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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:靖国は 宗教であってはならない。国事犠牲者は尊ぶ。)

靖国は宗教ではなく国事犠牲者を尊ぶ

kkanreiの回答

  • kkanrei
  • ベストアンサー率23% (84/357)
回答No.2

「靖国神社で国事犠牲者を尊ぶ」ということ自体が宗教であって、政府がそれに関与してはならないと考えます。憲法でうたわてている政教分離の原則に反します。どうしても国事犠牲者を尊ぶ必要があるなら、広島のように、別途、神社・仏閣とは関係ない施設を造って、そこに犠牲者を尊ぶメニュメントをつくるといいと思います。 A級戦犯を国事犠牲者としてはならないと考える。日本は敗戦国である。敗戦の責任はだれかがとらなくてはならない。確かにA級戦犯が悪いわけではない。彼らは敗戦時に指導者であったというに過ぎない。しかし、彼らを尊ぶことは近隣職の反発を招く。ドイツがヒットラーを尊べないのと同じように。けんか両成敗ではない。負けた方が悪い。勝てば官軍、負ければ賊軍。

bragelonne
質問者

お礼

 kかんれいさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ どうしても国事犠牲者を尊ぶ必要があるなら、広島のように、別途、神社・仏閣とは関係ない施設を造って、そこに犠牲者を尊ぶメニュメントをつくるといいと思います。  ☆ そういう意味です。  表題では たとえば《靖国》というふうにカッコつきにしようかと思ったのですが 字数制限で出来ませんでした。  趣旨説明欄での説明では 伝わらなかったでしょうか。たとえば (8)などです。  ★ A級戦犯を国事犠牲者としてはならないと考える。  ☆ これにつきましては 言わば二重の捉え方をしているという意味になります。  すなわち その戦犯と見なされた行為――平和に対する罪でしょうか――については きちんと批判をしつづける。と同時に その人間という存在については どうしても排除するわけには行かない。排除したぶん 将来にも同じような犯罪行為がなされ続けるのではないかとおそれられるからです。  ★ 日本は敗戦国である。敗戦の責任はだれかがとらなくてはならない。確かにA級戦犯が悪いわけではない。彼らは敗戦時に指導者であったというに過ぎない。  ☆ いえ。責任は 権限に応じて負うものと考えられます。天皇にもあると考えます。(と言うより ご自身がマッカーサーには その旨を伝えたとかそうではないとか。日本国民に対してそれを言わないのは おかしい。また そのことを指摘してはいけないといったクウキは おかしい)。  ★ しかし、彼らを尊ぶことは近隣職の反発を招く。  ☆ ここでも 二重の見方です。いわゆる罪を憎んで人を憎まずといったことわざにもとづくようなことですが その行為は どこまでも認識し批判しつづける。と同時に その人間というわれらと同じ存在については これをとうとぶ。排除しない。  この考え方を 近隣諸国にも伝えて行くことになります。説得して行くことになります。  ★ ドイツがヒットラーを尊べないのと同じように。  ☆ たぶん これは 大きな議論になると考えます。  煮詰めた課題としては こうです。ヒトラーは 人間として出来損ないか? いや 生まれてきたその存在としては ほかの人びとと同じ人間である。か? です。  存在を排除し得ないとすれば 同じ人間として とうとぶべきです。排除したままでは とうとぶことを怠っていることになります。  ★ けんか両成敗ではない。負けた方が悪い。勝てば官軍、負ければ賊軍。  ☆ どちらの考え方もあるのではないでしょうか。  ですが 勝者の言い分や論理がただしいとは限らないのではないでしょうか? 戦争を避けられなくなった事態というのは どちらの側にも責任がある。のではないでしょうか。  

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     § 1 それは はじめに スサノヲのミコトに生起した。  スサノヲは 父のイザナキのミコトによって ウナハラの統治を任せられた。ウナハラは 死の世界であり これをつかさどるというのは 宗教の祭司となることである。  この職務を嫌った。というのは その呪術的な宗教の拒否を意味した。  スサノヲは 泣きいさちるばかりであった。泣きいさちることによって 宗教の拒否をつらぬいた。ここに 第一に 神の国が現われた。  § 2 宗教の拒否によって 神の信仰が生まれたというのは 不思議な歴史であり 体験であり 人間の謎です。  § 3 スサノヲは 第二に 姉のアマテラスオホミカミから この宗教の拒否の姿勢を疑われた。  おまえは おまえに任された死者の世界をまつりごつのではなく わたしと同じように生の世界の祭司となりたいから 泣きとおしたのではないか。  わたしたちは 自分のものを確かに自分のものだと証拠づけることは出来ても 自分でないものを それは自分ではないと証明することは 容易ではない。アリバイ(不在証明)の立証は 時としてそのものじたいとして 不可能であります。  不可能な証明が不可能であると分かると 疑う人であるアマテラスは みづからの身を隠した。検察官が 容疑をそのままにして 黙秘権(?)を使った。  ここでスサノヲは アマテラスに対して 泣きとおしたのではなく ちょうど狂を装ってのように やりたい放題のことをしたのです。登校拒否ではなく あらゆる非行を――天つ罪として考えられたそれを――おかした。宮の前に糞をしておいたりした。  § 4 ところがアマテラスは 疑う人でした。  とうとう身を隠したまま 姿を現わさなくなりました。  スサノヲの非行を その権威をもって むしろ容認していたのですが とうとう黙秘権を最後まで行使しました。  人びとは――人びとも――アマテラスの権威に従って スサノヲを責めず ただ身を隠してしまったアマテラスのお出ましを願わざるを得ず その方策を思案しました。  アマテラスは出て来ざるを得なかったのであって それは みづからの権威の消滅をうたがわなければならなくなったから。ここでスサノヲに 第二に 神の国が生起したのです。    § 5 宗教の拒否の肯定をも拒否するというかれの意志が証明された、ゆえ。  あえて破廉恥なことまでおこなうことによって 破廉恥ではないところの神の国が出現したというのは 不思議なことであり 人間の謎です。  アマテラスのお出ましを迎えた人たちは 権威者であるアマテラスに代わって ここでスサノヲの罪を裁きました。スサノヲをこのアマテラスの世界から追放したのです。  § 6 かれらは 宗教(呪術の園)が大好きなのでした。  宗教を拒否してはならないわけではなく 宗教の拒否を肯定してはならないわけでもなく しかし泣きいさちっているばかりではいけないと考えられた。  スサノヲは人びとによって その良心が問われたのではなく その泣きいさちりと非行とが 人びとの裁判にかけられました。スサノヲは 《千位(ちくら)の置き戸(罰金)を負わせられ また ひげを切られ 手足の爪も抜かれて 追放される》こととなった。  § 7 アマテラスは その権威ある主宰者の位を守りました。  かのじょ自身 呪術の園にいたのではありませんが 宗教(だから そのような日常のおこないとしてのオキテやナラハシ)によって生活する人たちを統治することに長けていました。  かのじょは この世に・この日の下に 新しいものは何もないとよく知っていました。この知識の中にないものに対しては 疑うことしか知らなかった。  だから疑うこと――疑うために疑うこと――をもって 呪術の園にある人びとの共同生活を統治していたのです。かのじょは この世の生 人間の世の中をよく知っていました。  § 8 このゆえにも神の国が生起しました。  言いかえると 死の世界と 宗教によるその統治とが 克服されたのです。原理的に。本質的に。人間の存在のあり方として。あるいは同じことで この世の生が――それが行き着くところは 死の世界だから 死が―― 克服されたのです。  死よ おまえのとげはどこにある?  § 9 この世で 時間的に歴史的に 神の国(人間にとってほんとうの現実)が見られることとなった。垣間見られた。  スサノヲに神がここで王となった。  この世の権威たるアマテラスの疑いが克服されたから。  この世〔のアマテラスの世界〕から追放されることによって この世に勝つことが出来たというのは 不思議な人間の歴史であり 謎です。  § 10 スサノヲは 追放され この世から・そして神からも 見放されたのですが ちょうどこの神から見捨てられたというそのこと自体において 神はスサノヲを見捨てていなかった。  スサノヲはこの世に死ぬことによって 復活しました。  ここで神の国が現われたのです。  すなわち日本人のそもそもの歴史のはじめ。  われわれの生活と社会の原点だ。  ☆ 自由なご批評・ご批判をたまわりたく・・・。

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