• ベストアンサー

太平洋戦争敗北の大元の原因は南進政策の失敗では?

noname#209756の回答

noname#209756
noname#209756
回答No.7

そもそも南進自体が戦線を広げて、よくないといっている歴史家がいたような気がします。 でも、石油は必要ですね。 日本は補給(ロジスティック)をきっちりしないといわれてます。 伸びきったものをたたくのは容易かと思います。 無理して攻めるのでは、やはり続かないのでしょう。

mkfdh
質問者

お礼

ご意見ありがとうございました。

関連するQ&A

  • 1941年、仏印南部への進駐決定を英国は事前に把握

    Wiki「仏印進駐」の「5 日米関係の悪化と南部仏印進駐の決定」によれば、仏印南部への進駐決定を英国は事前に把握していたそうです。 (以下、wiki抜粋) 1941年7月2日の御前会議において仏印南部への進駐は正式に裁可された。(『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱』)。しかしイギリスはこの時点で仏印進駐の情報をつかんでおり、7月5日には駐日イギリス大使ロバート・クレイギーが日本の南進について外務省に懸念を申し入れている。日本側は情報漏洩に驚き、進駐準備の延期を行ったが、(略) (抜粋終わり) 思いついたことを次々と質問して申し訳ないですが、教えてください。 1. どこから情報が漏れたのですか。 日本から米国への外交電文は筒抜けだったそうですから、このルートから漏れて、米国から英国へ伝わったのですか。 2. どの程度の内容まで漏れたのですか。 「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」には、「帝国は本号目的達成の為対英米戦を辞せす」とあります。 よろしくお願いします。 仏印進駐 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E5%8D%B0%E9%80%B2%E9%A7%90

  • 日中戦争から太平洋戦争に至るコミンテルンの影響

    日中戦争から太平洋戦争にかけての歴史を勉強しています。それで、いろいろ想像して、以下の文章を作成しました。詳しい方に、間違いを訂正していただけますようお願いします。 第7回コミンテルンの後、コミンテルンの指導により、西安事件が実行されたと考えています。この西安事件によって、反共抗日の蒋介石が、突然、連共抗日に鞍替えした。 中国共産党の周恩来は、西安で次のような話を、蒋介石に持ちかけたと想像します。 1. 共産党は、蒋介石国民党の中国統一に全面的に協力する。 2. 共産党は、抗日を旗印として、得意の人民宣撫工作を全面的に引き受ける。 3. 共産党は、ソ連からの支援物資を活用して最大限に日本軍と戦う。 蒋介石は、このような話に乗って、第二次国共合作が成立したと思います。 中国共産党は、コミンテルンの指導の下、数多くの挑発を国民党軍の陰に隠れて行い、日中戦争の勃発に導き、勃発後も、数々の和平努力を潰し続け、戦争の本格化、長期化を促進していった。 日本帝国主義の中国での伸張を嫌う米欧列強は、日中戦争を継続する蒋介石を歓迎して、莫大な支援を約束した。また、コミンテルンの指導の下、宋美齢と中国共産党は、日本軍の残虐非道さを捏造し、国際的な宣伝工作を行い、国際世論、米国世論を反日に操作していった。 コミンテルンは、ノモンハン事件をも引き起こし、日本軍の北進論を封じ込め、日中戦争の泥沼から抜け出す方向が南進論に向かうよう、ゾルゲ・グループなどを使い導いた。 上記のような状況下、ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発し、ドイツは瞬く間に、オランダやフランスを占領し、英国を空襲し始めた。そして、日本は、乗り遅れまいとするかのように、日独伊三国軍事同盟を結び、北部仏印に進駐した。更に翌年1941年7月、コミンテルンの筋書き通り、南部仏印に進駐し、同年末の真珠湾攻撃に突き進んでいった。 日中戦争から太平洋戦争に至る日本ほど、コミンテルンの国際戦略に上手く乗せられた例は無いのではないか。これはコミンテルンの謀略というよりも、日本自身が自らの判断で、彼らの思惑通りに突き進んでいった、というのが本当だろうと思う。 問題は、今の中国共産党が、大成功だった当時のコミンテルンの国際戦略を引き継ぎ、その手段や手法を踏襲実施していることでしょう。今、日本は、コミンテルンの申し子である中国共産党に、二度も同じようなやり方で翻弄され、痛い目に会わないよう、大いに注意するべきでしょう。

  • 中国と戦争やって敗北したら赤字国債チャラですか

    シャープ取締役、鴻海系出身者が過半に http://www.nikkei.com/article/DGXLZO16348250T10C17A5TJ1000/ 電機大手決算、4社が営業減益 シャープは営業黒字に転換 https://zuuonline.com/archives/149284 高級幹部の多くを部外者に入れ替えると大改革が実行できて経営の理屈通りに好循環するみたいです。 となったら日本国もそれをやったほうが良い気がしてきました 自衛隊が敵基地先制攻撃で中国に喧嘩を売って、着弾10分後、ちうごくから巡航ミサイル200発の飽和攻撃が来たら電話で「こっちの負けですごめんなさい助けてください白旗です」と総理がやれば着弾直前にミサイルは日本海上で何もない場所で自爆、日本国民と自衛隊は潔い名誉ある敗北を得たとします。 あとは日の丸の真ん中の部分を白く塗りつぶして上陸してくるのを待っていれば、 GHQの中国版が日本の支配階級に居座って、これまでは官民しがらみや利権で難しかった色々な制度の改革を強行的な立場から理屈通りに行えますか? 戦争やれば徳政令的なものを習近平さんが出して日本は借金0に戻れますか? 中国の軍門に下って核の傘に入れば軍備も最小限でいいから経済や福祉に回せますよね? 中華人民共和国と日本で戦争をやるメリットがどれだけあるか知りたいです。

  • 太平洋戦争は回避する事が出来たでしょうか?

    太平洋戦争は回避する事が出来たでしょうか? 第二次世界大戦が始まる直前、 日本の政局も混沌と していました。 次々に短命内閣が現れては潰され 現れては潰されました。 そして昭和天皇が一番信頼し頼りにされていた 最後の元老西園寺公望も90歳で亡くなりました。 西園寺の最期の言葉は 「いったいこの国をどこへもってゆくのや」 期待していた近衛と袂をわかち 近衛を首班指名した事を後悔し続けたそうです。 そして西園寺の予言通りになってしまいました。 今現在も無責任体制で民主党政府は 「いったいこの国をどこへ 確かに近衛が首相のときに 支那事変がおこり、 高邁な理想とは裏腹に主体性なく思い付きの 行動を取り続け、軍部のつきあげもないのに 勝手に軍拡しながら「不拡大方針」を唱えたり 挙句は「国民政府を対手とせず」といって 断固膺懲路線に転換。いってることと やってることがちぐはぐなままずるずると 支那事変は拡大の一方をたどります。 近衛は汪精衛を擁立して日中宥和をはかるも 失敗。辞職します。 その後平沼内閣の時に独ソ不可侵条約が締結され 「欧州情勢は複雑怪奇」の名言を残し内閣総辞職 しました。 続く阿部内閣は第二次大戦の勃発があり、 三国同盟を陸軍部内から突き上げられますが 日米関係を考えて棚上げにするという功績を 残したものの統制経済の影響と 凶作の影響からコメが流通不足になり、 米価引き上げを図ってコメの出回りを 引き出そうとするが物価高騰物資不足となり 民心が完全に離反。 阿部はしぶとく内閣総辞職と解散総選挙で 局面の打開を図ろうとするも陸軍が民心の 反軍化を恐れて指示せず、内閣は総辞職。 新内閣の首相には当初陸軍大臣畑俊六が噂されますが、 昭和天皇が当時の日独伊三国同盟締結を 求める風潮を憂慮したために、 米内光政に組閣の大命が降下。 米内は組閣と同時に自ら現役を退き予備役に入り、 親英米派で日独伊三国同盟反対論者だったこと、 近衛文麿らによる新体制運動にも 冷淡な姿勢を貫いたこと等により 陸軍や親軍的な世論から不評を買います。 斎藤隆夫の反軍演説も陸軍の反発を招きました。 組閣から半年たって仏が独に降参すると 独伊への接近を企図し、 近衛文麿を中心とする新体制に期待して 倒閣の機会を窺っていた陸軍は、 畑俊六陸相を単独辞職させ 三長官会議にて後任を推挙しなかったため、 軍部大臣現役武官制により、 総辞職に追い込まれました。 昭和天皇は米内内閣総辞職について 「もし米内内閣があのまま続いていたなら 戦争にはならなかったろうに」と、 後年まで悔いておられました。 そのあとを継いだ近衛内閣は 北部仏印進駐、三国同盟締結、 日ソ中立条約、南部仏印進駐も決定。 日米交渉を開始したが暗礁に乗り上げました。 近衛の理想とした近衛新体制は 骨抜きにされ、大政翼賛会も骨抜きにされ どうにもこうにもにっちもさっちも 行かなくなった状況に近衛はさじをなげて 総辞職。 時局収拾のためには誰からも横槍の入りにくい 皇族内閣が適任だろうという事で 東久邇宮稔彦王(当時は現役軍人で 軍部の受けもよいだろうという理由) を首班候補に東条と近衛は推戴していたが 木戸が「皇族の指導によって 政治・軍事指導が行われたとして、 万が一にも失政があった場合、 国民の恨みが皇族に向くのは 好ましくない」として反対し 重臣会議を諮り、結局、 「強硬論を主張する東條こそ、 逆説的に軍部を抑えられる」という 木戸の意見を採択して東条に大命降下しました。 そして東条内閣の時に太平洋戦争が起きてしまいました。 現役大臣武官制がなければ 米内内閣の倒壊はなかったでしょうし 宇垣内閣の流産もなかったでしょう。 皇族初でおそらく最後の皇族内閣として 戦後の敗戦処理にたった54日の 短命内閣とはいえGHQと小競り合いもなく 見事なまでに時局収捨して降伏事業を 混乱もなく収めることができた 東久邇宮稔彦王殿下が東条内閣の かわりに組閣出来ていたとしたら 戦争には至らなかったかもしれません。 そこで質問です。 ※東久邇宮稔彦王殿下の皇族内閣が  第三次近衛内閣の後に組閣されていたとしたら  太平洋戦争は回避できていたでしょうか。 ※現役大臣武官制が復活していなければ 昭和天皇の信任厚い米内内閣が長期政権を 維持して、太平洋戦争を回避できたでしょうか。 ※太平洋戦争を回避できたとしたら現在の日本は どうなっていたでしょうか。 以上3点についてお答え願います。

  • 太平洋戦争の原因について

    自分は今まで太平洋戦争の原因は 日本が満洲や朝鮮を植民地にし、その結果アメリカと戦争になり 戦争の原因は日本が悪いと思っていました。 しかし、ある時下のリンクにある内容を読み どちらが悪いかわからなくなりました。 本当の戦争の原因は一体何だったんでしょうか? 詳しい回答お願いします。 http://www1.toptower.ne.jp/~katumata/sub514.html

  • 日本が太平洋戦争をした原因

    日本が太平洋戦争をした原因はアメリカの陰謀に嵌められたからというのは本当ですか?

  • 太平洋戦争 開戦の原因

    太平洋戦争 開戦の原因は、「アメリカなどの石油の対日輸出禁止」だったような気がするのですが、正しいでしょうか? 石油に依存していたがために、太平洋戦争がはじまり、ついには、広島で核兵器が使用されたのだと思ってました。 ところが、広島での反原発デモの様子を見る限り、二度と被爆者を出さないために、原発廃絶と主張しているみたいです。 当分、自然エネルギーで十分なエネルギーはまかなえないし、原発廃絶は、石油・天然ガスなどの依存社会になります。 今まで、「日本の石油依存によって、広島・長崎に原爆が落ちた」と、私は、認識していたのですが、間違いでしょうか?

  • 日本軍の南進政策

    日本軍は南進する際、多くの国を侵略しましたが ドイツからシンガポールを占領するよう通告されたとき、拒否して 侵略を行いませんでした。それは何故でしょうか。

  • 太平洋戦争

    下級将校下士官兵は真に見事に戦いましたが 参謀や上級将校は真面目に戦ったのでしょうか。 敵前逃亡した将官もいたと聞きますが。

  • 太平洋戦争

    夏休みの宿題で、 平和についてのスピーチ原稿があるのですが、 その資料として 太平洋戦争ごと太平洋戦争前の広島の上空写真 を探しています。 あれば教えてください!お願いいたします。 写真を直接貼り付けやURLなど方法はどれでも^^