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神は人間を何であると思っていると思うか?

 神は人間を何であると思っているとあなたは思いますか?  質問者のこたえは わたしにとって神は 信じているのであって・つまりは わが心なる《非思考の庭》に受け容れているのであって 何とも分からないというものです。   ○ わが心(身と心)の成り立ち    信仰:非思考の庭:ヒラメキ    -----------    哲学:思考の緑野:思考・想像    知覚:感性の原野:直感   ・ なお 《哲学》には シュウキョウのオシエが入ります。それは 信じるものではなく 考えるものです。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • epusiron
  • ベストアンサー率24% (15/62)
回答No.2

子供では あなたには通じないか・・ 「我が子」

bragelonne
質問者

お礼

 あぁ 分かりました。  ★ 「我が子」  ☆ いとしいのでしょうね。  ありがとうございます。  ひょっとして だとすれば われわれ人間は 神のことをわが父と思っているのでしょうかね。

bragelonne
質問者

補足

 みなさんへ。  もしさらにご投稿がつづくようでしたら ほかのたとえば【Q:これが さとりだ】などに寄せてくださるようお願いします。  BA は オーソドックスなお答えをえらびました。

その他の回答 (16)

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.7

>それが どんな内容なのか分かりかねますが 考えるにちょっと内政干渉にならないですか? だから控えるのですw 100%理解出来る等と言うレベルではありませんが・・。 いや、私の妄想だと言うのならば、其れは其れでいいのです。 論破して下されば。 >☆ たぶん《一色塗りつぶし》と《一人ひとりぜんぶ違う》とのあいだに 《いくらかの人びとは これこれこういった神についての見方を共有している》というような事態もあるのではないでしょうか? 無いです。 絶対。 単純に仲良しの間柄なだけか、共通認識を「偶然」に持っているだけです。 其処にしがみ付きたい人物を、いちいち私は関知しません。 ただし其の理論で他を巻き込む場合は、容赦しません。 何故なら、外から見て其れを判断出来る訳も無いのに、自信を持って振りかざす人物を信用等は出来る訳もありません。 何を持って其の「内面」を担保するのでしょう。 >神観は その枠組みのようなものとしてなら 多くの人が共有することが出来るとも思いますから。 それは生活上の習慣レベルでの話です。 別に其れを「神」と呼ぶのは否定しませんが、赤道直下での生活ルールを、北極圏で適用出来る訳も無いでしょう。 というより、何故に「共有」の必要があるのですか? 共有しなければいけないと言う発想が、既に大きな落とし穴に落ちています。 共有しない方もいれば、出来る方も居る。 其の程度の事でしょう。 共有が幸せなのでしょうか? あぁ、勿論、生活習慣上に於いての共通認識は、同族として持っていなければ話になりませんw >ただし この質問は いたって簡単かつ単純に表題の問いを問うています。それだけの・ちょっとマの抜けたような問いです。 シンプルで良いと思います。 むしろ変な定義を羅列されると萎えます。 言葉を増やせば、幸せになれると言う訳でもないですから。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~   >それが どんな内容なのか分かりかねますが 考えるにちょっと内政干渉にならないですか?  だから控えるのですw  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いえ。わたしが言うのは もし《内政干渉》になるような問い求めである場合なら それを全部最後まで明らかにして伝えるか それともそのような内政干渉になるような問い求めは 相手に気づかれる前にやめにするか。このどちらかにするのが よいのでは? という問いです。  いえ。わたしは その中身については 分かりません。いま推測もしていません。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~    >☆ たぶん《一色塗りつぶし》と《一人ひとりぜんぶ違う》とのあいだに 《いくらかの人びとは これこれこういった神についての見方を共有している》というような事態もあるのではないでしょうか?  無いです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これもまだ実際のその中身については分からないままでの議論になりますが もし《無いです》というのであれば おそらく《一色に染まる》ということもあり得ないでしょう。そして 《一人ひとりぜんぶ違う》という場合も おそらく無いでしょう。  ★ 何を持って其の「内面」を担保するのでしょう。  ☆ いえ。こういう神観の議論は 所詮外形だけの話なのです。別に担保されていても・いなくても それぞれ自分の見解を出し合えばそれでよいのだと思うのですが。  そして それは内政干渉にはなりません。《内政もしくは内心》を外形的に表現して互いに伝え合うだけですから。  ★ それは生活上の習慣レベルでの話です。  ☆ いえいえ。どのレベルでも当てはまります。というのも 神観は 信仰の内容そのものではないのです。あるいは その内容についてイメージのようなものとして表わし伝え合うだけだからです。  ★ というより、何故に「共有」の必要があるのですか?  ☆ いえ。違いについて共通の理解を得るという場合もあります。それも 共有になるのではないでしょうか? 神観としては。  つまり ちょうどねむりねこさんと老子の神観をめぐってやり取りをしています。神は《不仁》だと言う。仮りにこれを 《愛ではない》と採るとすれば それについて自分の神観とくらべて違いをも互いに理解しえます。同じ部分もあるのですがね この場合。(すでにやり取りが出来ています)。  これは 老子という第三者の神観だから 内政干渉にならないのではなく そうではなく 自分の神学であっても同じです。  そして けっきょく部分観において 同じであったり違っていたりするのだと この場合ですが 見られます。  そこから推測を伸ばすとすれば おそらく《一色塗りつぶし》や《一人ひとりみな別々》といった場合は 無いか稀れなのだと思われます。  そして さらにもう一点ですが いま《部分観で共通であったり違いがあったりする》と言いましたが この具体的な主観も けっきょく外形的なものだと思いますよ。神ないし信仰にかかわることがらとしてはという意味です。    こんな感じだと思います。  

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.6

>☆ あぁ。人間の思いに合わせて 神もあたかも同じように・同じ程度に その人のことを認識している。でしょうか? 一人ひとりそれぞれ 違うわけですね。すべての人に神は合わせることが出来るということですね。 ううーん。なんかさびしい感じもしますが。 此処で共通認識は取れません。 つまり此の時点で神は人間が神を思っている程度でしか無いという事です。 あまり此のレベルの話をすると、他人を傷つけるので私はなるべく控えているのです。 世界を一色と思い込むのは自由ですが、勝手に塗りたくる行為を担保するものは「神」ではなく、「自分」のはずです。 自分色で単色の世界を現出させる為に「神」を持ち出すのは「卑怯」でしょう。 「ごらん、世界は美しい」 私の好きな言葉です。 虫の音を聞いて「雑音」と感じるか、「季節」を感じるか。 音は同じです。 感じ方が違います。 音に支配されているのでしょうか? 感覚に支配されているのでしょうか? 貴方も私も、諸共全て、皆が皆して、美しい

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。    ★ つまり此の時点で神は人間が神を思っている程度でしか無いという事です。  ★ あまり此のレベルの話をすると、他人を傷つけるので私はなるべく控えているのです。  ☆ 何だか 他人(ひと)の心の中についてまでも触れておられるのですか?  それが どんな内容なのか分かりかねますが 考えるにちょっと内政干渉にならないですか?  ★ 世界を一色と思い込むのは自由ですが、勝手に塗りたくる行為を担保するものは「神」ではなく、「自分」のはずです。  ☆ たぶん《一色塗りつぶし》と《一人ひとりぜんぶ違う》とのあいだに 《いくらかの人びとは これこれこういった神についての見方を共有している》というような事態もあるのではないでしょうか?  ★ 自分色で単色の世界を現出させる為に「神」を持ち出すのは「卑怯」でしょう。  ☆ たぶんわたしが 《ううーん。なんかさびしい感じもしますが。》と言ったので それは ほかの人びとに対して 神の見方を《統一して持つように》と言っていると受け取ったのでしょうか?  それでもよいですが。つまり 神観は その枠組みのようなものとしてなら 多くの人が共有することが出来るとも思いますから。  ただし この質問は いたって簡単かつ単純に表題の問いを問うています。それだけの・ちょっとマの抜けたような問いです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  「ごらん、世界は美しい」  私の好きな言葉です。  ・・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この世界観を 表題の問いに関係させて論じてもらえればよいわけです。そんなやり取りです。そこからであっても 何かヒラメキの問題などでそれこそヒラメキが得られればよいがというコンタンです。

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.5

人間が神を何かと思っている程度

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ん?  ☆☆ 神は人間を何であると思っているとあなたは思いますか?  ★ 人間が神を何かと思っている程度  ☆ あぁ。人間の思いに合わせて 神もあたかも同じように・同じ程度に その人のことを認識している。でしょうか?  一人ひとりそれぞれ 違うわけですね。すべての人に神は合わせることが出来るということですね。  ううーん。なんかさびしい感じもしますが。  《何とも分からない》というわたしの場合のほうが さびしいですかね。

回答No.4

☆そういう自己揚棄は 老子にはないのですかね? ◇う~ん、どうでしょう。 老子第五章は、この後に 「天地の間は、それなお橐籥(たくやく・「ふいご」のこと)の如きか。虚にして屈せず、動きていよいよ生ず」 とあります。 (天地、つまり、道は不仁だから、) 天と地の間は、金属を溶かす「ふいご」のようなものだろうか。虚ろだから、屈する(行き詰まる)ことがない。それでいて、ますますいろいろの物を生み出す、 くらいの意味でしょうか。 《不仁》は難しいですよね~。 《不仁》は「天はことさら誰々に気を配るようなことはしない」という意味なのかもしれないので。人のように、そのような殊更の働きはしない・・・。 それでいて、あるいは、それだからこそ、世界は調和している、うまくゆく、行き詰まることがない、 というようなことを言っているのかもしれないです。 ある種、予定調和的なことを表現しているのかもしれない。 老荘特有の逆説的な表現なのかもしれない。 そうではなくて、 字義通り、 処世の方策を説いているのかもしれないし・・・。 まぁ、それはそれとしまして、 『老子』ですから、この後にオチがついています。 「多言は窮す。中(空っぽ)に如かず」 「(自分のことや自分の考えなどを)べらべらと喋ると行き詰まる。(心を?)空っぽ、虚しくするに勝るものはない」と続きます。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ◇ 《不仁》は難しいですよね~。  ☆ ひとつヒラメキました。つまり 孔子をなじっている。仁ぢゃないんだよと。仁なんてのは むしろ人為的な小手先細工だ。そんなものではないんだと。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~   「多言は窮す。中(空っぽ)に如かず」    「(自分のことや自分の考えなどを)べらべらと喋ると行き詰まる。(心を?)空っぽ、虚しくするに勝るものはない」と続きます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ん? つまり 《無為》ぢゃなかったのですか? 《(心を?)空っぽ、虚しくする》と言ったら まるでニルワーナの修行みたいぢゃないですか。つまり 《有為》になってしまわないのですかね?  老子も 意外と 小忙しいみたいですね。

回答No.3

『老子』第五章には 「天地は不仁、万物を以って芻狗(すうく)となす。聖人は不仁、百姓(ひゃくせい)を以って芻狗となす」 という言葉があります。 天地は道のことであり、完全には一致しないでしょうが、まぁ《神さま》のこと。 芻狗は ───────── 芻狗  《老子》,《荘子》天運篇などに見える〈芻狗(すうく)〉は快気祈願や厄払いのために神前に供えるわら細工の犬のことで,周代から三国時代ころまで行われたらしく,犠牲の代用品といえる。 http://kotobank.jp/word/%E8%8A%BB%E7%8B%97 ───────── です。 案外、《神さま》というのは、この様な存在なのかもしれません(ポリポリ)。 少なくとも、人の目線からでは、 不仁、つまり、(人や万物に対する)愛を持っていないように見え、 それらを、芻狗のごとく、粗略に扱っているように見えるのかもしれませんね。

bragelonne
質問者

お礼

 気軽な質問です。ご回答をありがとうございます。  ふむ。  ▲ 聖人は不仁、百姓(ひゃくせい)を以って芻狗となす」  ☆ これは そのとおりでしょうね。特にお二階さんの場合 心は純真でも その地位や立ち場からは 人びとを《こき使う》ことになるのであろうと。  ▲ 「天地は不仁、万物を以って芻狗(すうく)となす。  ☆ 天地が 神のことだとしたら。いけにえを供えよといつも言っている。ということですかね。    ▼ (マタイによる福音書/ 9章 11-13節) ~~~~  11: ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。  12: イエスはこれを聞いて言われた。   「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。  13:『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』(ホセア書6:6)とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまり   ▼ 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』(ホセア書6:6)  ☆ という言葉もあるものの 憐れみがつねに神からも人びとからもおこなわれたわけではなかった。  ですから  ▼ 風は 気ままに吹く。  ▼ ~~~~~~~~~~~~    神はあわれもうと思う者をあわれみ    いつくしもうと思う者をいつくしむ。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というように言わばエコヒイキがあると思われます。つまり  ▲ 天地は不仁  ☆ も分からないではないのですが。  つまり 旧約の神は エレミヤ書(31:31~)をつうじて イエス・キリストによって みづからをアウフヘーベンしてしまいましたから。(人びとのいままでの罪をもう覚えない。そして 神を知れと言っておしえることはなくなる。という自己揚棄)。  そういう自己揚棄は 老子にはないのですかね?  ○ 歴史の狡知  ☆ という命題もありましたね。

  • epusiron
  • ベストアンサー率24% (15/62)
回答No.1

子供

bragelonne
質問者

お礼

 えぷしろんさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 子供  ☆ 神の自分のですか?   それとも そうではなく 大人と対比したかたちで一般的に子どものことですか?  判断力がまだよわいということですか?  自分の子どもだとすれば いとしいのですか?  ・・・

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     たたき台を述べます。その当否を問うています。  《分かるか分からないかが分からないナゾ》 とは《非知》と呼ばれる。  それは 《非経験の場》である。  すなわち 図示しますが:  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~   非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)  _______________________   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)  ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《宗教》というのは 個人が信仰にあって得られたヒラメキを観想(テオーリア)としてコトバに表現したところに発する。すなわち その観想を表現したものを オシエとするところからである。  オシエのもとに群らがり始めたら それは個人の信仰を去って その抜け殻としての宗教に変身したことを意味する。そこは 《信じる》の問題ではなくなり 《考える》をとおして理解した人間のあたまの中の観念の神へと変わる。  けれども 神は 非知なるナゾである。    人間は いのちのもとにあるから・そして命のつづくことを欲し・また良くつづくことを志向するから このイノチのみなもとなる神を 善と見る。至高の善という属性を 神に付与する。じっさいには 善悪の彼岸としてのナゾの場である。  同じようにして この上ない愛・慈悲・また 義あるいは真理とも呼ばれるようになる。愛憎をふくむ愛 あるいは 相対的な主観真実における義不義や真偽を超えたところの真理。  神が この世界を見守るというようなイメージにまで人間の想像が及び これは 摂理というコトバで呼ばれる。そこから ダルマまたは宇宙の法則などとも呼びたくなり呼ぶ場合もある。  ところが 《非知:すなわち 人間の能力では分かるか分からないかが分からないナゾ:つまり非経験の場》のことを想像し思ってみたとき そこにすでに神に触れた感覚(予感)が得られるのではないだろうか。  これを 《考える》ではなく 《信じる》と呼ぶが この信じるは 信じないと言っても 同じコトになる。信じないと信じたことになる。《非知に触れた感覚》 これが神と接した体験である。

  • 神について

     1. 哲学として現実の問題をあつかいたいと思うとき この主題があいまいであると なかなか話が前へすすまないという事態になります。そこで:  2. 神について最小限必要なことがらを共有しておくことは 大事だろうと考えます。  2-1. ただしこれは 《神についての説明》の共有であって 《神そのもの》のではありません。神とわれとの関係は その人自身の主観の内面にとどまります。  3. たとえば次のような説明があります。  ▲ (アウグスティヌス:神のかんたんな定義) ~~~~~   物体のように 場所と時間によって可変的な本性が存在する。   また魂のように決して場所によらないで ただ時間によってのみ可変的な本性が存在する。   さらに場所によっても 時間によっても 変えられ得ない本性が存在する。これが神である。   (『書簡集』18・2  390年頃)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    4. ここから 次のように整理します。《物体》は 《感性》の問題であり 《魂》は 《理性ないし思考》のそれであり 《神》は 《非思考すなわち 信じる》の問題であると捉えます。  ○ 《非思考の庭》のわが存在における位置 ~~~~~    非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  5. あるいはつまり われわれ人間は 神をもひとつの概念として捉え その概念(ないし言葉)をとおして神を思うということがあるとしますと そのときわれわれの思いは とうぜんのことながら 永遠につづくわけではありません。  5-1. すなわち 人間の思いは――神という言葉を補助線として 何とか神を望み見ようとするときその思いは――かなしいかな・いかんせん 断続的であり 変化してしまうことがあります。  5-2. ところが 神は――と言って推測をたくましくするなら―― そういう思いの切断や変化 こういったことは起こらないと考えられます。  5-3. すなわち 神は うつろいゆくものではない。人間は変わりゆき やがて朽ちざるを得ないのですが 神は そうではない。  6. 最小限必要なこととして 以上のような説明内容は 一般にも共有され得ましょうか どうでしょうか。これを 問います。

  • 日本人の神とその信仰

     1. 神という言葉で言っているのは ふつう 神本体の依り代である。神な霊(び)なる山や磐座(いはくら)なる石などであり そして神社であっても神殿に神のシルシはなく ただ奥の山や杜が 依り代となっているだけである。  2. 依り代つまり神を理解するための補助線が けっきょく八百万の神々として受け留められている。に過ぎないのではないだろうか。  3. むろん神は ひとつです。つまりこの一という数は 全体を表わしている。一同の者とか関東一円とか言って使う。  4. つまり言いたいことは この神の《依り代》とは 大ざっぱな捉え方にはなるけれどもけっきょく神の使いなのである。すなわち 《天使》のことだと思えば話が早い。主体的な存在だとは むろん 捉えられてはいない。だけである。  5. だとすると 図式としてどうなるか。これまでに 神とその信仰は 次のように捉えて来たけれど さらに詳しく見るとどうなるか?  ○ (非経験の場=非知 なる神を受け容れる《非思考の庭》)~~~   信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;ヒラメキ直観   ----------------------    考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教   感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   ・《非思考の庭》は 次の二層構造を成すと考えられる。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  6. クリスチアニズムでは 天使を――必ずしも必要とは思わないけれど――説明に加えると 次のごとく:  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  ○ 自然本性におけるヒラメキの位置 ~~~~~~~~~   (――または ロゴスの階層――)    (――または 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何があるか――)    ( ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 )   神なる聖霊:スピリトゥス=ロゴス(α)      -----------【天使(α’):ロゴス(α)の使い】-----------   神の宮なるわれ:クレド(信じる;非知なるナゾ⇒非思考の庭)   -------------------------   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ          インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕:経験合理性に         もとづこうとする論理    * ~~~~~~~~~~~    ・ロゴス:ことば    ・スピリトゥス:霊。聖霊    ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)    ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば    ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。     〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕    ・ラチオ( ratio ):理性     〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕    ~~~~~~~~~~~~~~   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  7. では 日本人の信仰のかたちは?   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   神なる霊: 大いなる《?(なぞ)》   -----------《依り代=補助線》-----------   われの内なる霊:信じる(=きよらかなおそれ)   -------------------   われ(自然本性):思考の緑野・感性の原野  8. 違いは 天使は目に見えないが 依り代は 山や石や目に見えている物であり しかもその物をとおして神なる霊を見る。つまり 目に見えない。心の目にも見えないと思う。  以上を問います。

  • 神は ヤハヱーもキリストもアッラーフも同じでは?

     霊のお話です。  神の霊は しんじるのであって 考えるのではない。  信仰は 非思考である。  ゆえに:  ○ (ワタシなる存在における《霊》の位置) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  したがって 《非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)》における《神》は 全体として ひとつであって その名が違っても何らその神に差はない。   ヤハヱー・キリスト・アッラーフなどなどという名は そういう言葉として 《思考》の次元であるから。《非思考の庭》にとっては ただそれを代理してあらわすシルシに過ぎないから。  《無い神》という名の神であっても 同じくである。〔下記の(2)の例を参照〕  参考に 宇宙の霊と 《小宇宙(わたし)》の霊との関係を次のように図解しました。  1. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン主宰神    我:アートマン霊我  2. ゴータマ・ブッダ:無無一如    無:シューナター(空)=ゼロ    無:アン‐アートマン(無我・非我);ニルワーナ(寂静)  3. ブディズム:仏仏一如    仏:アミターバ(阿弥陀仏) / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)  4. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  5. (プラトン?):霊霊一如    霊:プシュケー・コスムー(宇宙霊魂) / アニマ・ムンディ( 宇宙霊魂)    霊:《われ》  6. シントウイズム:《あはっ!》:もののあはれを知る    =きよらかなおそれ    =聖なる甘え    =わび・さび  こう捉えておけば もう神の議論は要らないと思われます。そういう問い求めです。いかがでしょう? 

  • 神 信仰ならびに宗教についての一般理論

     哲学カテが 劣化して来ていませんか。  神とは何かについて 十年一日のごとく ああでもないこうでもないと おままごとを繰り返していませんか。  神は人間がつくったんだとか 全知全能なら何でもできるのではないのかとか いったい全体 よくもそんな落書きを書きなぐって 哲学だと言えるのでしょうか。  人類史上もっとも新しいもっとも妥当な見解を示します。  あらゆる疑問と自由なご批判をフルボッコでどうぞお寄せください。  1. 神は 概念ではないのですが 人間の言葉で・つまり概念として何とか理解しようとひとはつとめます。  2. 概念ではなく経験事象ではないという意味は 次のように図示できるはずです。   (あ) 神は 《非知》である。 ~~~~~~     経験事象       可知         既知         未知       不可知(知り得ないと知ったものごと)     非経験の場(因果関係から自由な場を想定する)       非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3. この非知ないし非経験の場を・つまり神をひとが心に受け容れた――これが《信じる》ということなのですが――とき われわれ人間の存在のあり方として次のように図示出来るのではないか。   (い) 《信じる》のは 《非思考の庭〔なる動態〕》である ~~~     信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;⇒ヒラメキ直観     --------------------------     考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教     感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3-1.  《オシエとしての宗教》という意味は まづ一般に成文化されていなくても何らかのオシエがあります。これが 教義となって教祖・教団をともなうなら まさに宗教です。      3-2. 言いかえると オシエは 概念であり想像の世界でもあります。つまり 宗教は 《信じる》とは別の問題であり領域です。宗教の説く《神》は 信じる神とは 別物です。  3-3. もともとは 《信じる》からオシエが得られたとも言えるでしょうが 言葉として教義として成ったなら それは言わば《信仰というセミの抜け殻》になってしまいます。宗教は じつは信仰の自殺行為です。  4. 《信仰》である《非思考の庭》は 実際に具体的に次のようなかたちを採っています。  《梵我一如》というかたちを 一般類型として捉えることが出来ると思います。   (う) 信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えることができる ~~~~~   =《非思考の庭》が 次の二層構造を成すと考えられる。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   4-1. 神は 名がちがっても みな同じひとつの神である。つまり 《非知》である。  4-2. 非知は 経験事象を超えており因果関係から自由であり 経験的な有無をも超えている。     よって人間の言葉で表わそうとすれば 神は有るとも無いとも言いうる。非知は けっきょく絶対ということですから 絶対有とも絶対無とも言い得ます。  4-3. すなわち 有神論も無神論も まったく同じ《非思考の庭》なる信仰である。と帰結されます。     有神論の中で その神の名が いくつかに分かれるというかたちです。       4-4. なお 多神教だとか汎神論だとかというのは 神の《依り代》がいくつかあると見立てた結果持たれた信仰のかたちです。同じひとつの神が 具体的に山の神や海の神として依り代(または 補助線)になっていると見るとき やほよろづの神々が持たれます。  4-5. むろん 《非知》というのも・そして《神》というのもすべて神を理解しようとして持たれる人間の言葉なのであり それらは・それらもすべて 神の依り代です。《かみ》という言葉は 神そのものではなく 依り代のひとつです。神を知りたいというとき人が自由に引く補助線です。  4-6. 人びとは この補助線(依り代)として臨時に用いる神にかんしてその概念を問題にして 全知全能であるとか いやそのように人間がつくったんだとかと言っています。仮りの理論であると心得ないのなら ちゃんちゃらおかしいと哲学は言わなければなりません。  4-7. 神についてのお医者さんごっこは もうやめにしましょう。さもなければ 哲学の劣化は じつに人間の劣化そのものです。  4-8. なぜなら むかしの人びとは それでもまだ曲がりなりにも素直な心で ほんとうの神――非知なるナゾ――をそれぞれ信じていた〔と言える部分が大きい〕と考えられるからです。信じることはそっちのけであるわ かと言って思考能力はおままごとの状態にとどまるわでは いったい何のかんばせがあって みなさんは 生きているのか。