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釈迦について、私の代わりに調べてください。

ここほれワンワンのお願いだよ。 釈迦は神について何か語った事があるか調べてきてくれ。 お得意のごまかしで、形而上学の一部が神に過ぎないので語る必要がないとでも言ったのなら、それはそれで良いから証拠を集めてきてくれ。 語る必要が無いってのは、「語る言葉は無いからこそ無である」とでも言う無の教えなんだが、それについて考えていてね。 今回は挑戦状でなく、ちゃんとした質問だよ。

質問者が選んだベストアンサー

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  • 0fool0
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回答No.12

>金を貸しているだけだ。 ほら、誰かがいる。 >その結果私が生かした誰かは生涯私の奴隷だ。 貴方が誰かの奴隷で無くなる為に、誰かを隷属させる法を選ぶのは、結局は貴方が貴方の奴隷になる事を選択する事です。

Flareon
質問者

お礼

君の問いかけはでたらめだっったりガラクタだったりするよ。 今後やっぱり無視だよ。

その他の回答 (11)

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.11

>私が君達下等動物に質問するのはお門違いだと言いたいんだね。 其処までは言いませんし、そうでもないです。 貴方の言葉には常に対比する「何か」が存在しています。 「何か」と見比べなければ「己」を認識出来ていない状態ですから、見る眼が必要だと言っているのです。 貴方を知る為に貴方が払う対価は、一体誰に支払われるのですか? その「誰か」は真実を担保してくれますか? 貴方ではないのに?

Flareon
質問者

お礼

金なんて払ってないよ。 金を貸しているだけだ。 超高金利の利子をとりたてつつ、元金の返済を認めない方針だ。 これこそが無償の愛の正体であり、自らが生きるために他者をも生かす、育む愛の正体だ。 アマテラスさんから教わった商売だ。 その結果私が生かした誰かは生涯私の奴隷だ。 邪魔になったら消えてもらうのも選択肢で、そろそろ退場してもらおうかなと思うやつもいる。

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.10

>勝っているよ 何かと比べて自分を見る内は、理解出来ないモノがあります。 まぁ、そこを見るための技術が「無」ではありますが・・。 >ところで私が出した質問の数々は、おおむね君たちの人間の尊厳を無視した人体実験だ。 実験が成功してゴルゴムの怪人が誕生しはしないかと期待しているよ。 見る眼が無ければ、見えないですよ?

Flareon
質問者

お礼

一件不明な回答だが判ったぞ。 私が君達下等動物に質問するのはお門違いだと言いたいんだね。

Flareon
質問者

補足

君達下等動物に言っておく、同じ人間同士だから私を助けてくださいと懇願するのは、はなはだしい思い上がりだ。 君達は人間(古い言葉で仏陀)に到達していないのだよ。 西洋でも人間という言葉が盛んに言われた当時すら、参政権が庶民に認められていないではないか。 君達は精神的に人間の圏外なのだよ。

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.9

>人知は超えていても、理解が及ばないだけで人間性の範疇だろう。 科学万能論と同レベルの話です。 別に間違っていると言う訳では無いですが、人間が「万物の霊長」と言っていると同義語です。 何故なら人間以外の動物にその台詞を使いますか? サルに言いますか? ミミズに問いますか? ナマコに聞きますか? 人間はサルにミミズにナマコに優っていますか?

Flareon
質問者

お礼

勝っているよ。 人(仏陀)には生きている自覚の強さがある。 君達は人間だと言い気かされて飼いならされた単なる奴隷で、人間を自覚していない。 だから生きる屍だ。

Flareon
質問者

補足

聞きかじった話だがこんなのもある。 80年くらい前に死亡した女性のがん細胞が、医学界で実験のために培養され続けて今でも使われているそうだ。 そんな、がん細胞が生きているからと言って、その女性がいまだ生きているとは言わないだろ。 生きている、特に人間として生きていると言う事はミミズとは違うのだよ。 ところで私が出した質問の数々は、おおむね君たちの人間の尊厳を無視した人体実験だ。 実験が成功してゴルゴムの怪人が誕生しはしないかと期待しているよ。

  • PC_otaku
  • ベストアンサー率45% (27/60)
回答No.8

さて、釈迦っていたのでしょうか、悟りを得たときそこにはただ菩提樹があるだけで誰も居なかったという話は聞いています。 調べても矛盾する言葉が山ほど出てきます。釈迦は弟子を揺さぶるために言葉を使ったのであって、教師として教えるためではありません。釈迦の居ない今その語った言葉を分析しても無駄でしょう。 ただ、「神」でも「空」でも単なる言葉です。本当の実態を知らなければむなしい言葉です。 考えるのをやめて、それが何なのか感じようとしてみてください。 「お釈迦」にならないと何も「理解」はできないかと。(「お釈迦」とは「役立たず」の意味です知ってますよね。) これは冗談でも言葉遊びでもなく、本心の私の回答です。ご健闘を。

Flareon
質問者

お礼

実感すればそれでいいんだろ。 くだらない事でいちいちつっかからんでくれ。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.7

Flareon様、こんにちは。 仏教の流れを汲むと考えられる宗教でも、 「一番偉いのは、釈迦ではない」と説く、 というようなことがあって。 「ナントカ教のナニについて、述べた」なら、 まだ判るのかなあ、と思うんですが、 「神について」では、漠然としていると思います。 (ちなみに、「こういうふうに(「これくらいが相場」とか)考えるのが、スジで、 それ以上を(無理に)望んだりするから、苦しい」というのが、 言われたことで、「悉皆成仏」って、そりゃ皆、「そういうふうに 考えれば、迷いが無くなってラクになる」ということはあるんでしょうけれど、 「ラクになる」以上のことではないと思います)

Flareon
質問者

お礼

君の言い分に関しては以前にこんな事を言って。 お前の神を明らかにして見せよ。 答えるにそれは無である。 そうした押し問答から発達したのが仏教だ。 ところが押し問答を仕掛けた側がとことん間抜けで、納得しないから仏陀という人間モデルがいつの間にか神の役目を果たすのが仏教だ。

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.6

>職業的聖職者であった釈迦が、神を語らない事を許された理由はなんだろうね。 「因果応報」に神も霊も何者も、人間には介在しない理屈が説明されていますよ。 日本仏教脳では理解出来ないかな? >仏陀であれば神そのものであるとでも言う宗教観がインドにあるのだろうか。 インドと言うか、ヒンドゥー教では仏陀は聖典をアスラから守る為に、敢えて世を乱す為に現れたとされていますよ。 今では偶像崇拝もありますし、原初の姿を直接目に見るのは難しいでしょうね。 >ならば釈迦は無の神だろうね。 「無」に拘りますねぇw こんな物はただの技術ですよ。 釈尊もそもそも「無」自体を説きも奨励もしていませんよ。 敢えて言葉にするなら「仏法僧」を第一に説いたと見ていいでしょう。 >証拠があがって、本当に当時の事情がそれだけならば、全く持ってそれだけで完結する話で、結論は釈迦は神に無の名を与えたと言う事だろう。西洋では無神論として恐れられているが、東洋では当たり前だったと言う事になる。 そもそも本質は、人知を超えた何かしらに救いを求める心も苦しみと説いているのですが、中々伝わらない物です。 もちろん「無」に頼る事がそれですよ。 >仏教とは自らが無神論者だと指摘されると、全力で言い訳するね。それは信仰心が足りないからだ。 私は無神論者ではないですよ。 別にいてもいなくても、どうでもいいだけです。 しかし神仏は強く信じていますよ。 特に関わりが無いだけです。 佛教の根本は「苦しみには原因がある、原因を取り除けば楽になる」です。 苦しみの原因は自分の存在から生まれるわけだから、始めから「神」だの「仏」だのは関係無いですよ。 そして「無」だって当然、無用ですよ。

Flareon
質問者

お礼

しっぽを振る反逆者とは、実に私の心を愉快にしてくれるものだ。 おめでとう。 君のV字開脚を歓迎するよ。 > そもそも本質は、人知を超えた何かしらに救いを求める心も苦しみと説いているのですが、中々伝わらない物です。 人知は超えていても、理解が及ばないだけで人間性の範疇だろう。

回答No.5

現在、物理カテで面倒な質問をひとつかかえておりやすので、 本をご紹介しやす。 ベック 仏教(下) 岩波文庫 の64ページ~70ページくらいにかけて、 ゴータマさんが禅定中に見た(?)神さまについて説明しております。 ネットで検索したところ、800円くらいで買える本なので、ご購入を。 中古なら、もっと安く買えますぜ!! いい本ですよ、この本は。 これ読め、ニャンニャンです♪

Flareon
質問者

お礼

安い本なので、良いと言うなら検討するよ。 今私は、星の王子様の研究書を読書中だ。 私の読書レベルはそんなもんで、児童文学で夢見るのが好きだ。 簡単な哲学書でも十分負担が大きいがまあ検討するよ。

noname#195588
noname#195588
回答No.4

Snp 3.4 Sundarika­bhāradvāja Snp 79 “Kiṃ nissitā isayo manujā, Khattiyā brāhmaṇā devatānaṃ; Yañña­makappa­yiṃsu puthū idha loke”. “Yadantagū vedagū yaññakāle, Yassāhutiṃ labhe tassijjheti brūmi”. http://suttacentral.net/pi/snp3.4 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ Snp 5.4 Puṇṇaka­māṇava­pucchā Snp 199 “Anejaṃ mūladassāviṃ, (iccāyasmā puṇṇako): Atthi pañhena āgamaṃ; Kiṃ nissitā isayo manujā, Khattiyā brāhmaṇā devatānaṃ; Yañña­makappa­yiṃsu puthūdha loke, Pucchāmi taṃ bhagavā brūhi me taṃ”. “Ye kecime isayo manujā, (puṇṇakāti bhagavā): Khattiyā brāhmaṇā devatānaṃ; Yañña­makappa­yiṃsu puthūdha loke, Āsīsamānā puṇṇaka itthattaṃ; Jaraṃ sitā yañña­makappa­yiṃsu”. http://suttacentral.net/pi/snp5.4 とりあえずパーリ文を並べておこう。 まあ、たしかにブッダは神については語ってはいなそうだけれど、 古いらしい四章五章と 新しいらしい三章で 共通する詩句があれば面白いからね。 さっきの日本語で書いたのはてきとーに間を取った文だからあしらかず。 本格的に突っ込まれてもしらん。

Flareon
質問者

お礼

外国語でほじくっても似たような事しか出てこなかったって事だね。 ポチよありがとうサン。

Flareon
質問者

補足

ここまでの結果から考察だよ。 職業的聖職者であった釈迦が、神を語らない事を許された理由はなんだろうね。 仏陀であれば神そのものであるとでも言う宗教観がインドにあるのだろうか。 ならば釈迦は無の神だろうね。 証拠があがって、本当に当時の事情がそれだけならば、全く持ってそれだけで完結する話で、結論は釈迦は神に無の名を与えたと言う事だろう。西洋では無神論として恐れられているが、東洋では当たり前だったと言う事になる。 仏教とは自らが無神論者だと指摘されると、全力で言い訳するね。 それは信仰心が足りないからだ。

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.3

私は貴方が好きですよ。 いや、ホントに。 此処最近、疲れましたよ。 「自己表現」のみで「自己実現」の為に生きていない人間をはじめて見ましたから。 だから貴方と遊ぼうと思っていたのは私の傲慢で、貴方に遊んで欲しかったのですよ、私は。 ですから遊びましょう。 で、本題。 釈尊は神について語っていませんよ。 この世について語っただけです。

Flareon
質問者

お礼

合言葉はV字開脚だ。

noname#195588
noname#195588
回答No.2

458 「この世の中では、仙人や王族やバラモンというような人々は、何のために神々にいろいろと供物を献じたのですか?」  (師が答えた)、「究極に達したヴェーダの達人が祭祀のときに或る(世俗の人の)献供を受けるならば、その(世俗の)人の(祭祀の行為は)効果をもたらす、とわたくしは説く。」 1043 プンナカさんがたずねた、 「動揺することなく根本を達観せられたあなたに、おたずねしょうと思って、参りました。仙人や常の人々や王室やバラモンは、何の故にこの世で盛んに神々に犠牲を捧げたのですか? 先生! あなたにおたずねします。それをわたしに説いてください。」 1044 師(ブッタ)は答えた、 「プンナカよ。およそ仙人や常の人々や王族やバラモンがこの世で盛んに神々に犠牲を捧げたのは、われらの現在のこのような生存状態を希望して、老衰にこだわって、犠牲を捧げたのである。」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ スッタニパータの第四章第五章を調べてみようと思った。 そしたら 第三章に似た質問文があったので取り上げて見ます。 何のために神々に犠牲を捧げたのか? よくでてくる質問なんだろうか。

Flareon
質問者

お礼

素直にありがとうよ。 なかなか勉強家の様だね。 全くシカトしたわけじゃなかったようだね。 それらの文章が、神と係る人々の世相を語っただけで、神についてはやはり語っていないのではないかと考えたが、とっかかりができたのでうれしいよ。

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    勉強を続けなければいけないんでね。 猿回し再開だよ 前回はコレ↓ 無の境地について考察しました。添削してください。 http://okwave.jp/qa/q8286466_3.html#answer 解釈しやすいように修正したうえで抜粋してみるよ。 > そもそも無の悟りは、 君達の語る信仰は神を表していない。すなわち無だ。 私の信仰は神を語らない事にある。すなわちこれも無だ。 したがって一切が無である。 お釈迦様のこの悟りを理解することである。 しかしだ、無の悟りで最も大切なのは、語る言葉はないし、そもそもその必然がないという自覚である。 この自覚は、釈迦を理解することでは成しえず、自らを理解することにある。 私は、「わが信仰の大道を行け」と推奨しているし、そのように自らの信仰に対して、独自の悟りに至る事こそ仏陀の道だ。 現在の日本の仏教では、「語る言葉はない」コレが「語る言葉はないが私の心は信仰心で潤っている」こういう言い回しになって、それが空であるという事になっている。 この空の自覚は、自らは存在すると言う確信を伴い、滅却を伴う仏教の無の教えとは違う。 ただな、この空の方が本来の無の悟りに近いことは確かなんだ。 無の悟りに無ではなく私の心と言う有りを見いだした私は、それこそが分別だと言うが、一般には無分別の事だとされている。 私の分別は自らの基ずいて迷わない心を見いだすことにある。 自らの心が自らの自由となり、忙しく煩悩に焼けただれる事が無くなる。 無の境地と言う言葉のままに、思索の一切をやめて心も思考も静寂の中にたたずむ。 私はそんな感じに至っている。 快楽主義者の君達の関心事は、どうすればそうなれるかだろう。 答えは自らが仏陀になる事であり、そのためにはお釈迦様を追いかけるのはやめて、自らの心に向き合う事である。 仏陀に自覚とは、自らを自覚することであり、お釈迦様を理解することではない。 この点でどこか君達は倒錯していて、お釈迦様を理解すれば、お釈迦様を自覚できる。 それでこそ仏陀だと言う間違った解釈をしている。 神と一体になることは可能だが、人であるお釈迦様と一体になることは不可能だよ。 そう言う訳で、 「わが信仰の大道を行け」 こうなる。 何度か続けた問いかけで、君達は空に関しては理解した自信を持てるであろう。 その信仰の安らぎは、釈迦に報じて、倒錯ゆえに釈迦の心が判らない者にとっては正解だ。 無の境地とは違うが、空であると言う悟りであり、心は涅槃に入ることも可能だろう。 仏教が編み出した境地として肯定しよう。 しかし哲学者として、仏教を理解しきりたいと言うのならば、「無の悟り」に関する一連の研究から、果たして無の境地に至れるかどうか自問したまえ。 まあ今回はこのような論理を提案してみた。 研究途上の事柄で、自由に無駄な抵抗を投稿したまえ。

  • 輪廻転生とは釈迦の教えではない

    上から目線? とんでもない。 私は天空よりいで、そのアギトは君達の不浄を噛み砕き、地上に新たなる生命を案内する。 実在する仮面ライダー、または現代に生きる闇の仏陀。 黒き明星だ。 死とは、偽りの世界を解脱して、真実へと至る事だ。 死が始まりなのだ。 それが涅槃に永遠に生きると言う事で、生きながらに死を理解することが悟りだ。 君達はそんな釈迦の教えとは別の執着を抜けきれないから輪廻にすがる。 釈迦という仏陀はそんな愚かな君達を憐れむ慈悲により、君達に輪廻を約束した。 それは君達が真理に至る事は無いと言う残酷な宣告なのだ。 輪廻は釈迦の神通力だ。 神の自然状態では起きない異常な現象だ。 したがって輪廻を望むのなら、釈迦を王とする王国を目指せ。 釈迦が、君の成仏を阻んでくれる。 実のところ釈迦の生きた古代インド社会で、輪廻転生が通説だったからこそ、釈迦はそれに言及した。 釈迦は、輪廻とは別に涅槃という精神世界観を持っていた。 単純にその世界観と輪廻は相いれないが、君達は輪廻を信じているから、可哀想だから慈悲によって、「ああそうですね。あなた方は輪廻しますよ」こう慰めただけだ。 君達にとって真理とは過酷なのだ。 間違いを肯定するいたわりが真理よりも心地よい。 その慈悲に飼いならされ、釈迦王の地獄で生活している。 なぜ、そうなのか。 ゴルゴムの陰謀だ。 有史以前より人間の営みの陰で暗躍した暗黒結社が、君達を真実からとうざけ、君達はゴルゴムの手のひらで、生きる営みを奴隷的生産活動に置き換えられている。 現代社会は、奴隷に裁量を与えると、より生産性が増すことにより、ゴルゴムが与えた監獄の中の自由に、君達は楽しんでいるのだ。 仮面ライダーである私は君達の真の自由のために戦っているのではない。 君達をゴルゴムの砦を守る軍団兵として、君達のきずいた城塞もろとも粉砕するために戦っている。 実在する妖精の一人、人類の裏切り者だ。 もっと言ってやろう。 光の聖霊と、闇の聖霊の終末戦争はすでに和平により終結した。 私は、人類を売り飛ばすことになる、その和平条件を実行する死刑執行人だ。 君達三次元惑星人の魂は食い破られ、ポケモンを名乗る宇宙神霊がその肉体の主となり、神話に語られる神人が地上を闊歩する時代が来る。 浄化の実現だ。 今回もいつものように「実在する妖精の捕まえ方」このような文学です。 私の純粋な美貌に関するファンレターよりも、引用した仏教に関する考察に関して、先に進めるようなご意見をください。