哲学の進歩はあるのか?

このQ&Aのポイント
  • 哲学と文学の進歩について考えると、最新の情報と忘却のフィルターの役割が異なることが分かります。人間というものが変わらないため、哲学の進歩は限られるかもしれません。
  • 古代の哲学者の名前が頻繁に出てくることに疑問を抱く人もいますが、学問の進歩には最新の情報が必要です。哲学は文学のような存在であり、忘却のフィルターを通過した学者が偉大とされることもあるでしょう。
  • 一方、自然科学の研究では常に最新の情報が重要視されます。研究者は常に最新の研究論文を読み、学会発表に参加することで情報を得ようとします。このような考え方からすると、哲学の進歩は限られるのかもしれません。
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哲学は進歩していないのですか?

このコーナーを読んでいて思ったのですが、かなり古代の哲学者の名前が頻繁にでてきます。ソクラテスだとかプラトンだとか。 自然科学の研究だとそれはありえない。確かに、古い時代の人の名前が出てくることもありますが、それはまれで、その古代の人が書いた書物を研究のために真剣に読むことはないでしょう。いつでも、その時最新の研究論文を研究者は読みます。そして論文ではやはり1~2年遅れてしまうために、学会発表に参加して論文になる前の情報を必死でつかもうとします。最新の情報がいつでも重要です。 そうして考えると哲学という学問にはあまり進歩がないのでしょうか?人間というものがそんなに変わるものじゃないからだという答えはありえるかと思います。確かに、文学だったらそれは納得です。むしろ古典のほうが人間の忘却というフィルターを乗り越えて存在しているため価値があるといいます。文学作品はまず、その著者が死んで評価が固まらないと駄目だという人さえいます。 はたして、哲学は文学のような存在だと考えればいいのでしょうか?そして忘却のフィルターを通過した学者が偉大ということになるのでしょうか?

  • stmim
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質問者が選んだベストアンサー

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回答No.10

哲学の中でも経験をもってしては答えられない「形而上学」の問題は今もって哲学の主要な問題で、これには原理的に言って進歩というものはありません。 たとえば、「存在とは何か?」「なぜ、世界は存在しているのか?」「神は、あるいはこの世界を超越した存在者があるのか?」「なぜ、私は私なのか?」「外部世界は存在すると言えるのか?」「過去は実在するのか?」「他人には心があるのか?」・・・・・などなど。 こうした問題は科学・物理学をもってしては答えられません。 科学・物理学は進歩・発展ということがあるけど、「形而上学」の問題というのはただ思考の中にのみあり、思考によってしか解決できず、解決がひじょうに難しい問題です。 「存在とは何か?」という問題は今から2500年前に古代ギリシャのプラトンやアリストテレスが問題にしましたが、アリストテレスはあまりにも厄介な問題だったので、存在論を回避して、実体論に逃げました。 アリストテレスはその「形而上学」という本で、「存在するモノの全体としての存在者を論じる」のが存在論といいましたが、ウーシアとか、ト・オンというギリシャ語に存在のほかに実体という意味があるのを利用して、実体を論じる方向に転じ、結局のところ、存在とは何かという問いは実体とは何か、という問いにすり替えられました。 近年になって、ハイデガーがアリストテレス以来2500年にわたって、忘却されていた存在論を復活させましたが、かれもアリストテレスと同様に存在に関しては「明るみ」とか、「性起(エルアイグニス)」としか言えず、結局のところ挫折しました。 それだけ存在とは何か?という問題は解明が難しいということです。 にもかかわらず、私たちは日常的に「ある」とか「いる」という言葉を使っていて、当然存在の意味を知っているはずなのですが。 次に、「なぜ、世界は存在しているのか?」ですが、世界とか宇宙は存在する必然性がないのだから、存在しなくても良かったはずなのですが、不思議なことに存在しています。 このことは古来、「なぜ無ではなく、存在なのか?」という問いとして問われてきました。 しかし、この問題に対する答えは科学・物理学をもってしても答えられないと思います。 最近、ジム・ホルトという人が「世界はなぜあるのか?」という本で、現存の哲学者・科学者に問い、それを探究していますが、原理的にいってその答えはありません。 次に、「神は、あるいはこの世界を超えた超越者が存在するか?」という問題も、人間の知性とか理性が、経験に限られ、経験を超えたて問題には二律背反に、矛盾に陥る性質を持っている以上、神がいることを証明もできないし、反証もできません。 にもかかわらず、人間理性は己の能力を超えた問題を問題にせざるを得ない以上、絶えず神の存在を気にかけずにはいられない宿命を負っています。 中世の聖アンセルムス以来、多くの神学者・哲学者が神の存在論的証明に挑戦しており、西欧にはその長い歴史があります。 一応、近世のカントの批判をもって終止符が打たれたと言われていますが、依然として挑戦するものが絶えません。 それと次に「なぜ、私は私なのか?」という自己同一性の問題もいろいろな哲学者が論じていますが、これといった決定的な回答がない問題です。 もちろん、私は自分が私だという強い「信憑」を持っています。 それがなかったら、私が人生を生きる意味はないでしょう。 しかし、私の私たる根拠とか理由はどこにあるのか?と問われたら、人は容易にはそれに答えられません。 なぜ、私は私なのか? 私は私でなく、他人であっても良かったはずです。 他人でなく、まさしく私である根拠は何なのか? デカルトは神が世界を作ったのだから、その神が私を欺くはずはなく、私が私と思うもの、それが私だと言いました。 だけど、神がいなくなると私が私である根拠はなくなります。 いくら、「われ思う、ゆえにわれあり」といっても、それは単に私の思考作用があると言っているのにすぎず、思考作用があるからといって私が存在することの根拠にはなりません。 依然として私の存在は謎です。 つぎに、「外部世界は存在すると言えるのか?」という問題です。 これは現代の懐疑論の大きなテーマの一つで、すでにラッセルが20世紀の初頭に「外部世界はいかにして知られうるのか」という本を著していますし、最近はバリー・ストラウドという人が「君はいま夢を見ていないとどうして言えるのか」という本を著しているように、外部世界が存在している根拠とか理由は何なのか?という問題です。 私たちは外部世界が存在している強い「信憑」を持っています。 その根拠はそれを感覚・知覚していることでしょう。 目の前に外部世界を見ているから、見ていることは外部世界が存在していることの証拠です。 しかし、デカルトがそうしたように人間の感覚・知覚は間違えやすいものです。 錯覚があるし、もしかしたら夢を見ているのかもしれないし。 実際は外部世界なんて存在しないのかもしれません。 次に「過去は実在するか?」という問題ですが、私たちは未来は存在しないことはよく知っていますが、過去は記憶があるし、遺物があるし、記録があるから実在していると考えています。 だけど、過去というのは過ぎ去っているのだから、実在しないはずです。 にもかかわらず私たちは過去が実在するという。 記憶がある、しかし、脳細胞は細胞のかたまりで、細胞は生体で、生体は現在しか知らないはずです。 脳のどこに過去が保存されているというのか。 また、過去の遺物があるという、しかし、遺物は過去に存在するのではなく、現在に存在しているモノです。 その遺物に過去という時間が刻印されているわけではありません。 私たちが遺物を見て、それを過去に存在していたものだと思うから、過去なので、いわば過去時制で語るから過去なのです。 過去という時間があるわけではありません。 この問題はラッセルが「世界5分前創造仮説」といってから有名になったように、もし過去が実在しなければ、世界は5分前に作られたといっても、それを証明も反証もできません。 次に「他人の心」の問題。 私たちは私が心を持っていることは直接的に知ることができますが、他人が心を持っているのを間接的にしか知ることはできません。 他人の言動や他人の振る舞いや表情から間接的に、その向こうにあるだろうと想像しているだけです。 だけど、他人の心は私から見えないのだから、私の心を他人の表情や振る舞いの向こう側に感情移入によって「投げ入れて」そこにあるだろう心を想定しているにすぎず、実際はそれは私の心の「投影」です。 だとしたら心というのは世界に私の心一つしか存在せず、もしかしたら他人の心は存在せず、ロボットか、ゾンビかもしれません。 これは哲学では「独我論」の問題で、「独我論」を論破するのはひじょうに難しい問題です。 以上、現代にまで及んでいて解決されない「形而上学」の問題のいくつかを述べましたが、どんなに科学が発展しても依然として古代ギリシャで提起された問題は解決しておらず、そのためにプラトンだ、アリストテレスだ、とその著作を読む羽目に陥っています。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。すごく勉強になります。哲学で問題となっていたことが概観できる感じです。 ただ私からするとなんか簡単に答えられそうな問題の気もします。それは問題の難しさがわかっていないからなのでしょうけど。 例えば、「世界がなぜ存在するのか」というのは、私はたまたま偶然だと思います。もちろん世界は存在しなくてもよかったのですが、あるいはそうした世界が存在した(あるいは他に存在する)のかもしれませんが、そこには人間が存在していないので(存在できないので)認識できていないということではないかと。しかし、これは誰でも考えるでしょうし、答えではないのかもしれません。 ギリシャ以来考えて解けない問題についてこれ以上考えて答えが出るのだろうか?という疑問がわきます。考えるという手法で答えがでるのかどうか、ということも考察されていることでしょう。 また、何か答えが出た場合にその答えが正しいかどうか考察で判定できるものなのかどうか気になります。

その他の回答 (14)

  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.4

 それは「哲学」が認識論であることの裏付けである証明ですね。その対象をどう認識するかとの方法論の違いと論点の炙り出しから問題を立てるからです。  これは極論かもしれませんが、質問者様の例示される「科学」が結果を重視する性質のものとするなら、哲学はその対極にあるとも申せましょう。むしろ「結論に至る過程と方法論」を重視もします。ですから、理系と雖も理学部などの基礎科学領域を専門とする学部群はむしろ文系の哲学や社会科学の理論部分に近いともいえます。    そして誠実な研究者ほど古典的な理論や方法論に立ち返りもします。結果だけを欲しがるならば、STAP細胞やかつてのIPS細胞で世間を欺いたお騒がせおじさんと一緒の形になってしまいます。努々、華やかさだけに目を向けてはなりません。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 なるほど哲学は認識論というのは納得します。 現象あるいは現実というのが既に存在していて、それをどう解釈するかという話なのですね。 「そして誠実な研究者ほど古典的な理論や方法論に立ち返りもします。」ここがどうなのかなあ?と私は思います。やはり、哲学だと必要なのかもしれないですね。 ちなみにSTAP細胞はその存在があやしいですが、iPS細胞のほうは世界中で追試されてその方法が確認されており、将来有望な手法です。仰いたいのは黄教授のES細胞の実験のほうでしょうか?黄教授の実験はインチキでしたが、後に他の研究者が実験に成功しています。

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.3

東京―大阪間の移動方法の選択肢が増えたのと同じレベル。 どれに乗るかはお好みで。 ゼロから歩くのも愉しいモノです。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 自然科学だと例えば、遺伝物質はなにか?という議論がありました。タンパク質だという意見がかなりあったのですが、ワトソン・クリックの論文が出てDNAということになりました。解決する前はいろいろな説がありましたが、解決すると一つになりました。 あれもOK、これもOKということですと、そこはやはり自然科学とは違うと思いました。

回答No.2

古典は、歴史的価値しかない。 たとえば量子論以前の哲学は、頭の体操的な価値しかない。 そのように、パラダイムの変換において、それ以前の世界観は、 古典芸術に比類しうるものになる。 モナリザは誰もが評価するが、もはや誰もあんな絵は描かない。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 モナリザの例えは、納得しました。 モナリザは偉大な作品として認められていますが、今更あれを芸風としてマネしようという人は確かにいないですね。練習として模写する話は聞きますが。

  • yuniko99
  • ベストアンサー率15% (31/204)
回答No.1

「人間考えすぎると、限りなくバカな結論を出す」と言う台詞を読んだ事があります。 釈迦の教えも後々いろいろに解釈され 必ずしも釈迦の思想には至らないような宗派も出てきます 哲学も考えすぎると 自分が死んでいなくなったら、この世界も消失するという、よく考えなくてもおかしな結論を見出す人が出てくるのです。

stmim
質問者

お礼

進むとは限らないということですね。 私も自分が死んだら世界がなくなると考えていました。 最近はそうでもないのですが、ちょっとそう考える時もあります。 回答ありがとうございました。

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