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官兵衛が、毛利氏への臣従を進言したら、毛利氏が天下

最近、黒田官兵衛について、姦しいですね。これに悪乗りします。 官兵衛が、天正3年小寺氏に、織田氏への臣従を進言しました。これにより、小寺氏は助かったわけです。これを機に、官兵衛は織田氏に近ずき、その興隆に働きました。その後、秀吉の天下を取ることに、重要な働きをしました。 ところで、もし、官兵衛が小寺氏に、毛利氏への臣従を進言したとしたら、毛利氏が天下を取っていた、と(半分、お遊びで)想像します。これは、官兵衛についての、過大評価でしょうか?

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  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.4

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E4%BF%A1%E8%A6%AA 長宗我部信親 天正3年(1575年)に元親が中島可之助を使者として織田信長と誼を通じたとき、信長を烏帽子親として信長の「信」を与えられ、「信親」を名乗る。このとき、信長から左文字の銘刀を与えられた。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E8%BC%9D%E5%AE%97 伊達輝宗 天正3年(1575年)7月には中央の実力者織田信長に鷹を贈ったのをはじめとして、遠藤基信に命じて北条氏政・柴田勝家と頻繁に書簡・進物をやりとりして友好関係を構築した。 長篠の戦いのインパクトは結構強くて、信長は大外交戦を行い、全国の大名・小名が信長とコンタクトを取ったようです。 そういった流れの一つでしかないんじゃないですか、小寺も。 なんかものすごい慧眼で・・・みたいな事が諸処に書かれていますが、結果論であって、「勝ち馬に乗るために挨拶しておくべ」というのが、天正3年の日本ではなかったかと。

park123
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 天正3年の <長篠の戦いのインパクトは結構強> かったのですね。各地の大名などは、信長との絆を求めたのですね(もちろん、彼れは、信長への一辺倒ではなく、信長にも、という保険をかけたのでしょうが)。官兵衛の進言も、 <「勝ち馬に乗るために挨拶しておくべ」> というものだったのですね。慧眼なる官兵衛、ということは、割り引いて考える必要がある、のですね。

その他の回答 (4)

回答No.5

とても過大評価です。 普通に小寺氏もろとも滅ぼされておしまいじゃないでしょうか? 史実でも活躍は微妙ですしね。 天下を取った秀吉の配下にいたから有名になれたが・・・

park123
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 <秀吉の配下にいたから有名に> ということですね。運命の巡り合わせによって(もちろん彼も計算したのでしょうが)幸い活躍できたのですね。

  • titelist1
  • ベストアンサー率25% (712/2750)
回答No.3

毛利への臣従を進言するようでは能無しですね。信長の「天下布武」に活路を見出したのでしょう。その当時に天下統一をしようなどと本気で考える大名はいなかったのです。今川や上杉や武田は足利将軍の要請で上洛しようとしただけです。毛利元就などは天下を狙うなと遺言していたのです。天下を狙って失敗した一族は滅ぼされるからです。そのため子の輝元は関が原合戦にも参戦せず小国に成り果てるのです。黒田官兵衛は秀吉の天下統一がなると家督を子の長政に譲り隠居します。それかからが凄いのです。 関が原の合戦前に全国で小競り合いの合戦が勃発するのですが、名を改めた黒田如水は島津が関が原合戦に出兵している隙に九州の北部をあっと言う間に平定するのです。西軍が負ければ島津の力は落ちるので、島津に苦しめられていた九州の小大名を寝返えさせたのです。その後、天下人になった家康の怒りを買い取り上げられますが、諜略の才能は一流だったと思われます。

park123
質問者

お礼

早速のご回答ありがとうございました。 <その当時に天下統一をしよう> など考える大名がいなかったときに、 <信長の「天下布武」に活路を見出したので> すね。 <諜略の才能は一流だった> のですね。 毛利家は、彼の才能が開花する土壌(環境)ではない、のですね。

回答No.2

無理でしょう そもそも毛利元就に天下統一の意思はありませんでした その意思は嫡男 隆元 嫡孫 輝元にも受け継がれます 毛利氏は天下よりも御家の存続こそが信条です 官兵衛は色々と取り上げられ「名軍師」などと言われていますが 実際の才能は「?」です むしろ秀吉が天下を取れたのは官兵衛よりも石田三成の働きが大きいですよ

park123
質問者

お礼

早速のご回答ありがとうございました。 1.<毛利元就に天下統一の意思はありません> ですね。 2.官兵衛の <実際の才能は「?」です> 3、<秀吉が天下を取れたのは官兵衛よりも石田三成の働き> なのですね。 世情の官兵衛人気とは、別なものなのですね。

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.1

歴史の結果から分析したのみの意見ですので、正解とは言い切れませんが、やはり「それは在り得ない」としか言えません。 毛利氏にその強さが無かったのが一番の理由ですが。 毛利氏は合議制を取っていました。 合議制のメリットは間違いが少なくなる事ですが、デメリットは決断が遅く、且つ平均的な損得の勘定を「可能性」から見て平均化してしまう事です。 元就の時代ならば、合議制を施いていても、会議の運営は元就次第ですが、既にそれは不可能になっていました。 中央集権制に慣れていた織田家中の進撃を止めるには至らなかったでしょう。(事実、出来ない) また逆に、官兵衛だからこそ織田家の勝利と読み切ったのですから。 もし小寺家が織田家に追従しなかったら、飛び出していたかも。 一般的な当時の中世の武将のロジックは合議制で、主権が主君に集中している中央集権制等は想像も理解も不可能でした。 ですので最終的に徳川の封建制に落ち着いて、老中による合議制が行われる事実があり、また藩主といえど藩政を自由に行うには家老を抑える力が無ければならなかったのです。

park123
質問者

お礼

早急なご回答ありがとうございました。 1.<毛利氏にその強さが無かった> その理由は、世の中が安定しておらず、変動している時代に、織田氏の <中央集権制> に対して <毛利氏は合議制> だったのですね。 2.そもそも、官兵衛は、 <織田家の勝利と読み切っ> ていたのですね。彼は(悪く言うと)勝馬にのっかったのですね。もちろん、勝馬を見分けることが最重要なことですが。

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