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本能寺の変のあとの家康の帰国

本能寺の変ののち、境に孤立してる家康は伊賀越えにより帰国しています。 ここでふと思ったのですが、堺で傭船をして陸路ではなく海路三河に帰ることはできなかったのでしょうか?

  • 歴史
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みんなの回答

  • titelist1
  • ベストアンサー率25% (712/2750)
回答No.8

家臣の記述では本能寺の変を知ったのは夜明け前で慌てて暗いうち出発しています。本能寺の変が起こることを事前に知らせたものがいるのです。知ったのは堺の町ではなく、海路での帰国は選択技になかったのです。知らせを聞いて直ぐに出発しているのはさすがです。本能寺の変の家康陰謀説ならこんなに危ないところにはいないはずです。 家康は穴山梅雪と共に出発したが梅雪は伊賀越えで家康に殺されています。梅雪は武田信玄の親戚ですが、信長の手先となって信玄の後を継いだ勝頼を陰謀で殺しで家督を奪った人間です。家康は信長の死を悟り、その手先の梅雪を殺したのです。三河に帰り直ぐに出兵して旧武田の領地を奪い取り、武田騎馬軍団を支配下に置いています。大返しした秀吉も凄いが家康も凄いのです。 本能寺には町屋に通ずる抜け穴があったと言われています。光秀は知らなかったはずです。それを塞がせた者がいたと思われます。その者が前日の茶会を開かせ、光秀を操った陰の首謀者です。本能寺は焼失の場所に再建されずに少し離れた場所に再建されたのは、抜け穴の事を隠すためであったと言われています。

jkpawapuro
質問者

お礼

御回答ありがとうございました。

noname#224207
noname#224207
回答No.7

>境に孤立してる家康は伊賀越えにより帰国しています。 正確には境にいたのでは無く、境から京都へ向かう途中の長尾街道の四条畷(飯盛山)付近で第一報を手にしたようです。 確かに境へ戻って船を仕立てることは充分可能だったと思われます。 ただ、船という乗り物は順調に航海している場合は有用な乗り物ですが、一たび海上で敵に遭遇すると恐ろしく始末の悪い乗り物です。 軍船としてそれ相応の装備をしていない限り、敵船に襲われれば、身動きのできない水に浮かんだ木造の箱と化してしまいます。 松明一本投げ込まれたらOUTです。 当時、境の付近は信長の配下の九鬼氏の水軍の勢力範囲でした。 咄嗟のことで、誰が味方か敵か分からない状況下でこの九鬼氏の協力を取り付けない限り安心して出航できません。 後に秀吉がこの九鬼氏を配下にしていますが、当時家康とどの程度親密であったかが不明です。 むしろ家康の家臣団が海路を選ばなかったのは、九鬼氏とはあまり親密ではなかったのでしょう。 ある意味でお互いに信用できない間柄だったのではないのでしょうか。 又、たまたま土地勘のある長谷川 秀一が同行していたことが幸いしたようです。 平城京の昔から、奈良から東国へ向かう街道は木津川沿いに伊賀へ抜けるのが通常の道順でした。 更に伊賀から鈴鹿山脈を超えて桑名近辺にでるのが普通でした。 東海道が草津を経由するように整備されるのは江戸時代以降です。 つまり、家康の一行は何も特別な道を通った訳ではなく古来からの道筋をたどっただけです。 陸路三河へ向かう道がある上に、土地勘のある長谷川秀一がいればあまり迷うような選択ではなかったでしょう。 道中たしかに野盗には悩まされたようですが、戦闘が商売の連中ですから、後世の大人しい歴史学者とは感覚が違っていたかと思います。 後にいろいろ当時のことが書き残されてはいますが、偉人賢人の業績には苦労話がつきものですから、猛烈に苦労したように記録されたのでしょう。 服部半蔵が同行していて、彼の存在を強調する向きもありますが、半蔵自身は傍系で、どの程度顔がきいて土地勘があったのかが分かりません。 その点、長谷川秀一は土地の国人衆にわたりをつけながら一行を案内したようです。 鈴鹿山地から抜けて白子浜へ出たあとは、サッサと船に乗って三河へ戻っています。

jkpawapuro
質問者

お礼

スタートが堺ではなく飯盛山ですか。確かにバックしてうまく海路が確保できないと最悪な事態になりますね。 御回答ありがとうございました。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10507/33045)
回答No.6

「家康は本能寺の変を知っていた」という「陰謀説」をとるなら、そこは違和感はなくなりますよね。 脱出の手引きをしたのは伊賀忍者の部下を持つ服部半蔵であったこと、伊賀は信長と長年対立していて潜在的反信長の地であったこと、よくよく考えれば裏道を通りながらほぼ最短ルートであったこと、同行していた穴山梅雪がなぜか変後の混乱で殺されちゃったことなんか、「ちょっと出来過ぎー」って思うほどですね・笑。 仮に陰謀がなかったとしても、同行していた家臣団の中で最も頼りになったのは伊賀に人脈をもつ服部半蔵でした。彼の手引きで伊賀越えで帰国するのが最短かつ安全なルートであったと思います。 それに、実は和歌山沖って黒潮があたるので航海の難所で有名なんですよ。ここで遭難すると、黒潮にのって太平洋に流されちゃいますからね。

jkpawapuro
質問者

お礼

陰謀説に立つと、無防備で且つ迅速な対応のできない堺にいたことからして違和感ありまくりです。 和歌山沖が海路の難所ですか、確かにそれはそれで危険ですね。 御回答ありがとうございました。

  • izuhara
  • ベストアンサー率31% (97/310)
回答No.5

いくつかの理由が考えられます。 1 信長の死によって、海路は安全ではなくなった     途中で、淡路の海賊衆や雑賀衆の反織田派に襲撃される可能性があります。 2 風待ち、潮待ちで途中滞在日数がかかる可能性 3 三河はそこまで遠くない  この辺りが陸路を取った理由ではないでしょうか。

jkpawapuro
質問者

お礼

御回答ありがとうございました。

  • 1paku
  • ベストアンサー率21% (344/1575)
回答No.4

帰国路を特定されない隠密行のためでしょう。 堺で、乗る船を捜してる最中に、追っ手が追いつく可能性大です。 また、順調に行けば、風任せの航路より、陸路の方が早いです。 紀伊半島がある分、距離が長くなりますし。 ゴールは三河ではなく、三河から出発する予定の留守部隊の勢力圏までですから、その分、さらに移動距離は短くなると期待できます。 帰国中にも、情報収集と、書状をあっちこっちに送る情報戦が可能ですし。

jkpawapuro
質問者

お礼

徳川の中枢を担う人材がこぞって堺にいるようじゃ、やはり情報戦より安全が最優先のように思います。 御回答ありがとうございました。

回答No.3

できなかったからこその伊賀越えですね。 紀伊半島経由の海は荒れる。海賊も出る。家康とその一党は海に疎い。 実際、海路の確立している白子から三河までは 海路を利用していますからね。 船が使えれば使っているわけです。 それに比べれば陸路はお手のものです。 あとは道中の治安だけですが、 地元の伊賀衆などの道案内(というより道中の安全を約束した)が あれば、早く帰国できるという意味でも陸路しか なかったと思います。 もちろん、陸路がすべて安全であったわけではないのは 周知のとおりですが、まだまし。というレベルではあったでしょう。 一説では、本能寺の急変を聞いたのは河内の国あたりであった。 急きょ進路を変更したという説もあります。 こちらはけっこう詳しいのでご参考に。 http://www.m-network.com/sengoku/ieyasu/igagoe00.html

jkpawapuro
質問者

お礼

御回答ありがとうございました。

回答No.2

対立?してませんよ? 信長暗殺という変事 いわば緊急事態 あらゆる事に備えて港を封鎖するのは当然の措置ですが

jkpawapuro
質問者

お礼

対立していないのなら一般船舶に対する措置と家康に対する措置を同列には論じられないと思いますが。 ご回答ありがとうございました。

回答No.1

無理でしょう 当時堺には 四国討伐を控えた信長の三男信孝と守役の丹羽長秀が居て本能寺の変の報せを聞いて堺の港を封鎖しました なので家康が海路で三河に戻るのは不可能です

jkpawapuro
質問者

補足

信孝と長秀って家康と敵対する立場なんですか?

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