後シベリアに行かされていた。ノモンハン事変の主力。分割したポーランド には歩兵戦を主要とする第一次大戦を戦った古い将軍が配置されていた。 このためフィンランド戦に手こずった。 これを見たヒットラーはにんまりしました。が、これは読み間違いでした。 ドイツ戦車の砲撃をはじいてしまう当時世界最強の戦車T34の本格的生産(量産)は 42年になってからでした。このモデルが高速性と傾斜装甲を持つ米国のクリステイー 戦車でした。米国では採用されずソ連に数台が輸出された。)
- eroero4649
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ナチスとヒトラー閣下は自動車好きで有名ですよ。ナチスの宣伝映画に車に乗るヒトラーの姿が必ず残っているでしょう? 独ソ戦の勝ち負けでいえば、1941年の電撃戦でソ連を屈服させられなかった時点でドイツの勝機はなかったと思います。1941年冬のソ連軍の反撃で、ドイツ軍中央軍集団は崩壊の危機にさらされました。このときに中央軍集団崩壊の危機を救ったのは、皮肉にもヒトラーの死守命令でした。なんとドイツ軍首脳は、開戦前の独ソ国境付近までの撤退をヒトラーに求めたのです。 さらにスターリンは焦ってその1941年冬から42年春にかけて全戦線での反撃を行いました。これは早すぎた反撃で、このソ連軍の反撃の失敗があったせいで、ドイツ軍は1942年夏にブラウ作戦を発動する「余裕」ができたのです。 だからもし41年冬から42年春にかけてのソ連軍の反撃が中央軍集団に限定されて行われていたなら、独ソ戦は1年早く終わっていた可能性もあります。もちろん、スターリンの勝利でね。