• 締切済み

人のために尽くせる人

こんにちは。大学4年生の女です。 最近、どうも理解しきれないことがあります。 それは、「人のために尽くせる人」の思考?感覚?です。 わたしの知り合いに、「器が大きいな~」と感心する人がいます。その人は、どんな時も「自分」でなく「他の人」のために動いてます。困っている人がいれば即座に助け、トラブルがあれば自分の責任だと捉え、頼んでもないのに一つも二つもレベルの高いことを提供してくれます。 よく、ボランティアに対して「結局は利己的だ」という意見がありますが、その人はそういうタイプではないです。真に「人のため」になることが好き?なのか分かりませんが、やってのけているんです。 わたしは、この人を含め「人のために尽くせる人(利己的でなく)」が、どうしてそんな行動が出来るのかが理解できません・・・。 「人に愛されるよりも愛するほうが幸せ」という言葉もあり、「なるほど」とは思えるのですが、わたしはどうしても「尊敬するな・・。でも、なんでそんなことができるんだ・・」と腑に落ちません。 わたしは、何をやる時も「これは自分の評価があがるかも?」「人によく思われたい」みたいなことを考えてしまい、情けないです。こんな自分でなく、上に挙げた人のようになりたいです。 「利己的でなく、無意識?に人に尽くせる人」の思考を教えて頂きたいです。 また、どのように努力すればそんな人になれるのかも、合わせて教えて頂きたいです。 どうぞ、よろしくお願いします。

みんなの回答

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.9

自分自身を知り、本心から本当に自分がやりたいことを選ぶと結局は「人のために尽くす」になると思います。 そうなるには、まずは自分のために自分自身を理解してやることを始めて、それを続けていくと そうなっていけると思います。 一朝一夕でなれるものではありませんが、自分を理解し続けて自分のなりたい自分に近づいていくこと。 大人になるというのは、自分がなりたい自分になる選択ができ自分が歩きたい道を選ぶことができる。 そこに近づくために、自分に対して何が必要でどうやっていくか。 それが人のために動けるようになる根っこになります。 どうぞご自分を愛し大切にしてやってください。 人間は、自分を愛せる大きさしか人を愛し労わることはできませんから。

  • dropyork
  • ベストアンサー率15% (13/85)
回答No.8

氷山です。

回答No.7

昔死に対する恐怖症で、18年間苦しい想いで生きていた事があります、その途中で入院森田療法を鈴木知順先生のところで受けた事があります。たった2ヶ月間でしたが、その2ヶ月間で学んだ生活態度や、この人生での学ぶ方向性を教えていただいたお陰で、人の生き方の方向性を知る事が出来ました。 恐怖症は神経症に分類されていますが、神経症になる事自体が『自分自身の神経質な性格や、不安になり易い性格傾向に悩まされる事』を意味している事が分ります。要するに、自分の事だけを考える余り『自分の心が苦しくなる、という現象です。 人生に付いてや、自分に付いてや、生とか死に付いて兎に角真面目に、真摯に向き合い過ぎた結果と思っています。自分の幸福とは何だろうか?ということを思索していました。ですが結局至る結果は『死』が待ち受けているのみ、ということが悩みの種でした。 鈴木先生の書庫の中に『鈴木大拙博士』の、禅に関する全集が在るのを横目で見ながらの入院森田療法でしたが、講話という時間に、剣道の達人が免許皆伝になる時の話や、弓道の話や、道に至る話が多かったと思っています。 その当時は全てにおいてチンぷんカンでしたが、講話の前に何時も言われていました『今は分からないだろうが、分る時が来たらぴたりと分るから、只聞いておくように』と言う出だしで始まっていました。 退院してから、鈴木大拙博士の著作したものを折にふれ読んでいましたが、その四年後『自分自身の”無意識の意識”』と出会うと言う体験をしました。その時に『恐怖症』はその途端に解消しました。そして禅の中で語られている『見性』と言う意味を体験した事をはっきりと自覚しました。 その体験から書いています、人間には心が二つ存在しています、一つは『未来と過去を生きている心』ですが、良い事ばかりを願っていて、嫌な事は避けたいとする心です。この心が大きくなり過ぎた事が恐怖症の原因であった事が分ります。予期不安として恐怖症が発症すると言う意味です。 もう一つの心とは『今現在を生きている心です。』何も期待する事なしで生きている心です。禅ではこの事を『無功徳』と表現しています。禅が武士階級に普及した理由が此処にあります。 幼い時や、本来的には臆病な性格であったとしても、死地に赴く時に何も恐れる事無く何時でも戦場に駆けつける事が出来るには『道に至っている事』が必要とされていた事が窺い知れるからです。 何も恐れる事無く、或いは何も期待する事無しに、戦場で命のやり取りをする職業上の必須条件といっても過言ではないからです。 道に至ると言う意味は、自身の”もうひとつの心”と出会う体験が有効な事が分っていたからと思います。この動画がその体験を物語っていますので参考にして下さい。 URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM 右脳の人格は、『生命維持機能』がその脳の働きの全てです。従って脳梁の中での出会いで『有限の自我意識という心は、右脳の永遠性に出会う事で、自分自身が既に永遠の存在であった事』に気付かされます。望んでいた『永遠の命を既に、元々生まれた時から持っていた事』を了解します。 この体験が『見性』と言う意味です。自分自身を知ると言う意味です。その体験以後では『自分自身の幸福のために、だけに生きる事が、如何に儚い夢を追っていたのかに、気付く事になります。』 自分の望んでいた本当の幸福など、何処にも無かった事を知る事を意味します。全ての形あるものや、地位や名誉等では満足出来なくなっています。この意味は『自分自身の幸福よりも、他人の幸福のほうが大事になってしまう』と言う意味になるからです。 自分の幸福などを求めたところで、全てをこの世に置いて行かなければいけない事が分るからです。そんな事よりも、他人の幸福を望むならば、自分の幸福が永遠に続く事になるからです。 利己的な考えや、刹那的な欲望を求めたところで、返って予期不安が増大する事を知るからです。赤ん坊の命の働きが、永遠からやって来て、年老いて或いは途中で朽ち果てたとしても、又元の永遠に帰ってゆくだけという事が、身体で分るからです。 赤ん坊は『教える以前に全てを備えて生まれています。』安心する事も、不安や恐怖する事もです、心臓の動かし方でも、ホルモンの分泌でも、呼吸の仕方でも、神経系統の調節の仕方でも、生命維持の機能を全て備えて生まれていると言う意味です。 こう云った備わっている『生命維持機能にも、主人公がいます。』仏教では仏或いは仏性と言います、聖書では、神と表現しています。この自分自身の『生命維持機能をしている主人公』に出会って、その後から付いてゆく時『失楽園』の反対語である『天国に入る事を意味します。』自分自身の心が争う事が無い状態『涅槃寂静』に住むという意味です。 死ぬ時にでも邪魔を受ける事の無い、安らかな心持、本当の幸福を手にする事が出来るからです。 内在する、『永遠の命である自分の”命の働き”』と出会う道筋は、禅を学ぶ中に存在していますので、禅を学ぶ事をお勧めしたいと思います。私の場合では『鈴木大拙博士の著作集が参考になって、”無意識の自分”と出会う事が出来ました。

noname#194996
noname#194996
回答No.6

他人を信じるか、信じないかということがこの要素にあります。 人間は社会というものを作ってきました。これを強固にするには、他人を信じなければなりません。基本的に社会は血縁家族、あるいは夫婦である男女(他人同士が契約する)をベースにして広がり、大きくなってきましたが、それは家族同士なら信じあえるということからです。愛情といってもいいと思います。そういった構造を持った社会がその必要に迫られて人間(の精神構造)を進化させて、そういったひとのためになることが自然にできるという種類の人間をすこしづつ増やしてきたのだろうと思われます。いわば社会的人間の進化したすがた(善人)がそこにあらわれたのだと思われます。さらに人間社会が進めば、そういった人間がどんどん増えて悪人が減り、究極では軍隊も法律も警察も必要のない進んだ社会が実現するはずです。 >どのように努力すればそんな人になれるのかも、合わせて教えて頂きたいです。 基本的に生まれ合わせの問題なので不可能だろうと思いますが、他人の目を気にせず、偽善だと思ってもその善の方向ばかりを見て理想社会の成立を目指し生きていけばそういったひとに次第に近づけるのではないでしょうか。

  • Nebu3
  • ベストアンサー率29% (114/386)
回答No.5

 初めまして。62歳男です。  何というか実は僕もそうしてしまう人間なのです。勿論、この年までに いろいろな経験をしてきましたから単純無邪気ではありませんが、真っ先 に「役にたちたい」「尽くしたい」という気持ちがわきおこります。  なぜなんでしょう?  きちんと分析できているわけではありませんが、  一つは幼少時から「優しい」と言われ続けています。これについては嫌な 気が半分あります。「優しすぎる」ことは舐められるから。悩んだ時もあり ますが40代の頃だったかそれでも人の役にたてるのならいいじゃないかと あらためて自覚し生きてきました。(これは遺伝的な性質?)  二つ目は幼少時の親の「無償」の子育ての苦労が影響しています。小さい 時から親への「感謝」半分を胸に生きて来ました。半分というのは僕は父母が 嫌いなのです。母は人をきちんと見ず、思い込みで独りよがりの「善」をする。 僕にとってははなはだ迷惑で何度言っても変わらない事に憎しみが今でもある。 父はとんでもなく内弁慶で家族には完全な独善暴君。でもこの二人が苦しい 生活の中、入退院をくりかえした僕の面倒を見続けてくれた。僕の中にある無償 の尽くしたがりは恐らくこの影響だと思う。  三つ目はこれも少々迷惑なのだけど、親は僕の「優しさ」と「正直さ」だけを 褒め育てた。人は褒められたことを学んで成長するのだと思う。  四つ目に類は友を呼ぶというか高校から今に至るまでつながりがある人たちは そんなような人ばかり。だから僕は「無償の愛」で損を重ねてもそう苦にはなら ない。  五つ目に僕は大学を出て教員になるのだが職場の人間関係に驚いた。多分、教員 という職業は個々人の裏表の差がかなり大きいのだと思う。そりゃあ人の本音は みんな同じようなものに違いないのだろう。「偉人」だって「愚者」だって腹の中 は似たようなものだろう。ともかく教員の多くは子どもたちのことをそう真面目には 考えていない(TV番組であるような無責任さはないですよ。真面目に勤務する人が 大半だし、忙しい中、子どもたちのことで動き回り自分の生活を犠牲にしています。 今、教員の精神疾患は急増し、また寿命もかなり平均を下回っています。)  ただ、個々の子どもの気持ちに寄り添って共に考え道を示してあげようは少なく とにかく管理的で、「100%先生に従いなさい」方針だから余裕(遊び)がなく 「崩壊」や「面従腹背」の子たちを量産。  寄り道ごめんなさい。ともかく世間の平均的な真面目さとそう変わらない世界でも 「真面目に授業研究・生活指導」を考える人たちと「同類を呼ぶ」人生でした。  なぜ?そんな人生を?  六つ目、多分、面倒なことが嫌いなのもある。権謀術策うずまく社会の中で出世 をめざし人を蹴落とす作戦をたてるよりも平々凡々とすごすのが幸せ。同様にお金を 少々損するよりもぼんやりとできる時間がほしい。人の嫌がることを押しつけあう より引き受けるほうが楽。などなど。  確かに「尊敬」もされましたけれど心根は他者とそう変わらない。そう思います。

noname#202739
noname#202739
回答No.4

他人が喜ぶのを見るのが楽しいからでしょう。 見返りなくても、親切にすること自体、好きなのです。 利己的でないことはありませんよ。 人を助けることで満足感や優越感を得られますから。 ただ、利己的が悪いかというとそうじゃない。 利己的を嫌って、なにもしない人がいちばん悪いです。 その人たちが、「他人のためにするのが楽しい」と考えているのか、 「なにかの形で返ってくる」というひそかな期待でしているかは知りません。 でも、実際に他人のために行動しているんだから、単純に立派です。

回答No.3

余裕があるからじゃないかと思います。 >頼んでもないのに一つも二つもレベルの高いことを提供してくれます その人にとっては、別に高いレベルではないかもしれません。 また、高い水準までもっていくことが純粋に好きなのかもしれません。 >何をやる時も「これは自分の評価があがるかも?」「人によく思われたい」みたいなことを考えてしま 別に悪いことじゃないと思います。 ただ、その状態を脱却したいというのは、意欲的だなと思います。 それには、自分を高めておくことが必要だと思います。 自分が高い水準にいれば、「これをすれば評価が上がるかも」と気にする必要がなくなります。 何をやっても高い水準なので、ただやるだけでいいからです。 きっと、あなたの尊敬する人もそうなのだと思います。 そして、余裕があるからこそ、他人の余裕のない箇所に気づくことができるのです。 >ボランティアに対して「結局は利己的だ」という意見 言葉は悪いですが、利己的=自分の評価を上げたい、という言葉ではないのです。 >真に「人のため」になることが好き これも、言ってみれば、人のためになることが好きだからやっている→自分が好きなことをやっている→利己的とも言えます。 人のためになることをやってのける人は、そんなこと気にしてません。 その尊敬できる人に聞いてみると良いでしょう。 「自分は助けてあげたいって思うからやってるだけで、まあやりたいことやってるんだから利己的ともいえるかもね」なんて答えるんじゃないかと思います。

回答No.2

何でしょうね…難しい話です。 個人的には、 将来の自分の子供の為と考えておくと、後先焦ることはないでしょう。 エゴでない愛情がこども達に伝わったとき、 こども達は幸せに満ちます。 例え話ですので、参考までに。

  • makoriri
  • ベストアンサー率27% (169/616)
回答No.1

成育ですかね。 僕も他人からよく言われています。 なぜ、他人のためにそこまでしてあげるの?と。 してあげてる気はありませんし、損得感情は欠片もないです。 ボランティア精神とも違います。 なぜなのか、自分自身わかりません。 ただ、黙って見てられないんですよね。 公道で故障したり事故して困っている人がいたら警察くるまで安全確保して交通整理とかやりますし、妻の出産立会に向かう途中でひったくり犯を追いかけ立ち会えなかったこともあります。 見返りを求めない性質ですが、これを利用して騙されることもありましたし、これからもあると思います。 こんな僕に公務員は向いてないと思ってます。

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