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哲学に正解は在るか?もう出たか?まだか?

哲学と言ってもいろんな哲学があるでしょうけど 普遍的に通じる人生観・世界観という事で見ると 哲学に正解はあるか?思想のように沢山あって当たり前なのか? それとも今までの哲学を総合的に学べば 正解と言って良い様なものが在るのか? 自信満々というのもどうかと思うし 全く無知の知と言って何も分からないと言うのも・・・ 哲学の正解を出して 悩める人を救いたいと言う思いから質問します。 質問者 体調が悪いため 要点を簡潔に書いて頂けると助かります。 どうかよろしくお願いしますm(_ _)m

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  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10021/12543)
回答No.2

>普遍的に通じる人生観・世界観という事で見ると 哲学に正解はあるか? ⇒残念ながら、それはないと思います。(あれば、私もお目にかかりたいです。) それを求めて日々自己研鑽することにこそ、意味があるのではないでしょうか。 「正解」を探して「哲学する」プロセスにこそ、価値があるのではないでしょうか。 これと幾分かかわって、次の金言と詩をお贈りします。 努力の報酬は、結果ではなく努力そのものにある。全き努力は、 完全なる栄光である。(マハトマ・ガンジー) 山のあなたの空遠く 「幸い」住むと人のいふ、 ああ、われひとと尋(と)めゆきて、 涙さしぐみ、かへりきぬ、 山のあなたのなほ遠く 「幸い」住むと人のいふ。 (カール・ブッセ、上田敏訳)

yuniko99
質問者

お礼

金言の詩は身につまされますねえ 哲学はなかなか結果が出ないから そういう気持ちで生きるべきでしょうねえ カール・ブッセでしたか 久しぶりに読みました。 なるほど その通りですね どうも大変ありがとうございます。

その他の回答 (5)

回答No.7

こんばんは、ゆにこさま。 正解ですか? すべての人にとって、どんな場所でもどんな時代でも【正しいこと】 なんかありませんしすべてを【解く】こともできませんよ。 森羅万象を科学などで証明しきれると思っているほうが どうかしています。 >哲学の正解を出して 悩める人を救いたい :あなたには人間にできることがいかに少ないか しっかり見つめていただきたい。しっかり絶望していただきたい。 悩める人?悩ませておいてあげましょうよ。 苦悩を消し去れば喜びもまた消えるんぢゃないかしら。 山(喜び)を削って、谷(苦悩)を埋めて平坦になれば よろしいのですか。 あなたはそれで愉快になりますか。   「してはいけないこと」もほとんどありませんから 好きなようにしたらいいのですけれど。  

yuniko99
質問者

お礼

なるほど そういう考えですか 悩むことで人が大きくなれればいいともいます しかし現実はどうでしょう 戦争等で人がどんどん死んでいます。 生まれいづる悩みですから キリがないでしょうけど 若い人には気の毒ですねえ 欝になる人も多い今です どうもありがとうございます。

回答No.5

哲学とは、環境認識(世界観、生命観、価値観)である。 ただし、日常的な感覚的・生理的・感情的な「環境認識」を 越えた先の『環境』である。 それは、日常的空間の向こうの広がり(宇宙観)であり、 日常的時間の先の時間の流れ(人生観)であり、存在表面 の奥の原理の把握(存在観)である。 それに答えがあるかといえば、「原理的な把握」は物理と して、無に還元された時点で「その原因の原因は?」と いう問いの無限連鎖の呪縛から解放されるという意味で、 最終的な到達点がある(自我仮説(時間)と時空仮説(空間) の相補分化)。 しかし、物理を知ったからといって生物現象や社会現象を 理解できているのではないように、そうした原理的要素は、 その階層現象化=進化の過程で、無数の可能性の中での 相補分化的な多様化をなし、原理的にいかに正確に把握し ても、その現象について決定論的に予測する事はできない。 不断の多様な現象の分析において、無に還元する物理から 理解せねばならない。 つまり先の「到達点」は、永遠の途上(=無限の知の喜び) へのターンに他ならないのだ。

yuniko99
質問者

お礼

書いたのですが消えました 兎に角分かるようで分からないような つまり 到達点は永遠の途上へのターンなのですね 哲学とは、環境認識(世界観、生命観、価値観)なわけですね なるほどどうも大変ありがとうございます。

回答No.4

古代ギリシャの形而上学の問題とされた問い、世界はなぜ存在しているのか?存在とは何か?私とは何か?私はなぜ私なのか?魂は不死か?自由はあるか?世界は有限か無限か?世界は時間的な始まりがあるかないか?世界は空間的に無限か有限か?神は存在するか?・・・・・・・・・などの問題は2500年の間議論されてきましたが、依然として解決していないと思います。 あなたは、この世界がなぜ存在するか?と聞かれて、どうやって答えますか? あなたは、私とは何か?私はなぜ私なのか?と聞かれて、どうやって答えますか? その種の形而上学の問題に正解があると思いますか? 中には一部解決したような問題があるかもしれませんが、すべてが解決したとは言えないと思います。 神の問題にしても、たまたま今の時代が神が存在しないと思われているから、神が存在しないと考えていますが、これだって時代が異なったら、また問題になるかもしれません。 世界の始まりについても、今はビッグ・バンで宇宙が誕生したと思われていますが、これだって今はそうだけど、科学・物理学が今よりも発展したら、ビッグ・バンも否定されるかもしれません。

yuniko99
質問者

お礼

この世界が何故存在するか? 存在しているから存在するのであって、存在しなかったら存在しないでしょう。 私とは何か?私はなぜ私なのか? 我思う故に我である アイデンティティで繋がっているから存続する私なのです とまあ適当に答えてみましたが 難しいですねえ 神は心の中にありますから 心の中に復活するかもしれません ビッグバンも点から始まったと言われますが 現実は数学じゃないから 点じゃないかもしれません 確かに課題は多く残っていますねえ。 どうも大変ありがとうございます。 

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.3

哲学とは歩み続ける探求の道であると私は思います。ですので、正解は出ていないが、ここまでは分かった、というのはあるのではないでしょうか。 一方で、時代の潮流に常に対応せねばならず、その都度、思想の隆盛と衰退が起こっていると思われます。 質問者様が求められている哲学は、一定の普遍的な解を持っており、しかも世の中の某に対して答えとなるような思想かと思いました。 中庸、無為自然、倫理、政治論、言語論、色々な思想が哲学にはあって、どれが正解というのはないと思いますが、ある事案についてはこの考え方が、また別の事案についてはあの考え方が適している、とは言えると思います。お箸のように、それさえあれば大概のことは事足りるという万能型の思想は、私は知りません。個人的には倫理がそうかと思いますが、倫理では戦争は防げません。戦争を防ぐのはもっと強制力のある思想ではないかと思います。 また、驕慢を抱く人にとっては倫理などは目にも入らぬのであり、倫理はすべての人に適用できるものではありません。 また、本当の哲学と、哲学ごっこを楽しむのとは違います。このカテでは概ね哲学ごっこが流行っているようです。哲学と名付ければ自分は何かを考えているかのように思えるからでしょうか。 本当の哲学は、自らを哲学であるなどと言って威張らないし、哲学であること自体について謙虚であるはずだろうと、私などは思うのですが。 私は、人間というものを研究することが、質問者さんの求めている答に近づく道なのではないかと思いました。頑張ってください。なにか見えたら教えて下さいね。

yuniko99
質問者

お礼

人間というものを研究することですか。 回答者さんはなんでも見えてる感じですねえ 仰る通りだと思います。全くです。 どうも大変ありがとうございます。

回答No.1

 【我思う、故に我あり】という有名な言葉が有りますが、これは結論、であって《疑問》から導かれた結果、のように思います。思考そのものが疑問だらけみたいで。確かに“哲学”してはいますが。  西洋の哲学は結論らしきものは出せてもそれが「正解」と云えるまでには達していないように思います。  その因は“理”のみを通して、だから。  表現を変えて“理”に偏しているから。  矢張り思考の結果の“結論”ではなく、「正解」そのものを導き出したのは東洋の哲人、釈尊でしょう。  “理”に偏せず、“情”をも「正解」を求める手段(修行=欲を滅すると云う)にしたから、と云えるのではないでしょうか。  ☆ 釈尊は哲人であると同時に宗教者でした。  仏教は理的にも情的にも“教え”となっていますが、キリスト教は情的な“教え”かと思います。  西洋の哲人は理的に、でもキリストは情的に。  ☆ 聖書を理的に解釈しようと思うならば、仏教目線で。  

yuniko99
質問者

お礼

私は仏教は詳しくないですが お経でも読んでみたくなりますねえ 理的というと唯物論から唯心論まで理的に入るのでしょうか? 情的というのは人間の生きる感情でしょうかねえ 人がいかに生きるかというのも哲学の大切な問題ですからねえ。 どうも大変ありがとうございます。

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