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哲学って何のためにするのでしょう?

哲学は真理を垣間見るためにするのでしょうか? それとも、少しでも世の中の役に立つためにするのでしょうか? 人々に思想を提供するためにするのでしょうか それとも自分がどう生きるか 自分の人生観、世界観のためにするのでしょうか? 哲学は何の役に立つのでしょうか?

みんなの回答

  • Nakay702
  • ベストアンサー率80% (9727/12099)
回答No.5

>哲学って何のためにするのでしょう? >哲学は何の役に立つのでしょうか? ⇒遠大な問題で、一言で答えるのがむずかしいご質問ですね。いろいろな考え方や回答があり得るでしょうし、それぞれが参考になる考え方であろうと思います。私の場合は、以下のように考えています。  大学などの哲学講義は多く哲学史に関わりますが、その目的の1つは、先哲たちがどのように「知を愛したか」を伝えるためだと思います。ご存知のように哲学(philosophy)とは、文字通りには「愛知」を表わす語ですね。すなわち、「哲学する」とは、「好奇心を持つ、知識や智恵・宇宙の真理や理法を探究する」ことではないでしょうか。で、それは何のためか、あるいは何の役に立つのか。一言で言えば、「生きるための英知を獲得すること」でしょうか。ヨーロッパの図書館などに Discendo liberior. と書いてありました。「学ぶことによってより自由に」といったような意味らしいです。つまり、学ばない状態では、人は多かれ少なかれ無知蒙昧・迷信・妄念・偏見…などに囚われているが、「学ぶことによって、その桎梏を解き、自由になれる」ということなのだと思います。「哲学は、我々を迷信や妄念から解放してくれる」と言えるでしょう。  哲学理解の一法として、これを科学と比べてみるのも面白いでしょうね。  哲学は、ヨーロッパ中世のスコラ学のころは、学問の総元締めたる神学の端女(はしため)」と言われました。それが、近世に入ると、徐々に神学から独立していって、存在論や認識論など人間の心や精神、当為の問題などを探求するようになりました。それと同時に、学問の総元締めたる神学の後身として、「総合学的な性格」を帯びていきました。  一方、科学は、近代初期のデカルトやガリレイに代表されるルネサンス期に花開き、いわゆる「百貨全書派」によって大いに進展しました。また、語源の示すように、「分科の学」としてそのころから急速に「専門化」への拍車がかかって、多大な文明的恩恵をもたらしましたが、他方では、特に現代に至って核兵器や各種の公害など、負の要素をも生んでしまいました。  一般論的には、次のような対比性があると思います。 哲学:文化、思索、推論、人間学、総合、統合化、指針、当為の探求… 科学:文明、実験、証明、自然学、分析、専門化、応用、利便の追及…  かつて哲学は諸科学を1つに束ねて統合し、これに指針を与えるという役を果たしていました。そして、それは今日でも変わらないはずです。すなわち、現代の哲学は、極度に細分化し専門化した諸科学を統合し、これに指針を与える機能を持つ、少なくともその使命がある、と言えるでしょう。この高度に文明化した現代にあっては、とりわけ尖端技術など「地球生命を左右するような科学を束ねて、今後に向けての当為を示す」という重大な使命を哲学は負っている、とそう思います。環境汚染の解決や異民族間の争いの収束を模索するとき、人間にとっての「本当の幸福」を考えるとき、そして、人類の未来を思うとき、哲学は最も重要で、最も頼りになる(ならねばならない)、学問なのだ、と言い得るのではないでしょうか。

yuniko99
質問者

お礼

哲学の意義 性格 可能性を語って頂きました 私も哲学が果たす役割は大きいと思います ただ巷の人は「哲学」と聞いただけでも「難しい」と思う様です 何とか分からなくても役に立つあり方でありたいものです まずは自分からでしょうね。 どうも大変ありがとうございます。

回答No.4

私にとっては精神的にすっきりする為です。 若い頃、フロイトの精神分析がかなり興味深かったですが その後、色々な心理学関係の本を読んでもイマイチすっきりしませんでした。 しかし、フッサールの現象学で 「物自体」は存在しない事に一応の理解を得たり ヴィトゲンシュタインの 「命題は現実の絵であり、その絵が理解されるのは論理形式を共有しているからである。 しかし、その論理形式を再び絵として表わせない」や 「自我は世界の限界であり、世界には含まれない」 または 「私が本当に言わんとすることを決して理解してはならないことが他者の本質である」 等の言葉に触れてとてもすっきりしました。 そして、これもまたヴィトゲンシュタインの言葉ですが 「私の言語の限界が私の世界の限界である」とあるように 私にとって新しい概念に出会う事が、すなわち私の世界を広げる事ですので 新しい概念に出会う為に哲学書を読んでいます。

yuniko99
質問者

お礼

ヴィトゲンシュタインがお好きなようですね 人生の秘密があるようですねえ 知は力なりと言いますが 概念は光なりというところでしょうか? 自分の世界を広げると言うのは成る程ですねえ 僕もその様に在りたいものです どうもありがとうございます。

回答No.3

あなたの目の前にあるのは何でしょう? 脳の中の認識そのものです。 同じ対象を前にしているからといって、同じものを見ている とは限らないのです。 より深い認識において、目の前のものがより明確に感じられる のです。 哲学や科学を怠り、環境認識をおろそかにする事は、意識を 希薄化する、半ば死んでいる事と同じだ。 認識を深める事は、より大きな社会貢献を可能にするだけでなく、 人生を通算した充足量の最大化において、長期的ビジョンによる 正確な選択を可能にし、またその成果をより大きく感じる事にも つながる、最重要な要因なのだ。

yuniko99
質問者

お礼

ご意見ご尤もです。 しかし普通哲学をする人って自然にやってるでしょうねえ 哲学をやろうと頑張って勉強する人は何%ほどでしょう? 人それぞれ哲学が有り それがどの様なものでも取り敢えず 思想信条の自由があるわけです 今後とも宜しくお願いします。どうもありがとうございます。

回答No.2

私にとって哲学は知的な遊戯で、クロスワード・パズルのようなもの、だから何の役にも立たない。 ウィトゲンシュタインにとって哲学は人がハエとしたら、そのはまったハエ取り壺から抜け出させてやること、つまり罠から抜け出す道を指し示してやること、でした。 だからハエ取り壺から抜けだしたら、哲学はもう必要でないものでした。 かれにとって哲学の謎は概念の使い方を間違っていることなので、その使い方の間違いを正してやれば、謎は解消するものでした。 事実ウィトゲンシュタインは「論考」を書いた時、世界の謎はすべて解いたから、もう哲学をやる必要がないと言って、小学校の先生になってしまいました。 また、ケンブリッジで教えていた時、生徒が哲学の教職の道に進みたいと言ったら、烈火のごとく怒り、哲学を教職にするなんてとんでもないと怒鳴りました。 私もいつか、ウィトゲンシュタインのように世界の謎をすべて解決して、哲学なんて卒業したいと思っています。

yuniko99
質問者

お礼

私も私のやるべきことが分かったら 頭もボケてきたんで 哲学より自分のライフワークをやりたいですねえ 哲学卒業は時間切れになるのかもしれません 悟りよ幸あれ ですね どうも大変ありがとうございます。

  • qualheart
  • ベストアンサー率41% (1451/3486)
回答No.1

あえて言うなら、精神的な安定を維持するためだと思いますね。 哲学的な真理なんて本当はないのに、それがないと人は不安で仕方ないから、勝手に考えて安心したいだけなんだと思います。 ご参考まで。

yuniko99
質問者

お礼

真理と言えるものが本当に在るのかどうかは分からないですねえ 人間には しかし現実がそのまま真理でしょうから 真実は小説より奇なりです。 わからないと不安になる 真っ暗闇を歩いているようなものです 少しでも見えるといいですが どうもありがとうございます。

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