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宇宙の彼方からは見た地球はあまりに小さかった

  宇宙の彼方からはやぶさが地球の姿を捉えていた。 それはあまりに小さな世界、ただの砂粒一つに過ぎなかった。 我々人間が生きている世界とはこの小さな点の中に過ぎなかったのである。 この小さな点の中で人間は喜んだり、悲しんだり、争ったりしている訳である。 色即是空空即絶式、この世の全ては無であり空であるとは正にこのことなのであろうか。  

みんなの回答

回答No.11

>無限遠点から地球を眺めると砂粒にもならず完全無になる。 はやぶさは永久に無限遠点には達しないという物理が理解できないのじゃな。

hitonomichi33
質問者

お礼

  >はやぶさは永久に無限遠点には達しないという物理が理解できないのじゃな。 まだ分かってないな。 はやぶさは無限遠点に近づくことは可能である。 無限ってのはね、一つのプロセスなんだよ。 もくぞーさん、あんたやっぱ修行がたりんな。  

回答No.10

>宇宙の彼方からは見た地球はあまりに小さかった それでも地球は月よりも大きかった、ってか? 何で、大小と有無がごっちゃになるかなぁ? まあ、大小と有無をごっちゃにするレベルでは、有限と無限の区別を期待しても無理だよね。

hitonomichi33
質問者

お礼

  >何で、大小と有無がごっちゃになるかなぁ? ある量を超えると量の違いは質の違いをもたらすって話聞いたことあるかい。 無限遠点から地球を眺めると砂粒にもならず完全無になる。 これは事実である。 色即是空空即是色とは正しくこの事実を物語っているのである。 どーじゃ、それでもなお大小と有無がごっちゃになってるなんて言えるんかい。 もくぞーさん、あんたやっぱり修行がたりんな。    

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.9

では、君の口にする「無」とは「小」の意味か。 比較からは「無」は捉えられない。

回答No.8

「宇宙の彼方からハヤブサが地球の姿を捉えていた」という言い方はどうかな? せいぜい、太陽系の外からでしょう。 「宇宙のかなた」なんて言うと、宇宙空間の外からに誤解します。 私たちは宇宙空間の外に出られないし、また銀河系の外にだって出られないのだから、「宇宙の彼方」という言い方は大げさです。 大きいとか小さいとかは相対的なものだから、太陽系の外から見たら地球は小さいかもしれないけど、地上から見たら、地球は巨大です。 どんなに小さくたって、無ではないのだから、それを色即是空、この世のすべては無であり、空である、ということは出来ません。 それは飛躍のし過ぎ。 しかも地上の生き物からすれば、地球はかけがえのない存在であり、生命の泉なんだから、それを虚無だとか空なんて言えるはずがありません。 たしかに人間は自分を宇宙空間の外に立ってこの世界を見下ろしているような視点を想像力で持つことができます。 それは人間だけの特権で、他の動物の有しないものです。 自分をその生きている環境から切り離して客観的に見ることができる。 かつて作家の安倍公房が「大きなものばかり見ていると死んでしまいたくなる。小さなものを見ていると生きていても良いように思う」といったように、大きなものから私たちを見れば人間はいかにもちっぽけで、ゴミやチリのような存在に過ぎない。 だから、「この世のすべては無であり、空である」と思うのももっともですが、しかし、物事は巨視的な視点と同時に微視的な視点も持たなければならない。 微視的な視点から見れば、地上で一生懸命、エサを求めて行列をしている蟻の姿は生命そのものであり、私たちに生きて行こうと励ましてくれるものです。 また、人知れず野山で可憐な花を咲かせる花々も生命そのものであり、地球の息ぶきそのものでもあります。 私たちはそのような美しい自然に取り巻かれて生きています。 どうしてそれが無であり、空であるでしょうか? 私は毎朝、窓を開けて、木々の緑や花々の咲く、色彩溢れる景色を見て、世界が存在していることはなんと素晴らしいことかと、感謝の念を覚えずにはいられません。 仏教でいう「空」とは無ではありません。 「空」とは、そのまま、ありのまま、という意味です。 存在するそのままが「空」なのです。

hitonomichi33
質問者

お礼

  >たしかに人間は自分を宇宙空間の外に立ってこの世界を見下ろしているような視点を想像力で持つことができます。 はやぶさが宇宙から地上に送った地球の画像は想像ではなく現実であり、そのはやぶさを宇宙に送ったのは人間です。 従って人間が宇宙の彼方から地球を見ることは想像ではなく現実なのです。 まずそこを間違えないように。 >私は毎朝、窓を開けて、木々の緑や花々の咲く、色彩溢れる景色を見て、世界が存在していることはなんと素晴らしいことかと、感謝の念を覚えずにはいられません。 その上で色即是空空即是色をどう捉えますか。 >仏教でいう「空」とは無ではありません。 「空」とは、そのまま、ありのまま、という意味です。 存在するそのままが「空」なのです。 では無と空の違いを分かるように説明できますか。  

回答No.7

 ★ 質問内容とは関係なく、ただ質問者のことを云々しているだけである。 / そんなんで一々回答よこすなってこと理解できんのかい。  ☆ 何をほざくか。  いままでどれだけあんたの質問が まるごと削除されたか 忘れたか。  最後の詰めが成った途端 はぐらかしにかかる。尋常の精神ではなくなる。  精神錯乱を起こして 質問ぜんぶが削除となる。  この反省が先である。  なお言っとくが この質問内容ほどのことは これまで何度となく説明してやって来ている。  どれだけ繰り返せばよいのか。  賽の河原の・・・を。  このあとは たぶんここには投稿しない。意味がないと予想するゆえ。

hitonomichi33
質問者

お礼

  >最後の詰めが成った途端 はぐらかしにかかる。尋常の精神ではなくなる。 はぐらかしにかかるって、それ自分のことだろ。 最後は意味不明のこと並べて逃げるってゆう。    

回答No.6

 ★ 質問には答えず、質問者のことを云々するとは品が無いよね。  ☆ 自分の議論に瑕疵があると知っていながら それをみとめるのをはぐらかして来ていたと思ったが どうも推論について行けないということのようだ。  品が無いどころか ガキの頭の状態にとどまっている。  こういう判定も 回答として寄せておくべきでしょう。  公益のために。

hitonomichi33
質問者

お礼

  寄せられた回答を眺めてみると、No1~No4までの回答はその内容はどうであれ質問内容について回答してくれている。 それは間違いない。 しかしあんたの回答は明らかに質問内容についての回答ではない。 質問内容とは関係なく、ただ質問者のことを云々しているだけである。 そんなんで一々回答よこすなってこと理解できんのかい。  

回答No.5

 こんにちは。  わたしは 質問者は 回答内容についてけっきょく自分に都合のわるいものは 拒絶するという性癖が直っていないし 直らないであろうと見ます。  設問も回答投稿も 無駄であると見なします。  という回答です。

hitonomichi33
質問者

お礼

  回答とは質問に応えることではないのかい。 質問者のことなどどうでもよろしい。 質問には答えず、質問者のことを云々するとは品が無いよね。 で、ここでの質問は何? 何を訊ねているの?  

回答No.4

「見た」地球を含む広大な宇宙は、 脳の中の現象に過ぎなかった。 外の大きさではなく、その事が「空」なのだ。

hitonomichi33
質問者

お礼

  無限遠点から地球を眺めると砂粒にもならず完全無になる。 これは事実である。 色即是空空即是色とは正しくこの事実を物語っているのである。  

回答No.3

バガヴァッド・ギーターの第11章は  https://www.youtube.com/watch?v=acd1eIrWMOo  https://www.youtube.com/watch?v=Zza3uq_uDCQ で聞くことができます。 日本語訳は http://yusan.sakura.ne.jp/library/bhagavadgita/gita11/index.html この日本語訳は、あくまで、参考程度にしてください。 バガヴァッド・ギーターの第11章は、アルケ~信者の必読書です(ニコニコ)。

hitonomichi33
質問者

お礼

  >バガヴァッド・ギーターの第11章は、アルケ~信者の必読書です(ニコニコ)。 アルケ~信者の必読書? 悪いが有瑠慶本願だけで十分である。      

回答No.2

~~~~~~ 色即是空 → 宇宙の彼方から見た地球はあまりに小さな世界、ただの砂粒一つに過ぎない。 空即是色 → 砂粒一つの中にも我々が知らない広大な世界が広がっているのである。 ~~~~~~ であると考えるのならば、 なぜ、 ミクロ・コスモスである生き物に神(あるけ~、クリシュナ・ビシュヌ、イーシュヴァラ・isvara)が宿ると考えないのかな。 アルケ~は、宇宙に遍満しているんですぜ、ひとのみちの旦那。 アルケ~と無縁に、生き物は生きられないんじゃないですか。 ヒンズー教の聖典『バガヴァット・ギーター』の第11章55節には、 「生き物に親愛の情を示すものが、わたし(クリシュナ・ビシュヌ、イーシュヴァラ)に至る」 と書いていますぜ。

hitonomichi33
質問者

お礼

  もっと分かりやすく説明しよう。 色即是空 → 宇宙の彼方から見た地球はあまりに小さな世界、ただの砂粒一つに過ぎない。 空即是色 → 砂粒一つの中にも我々が知らない広大な世界が広がっているのである。 これはつまり、「宇宙は完全連続体であり、宇宙の如何なる部分も分割可能である」ってことを意味する。 これがすなわち宇宙連続体仮説である。 つまり色即是空空即是色とは宇宙連続体仮説のことだったのである。  

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